斎宮 (Saigu (a vestal virgin princess serving at the Ise-jingu Shrine and her residence))
斎宮(さいぐう、さいくうまたはいつきのみや、いわいのみや)は古代から南北朝時代 (日本)にかけて、伊勢神宮に奉仕した斎王の御所。
平安時代以降は賀茂神社の斎王(斎院)と区別するため、斎王のことも指すようになった。
伊勢斎王、伊勢斎宮とも称する。
斎宮の起こり
『日本書紀』崇神紀によれば、崇神天皇が皇女豊鍬入姫命に命じて宮中に祭られていた天照大神を倭の笠縫邑に祭らせたとある。
これが斎王(斎宮)の始まりとされる。
そして次の垂仁天皇の時代、豊鍬入姫の姪にあたる皇女倭姫命が各地を巡行した後に伊勢国に辿りついた。
そして、そこに天照大神を祭った。
この時のことを『日本書紀』垂仁紀は下記のように記している。
「斎宮(いはいのみや)を五十鈴の川上に興(た)つ。」
「是を磯宮(いそのみや)と謂ふ。」
これが斎王の忌みこもる宮、即ち後の斎宮御所の原型であったと推測される。
また垂仁紀は「天皇、倭姫命を以って御杖(みつえ)として、天照大神に貢奉(たてまつ)りたまふ」とも述べている。
以後斎王は天照大神の「御杖代(みつえしろ、神の意を受ける依代)」として、長く伊勢神宮に奉仕することとなった。
(ただし古代においては、斎王は必ずしも歴代天皇すべての御世に置かれたわけではない。)
(また、任期などもそれほど明確ではない。)
その後用明天皇朝を最後に斎王の伊勢派遣は一度途絶えた。
しかし、天武天皇の時代に正式に制度として確立される。
一説には天武天皇が壬申の乱の戦勝祈願の礼として伊勢神宮に自らの皇女を捧げたといわれる。
そして、万葉歌人として名高い大来皇女がその初代斎王となった。
これ以後、主に天皇の代替わりごとに新しい斎王が選ばれて都から伊勢へと旅立った。
そして、平安京遷都の後も南北朝時代まで続くこととなる。
なお、下記のの三点から、酢香手姫以前の斎宮は後世の虚構とする説がある。
『扶桑略記』には天武天皇の時に初めて大来皇女を斎宮を置いたという旨の記事があること。
前任の酢香手姫との間に約50年もの空白期間があること。
そして、稚足姫・荳角皇女・磐隈皇女・菟道皇女・酢香手姫皇女が伊勢に来ていないこと。
卜定
先代の斎宮が退下すると、未婚の内親王または女王 (皇族)の中から候補者を選び出す。
そして、亀卜(亀の甲を火で焙りひびで判断する卜占)により吉凶を占って新たな斎宮を定める。
新斎宮が決定すると、邸に勅使が訪れて斎宮卜定(ぼくじょう)を告げる。
伊勢神宮にも奉幣使が遣わされる。
そして、斎宮はただちに潔斎に入る。
なお、神に仕える斎宮は穢れを避ける。
また仏教も禁忌とする。
そのため、それらに関連する言葉も禁じられた。
例えば「死ぬ→なおる」「血→汗」「仏→中子(なかご)」「経→染紙(そめがみ)」「僧→髪長」というように、独特の忌み言葉を使用した。
初斎院
宮城内の便所(仮の場所)がト定で定められる。
そして、大内裏の殿舎が斎宮の潔斎所となる。
これを初斎院(しょさいいん)と呼ぶ。
場所はその時により異なる。
しかし、雅楽寮、宮内省、主殿寮、左右近衛府などが記録に残っている。
斎宮は初斎院で1年間斎戒生活を送ることが定められている。
だが、場合によってはもっと短期のことも多い。
野宮
初斎院での潔斎の後、翌年8月上旬に入るのが野宮(ののみや)である。
