石舞台古墳 (Ishibutai-kofun Tumulus (a tumulus in the late Kofun period [Tumulus period] in Asuka Village))
石舞台古墳(いしぶたいこふん)は、奈良県明日香村にある古墳時代後期の古墳。
昭和27年(1952年)3月27日、国特別史跡に指定される。
概要
古くから、巨石(花崗岩)で作られた玄室が露出しており、その形状から石舞台と呼ばれていた。
玄室は、長さ約7.7m、幅約3.5m、高さ約4.7m、羨道は長さ約11m、幅2.5m。
石室内部に排水施設がある。
約30の石が積まれ、その総重量は2,300tに達すると推定されている。
石は古墳のかたわらを流れる冬野川の上流約3キロ、多武峰のふもとから運ばれた。
封土(盛り土)の上部が剥がされているため、その形状は、2段積の方墳とも上円下方墳とも下方八角墳とも推測されている。
また、一辺51mの方形基壇の周囲に貼石された空濠をめぐらし、さらに外提(南北約83m、東西81m)をめぐらした壮大な方形墳であるという。
外提の北西隅の外には刳坂(くりぬき)石棺を納めた横穴式石室があり、発見当初は陪塚(ばいちょう)であろうと推測されていた。
しかしその後の調査で西側にも7基の横穴式石室が見つかりいずれも石室内が整地されていた。
このことなどから、石舞台古墳の築造にあたってはその周辺にあった古墳を削平し移行したと考えられている。
1933年(昭和8)と1935年(昭和10)に京都大学(当時)の浜田耕作らが中心となり、発掘調査が行われた。
しかし、すでにほとんどの埋葬品が盗掘にあった後であり、石棺の欠片等が発見されるに留まった。
1954年(昭和29)から1959年(昭和33)にかけて古墳の復元整備事業が行われた。
この時には外側の堀を掘るために上を通っていた県道が曲げられたという逸話がある。
『日本書紀』の推古天皇三十四年(626年)五月の条に次のようにある。
「大臣薨せぬ。」
「仍りて桃原墓に葬る。」
大臣は、馬子のこと。
石舞台古墳は、蘇我馬子の墓であったとする説が有力である。
封土が剥がされ、墓が暴かれたのは、蘇我氏に対する懲罰とする説もある。
水野正好奈良大学名誉教授は石の種類、築造年代などから蘇我稲目説を唱える。
なお、昼間は公開されており、石の下に入ることが出来る。
名称
石舞台という以外に地元では「石太屋」(いしふとや)、「石蓋」(いしぶた)などの名前で呼ばれていた。
「狐が女の姿に化けて古墳の上で踊ったことから石舞台と名付けられた」という伝説については、古墳のすぐそばで生まれ育った網干善教は、そのような話を自分は聞いたことがなく近年に創作された話であろう、としている。