河越館 (Kawagoe-yakata)
河越館(かわごえかん/かわごえやかた)は、埼玉県川越市上戸に所在した城。
高麗台地の先端部にある。
概要
坂東八平氏である秩父氏の嫡系にあたる一族河越氏の館である。
河越館を興したのは2代葛貫能隆とされる。
河越氏は、平安時代に河越荘の開発領主として勢力を伸ばし、自領を後白河天皇に寄進し、その荘官となった。
河越重頼のとき源頼朝に重用され、その娘が源義経の妻(郷御前)となったが、義経没落の際には縁坐して誅された。
しかしその後も河越氏は依然として鎌倉幕府御家人の上位に位置し、室町時代に至るまで、有力武将として活躍した。
この間、河越館は河越氏の居館として継続して用いられたものと考えられる。
河越氏は、応安元年(1368年)武蔵平一揆以降没落し、一揆の大将河越直重も伊勢国に敗走して河越館に関する記録も歴史の表舞台から消えていった。
しかし、戦国時代 (日本)初頭の長享の乱の際に関東管領上杉顕定が河越城を攻撃するために7年にわたって上戸に陣を置いたと伝えられており、上戸においてそれだけ長期間において陣が構えられる場所は河越館以外に考えられないとされている。
また、『新編武蔵風土記稿』には「上戸に大道寺政繁の砦があった」と記されており、その砦は河越城築城後も出城として機能していたと推測され、豊臣秀吉の小田原征伐の際に川越城落城とともに廃城となったと考えられる。
なお、館跡の一部は現在は時宗(じしゅう)の寺常楽寺になっているが、これは河越館の持仏堂に始まるといわれる。
構造
遺跡は、現在の川越市市街地の北西、入間川西岸に接する平地にあり、その南東部を占める常楽寺境内をはさんで、東西約150メートル、南北約200メートルの方形の区画(曲輪)を思わせる高さ1メートルないし3メートルの土塁およびその外側の堀が一部遺存しており、全体では東西約240メートル、南北約300メートルの規模を有する。
土塁は一条、空堀は二重になっており、館跡北東の幅約11メートル、深さ3メートルの外堀はかつて入間川と繋がっていたと思われる。
発掘調査と史跡指定
川越市教育委員会による1971年(昭和46年)から1975年(昭和50年)にかけての発掘調査によって、平安時代末期から戦国時代にかけての堀や井戸、住居などの遺構が検出され、『新編武蔵風土記稿』が上戸村常楽寺の挿絵として描いた河越館跡のほぼ全容が解明されるに至った。
その結果、遺跡はとくに鎌倉時代から室町時代にかけての関東武士の中世城館の様相を考察する考古資料としてきわめて重要であるとして、1984年(昭和59年)12月6日、「川越館跡」(かわごえやかたあと)の名称で国の史跡に指定された。
また、1989年(平成元年)、川越市が史跡管理団体に確定した。
交通アクセス
東武東上本線霞ヶ関駅 (埼玉県)から徒歩15分
東武東上線霞ヶ関駅または川越市駅、川越線西川越駅から川越シャトル13系統、上戸バス停下車徒歩5分