野宮は京外の清浄な地(平安時代以降は主に嵯峨野)を卜定し、斎宮のために一時的に造営される殿舎である。
そして、斎宮一代で取り壊されるならわしだった。
(故に現在では、嵯峨野のどのあたりに野宮が存在したのか、正確な位置は判っていない。)
斎宮は初斎院に引き続き、この野宮で斎戒生活を送りながら翌年9月まで伊勢下向に備えた。
なお、野宮は黒木(皮のついたままの木材)で造られた。
このため黒木の鳥居が野宮の象徴とされた。
『源氏物語』では六条御息所と前東宮の娘(後の秋好中宮)が「葵 (源氏物語)」帖で斎宮となった。
そのため、六条御息所がそれに同道することになった。
そして、『賢木巻』で光源氏と別れの舞台となるのもこの野宮である。
後に能の題材にもなっている。
発遣の儀
卜定から初斎院・野宮を経て3年目の9月、斎宮は野宮を出て禊を行う。
その後、天皇の待つ宮中大極殿に入り、出立の儀式「発遣の儀(はっけんのぎ)」に臨む。
この時天皇は一般の公式儀礼とは異なり、白装束で床に座を設けて東を向く。
斎宮を迎えた天皇は斎宮の額髪に手ずからツゲの櫛を挿す。
そして、御世の末長い栄えを願う意味で「都の方におもむきたもうな」と告げる。
(天皇が物忌などで儀式に出られない場合は、摂政・関白が代理で行う。)
このならわしは“別れのお櫛”と呼ばれた。
そして、儀式を終えて大極殿を出る時、斎宮も天皇も決して振り返ってはならない決まりであった。
なお、現在史料に残る最古の例は天慶元年(938年)、徽子女王(後の斎宮女御)の時の記録である。
だが、『本朝世紀』によるとこの時は貞観_(日本)3年(861年)の斎宮恬子内親王の例に倣ったとされる。
そのため、少なくともそれ以前から行われていたものと思われる。
群行
発遣の儀の後、斎宮は葱華輦(通常は天皇・皇后だけしか乗れない特別な輿)に乗り、いよいよ伊勢へ出発する。
一行は斎宮以下長奉送使(斎宮を伊勢まで送り届ける勅使)を始め、官人・官女以下およそ五百人に及ぶ大行列であった。
平安時代には都から伊勢までの行程を「群行(ぐんこう)」と呼んだ。
そして、平安京から勢多(ここで発遣の儀の時に挿した櫛を外す)、甲賀、垂水、鈴鹿、一志の五つの頓宮で禊を重ねながら、五泊六日の旅程で伊勢に到着する。
特に垂水頓宮と鈴鹿頓宮の間の鈴鹿峠は厳しい山越えであった。
道中最大の難所であった。
長暦2年(1038年)の斎宮良子内親王の伊勢下向の際、同行した藤原資房がその日記『春記』に伊勢までの道程を詳しく記録している。
群行に関する唯一の史料である。
また頓宮の正確な場所も現在では殆ど不明だ。
しかし、伝承地の一つである滋賀県甲賀市土山町の垂水斎王頓宮跡は国の史跡に指定されている。
そして、内田康夫の小説『斎王の葬列』の舞台となっている。
斎宮寮と祭祀
伊勢での斎宮の生活の地は、伊勢神宮から約20キロ離れた斎宮寮(現在の三重県多気郡明和町 (三重県))であった。
普段はここで寮内の斎殿を遥拝しながら潔斎の日々を送った。
そして、年に三度、6月の月次祭、9月の神嘗祭、12月の月次祭の「三節祭」に限って神宮へ赴き神事に奉仕した。
斎宮寮には寮頭以下総勢500人あまりの人々が仕えた。
137ヘクタールあまりの敷地に碁盤目状の区画が並ぶ大規模なものであった。
このようなことが、遺跡の発掘から明らかになっている。
特に、緑(青?)釉陶器の出土は特徴的である。
この色に何か意味があった可能性も考えられる。
なお、斎宮跡は1970年の発掘調査でその存在が確かめられた。
そして、1979年に国の史跡に指定された。
現在も発掘が続いている。
三節祭(9月の神嘗祭、6月・12月の月次祭)
斎王は内宮は16・17日、外宮は15・16日に行われる三節祭の二日目に参加する。
そして、太玉串を宮司から受取り、瑞垣御門の前の西側に立てる。
祈年祭(2月)
農耕の開始を告げる祭事として、多気、度会の神郡内の神社に、幣帛を分配。
新嘗祭(11月)
収穫を祝う祭事。
退下
斎宮が任を終えることを、8世紀から10世紀頃までは退出と称した。
しかし、その後は退下(たいげ)または下座と言った。
斎宮の退下は通常天皇の崩御・譲位の際と定められる。
しかし、それ以外にも斎宮の父母や近親の死去による忌喪、潔斎中の密通などの不祥事、また斎宮本人の薨去による退下もあった。
初斎院や野宮で潔斎中に退下・薨去した斎宮も少なくない。
そのため、歴代の斎宮すべてが群行を果たしたわけではない。
また群行の後伊勢での在任中に薨去した斎宮はそのまま現地に葬られたらしい。
(伊勢で薨去した斎宮は平安時代の隆子女王と惇子内親王の二人である。)
(いずれも斎宮跡近くに墓所と伝えられる御陵が残っている。)
また退下の後も前斎宮はすぐに都へ戻ることはなかった。
そのまま数ヶ月の間伊勢で待機し準備が整った後に、奉迎使に伴われて帰京した。
なお、帰京の道程は二通りあった。
天皇譲位の時は群行の往路と同じ鈴鹿峠・近江路を辿った。
しかし、その他の凶事(天皇崩御、近親者の喪など)の場合には伊賀・大和路(一志、川口、阿保、相楽)を経て帰還するのが通例であった。
どちらの行程も最後は船で淀川を下った。
そして、難波津で禊を行った後河陽宮を経て入京した。
また、古代の斎宮については、酢香手姫皇女だけが、任を終えて葛城に移ったと記されている。
任を終えた他の斎宮は、何処に移動したのか記されていない。
単なる記載漏れと考えるか。
当然帰るべき所(例:天皇の宮の周囲)が決められていたので、省略されたと推測するか。
それとも、酢香手姫皇女の移転先である葛城の記載が、他の斎宮の移転先をも代表して書かれていると見るかである。
帰京後の斎宮
役目を終えて京に戻った前斎宮のその後の人生については、少数の例外を除いてあまり知られていない。
律令では本来内親王の婚姻相手は皇族に限られた。
そのため、奈良時代までは退下後の前斎宮が嫁いだのは天皇もしくは皇族のみであった。
平安時代以降も内親王で臣下と結婚したのは雅子内親王(藤原師輔室)ただ一人であった。
(ただし女王ではもう一人、藤原教通室となったせん子女王がいる。)
また藤原道雅と密通した当子内親王は父三条天皇の怒りに触れた。
そして仲を裂かれている。
結婚自体は禁忌ではなかったらしい。
だが、多くの前斎宮は生涯独身でひっそりと暮らしていたものと思われる。
なお、天皇と結婚した前斎宮は、井上内親王(光仁天皇皇后、後廃位)、酒人内親王(桓武天皇妃)、朝原内親王(平城天皇妃)、徽子女王(村上天皇女御)の4人であった。
特に井上・酒人・朝原の3人は母娘3代にわたり斎宮となった稀な例でもあった。
(南北朝時代の懽子内親王は光厳天皇退位後に入内。)
その後院政期に入ると、未婚のままで皇后・女院となる内親王が現れる。
この初例は白河天皇の愛娘媞子内親王(郁芳門院)であった。
彼女は斎宮経験者であった。
そして以後、斎宮または斎院から准母立后を経て女院となる内親王が南北朝時代まで続いた。