神籠石 (Kogo-ishi)

神籠石(こうごいし)または神籠石式山城(こうごいししきやましろ)とは古代に築造された山城で、「日本書紀」「続日本紀」に記載がなく、遺構でしか存在の確認できないものを指す。
古代山城(朝鮮式山城)の比定地にされることもあるが、築造主体など建設の経緯は一切不明である。

特色は、標高200~400mの山頂から中腹にかけて数kmにわたって一辺が70cm位の切石(きりいし=岩を割って作った石)による石積みを配列し、谷を通過するときには水門を設けていること。

八木奘三郎は、古墳石室の構築法との比較から、神籠石の築造年代は推古朝(7世紀初)以前としている。
鏡山猛は、列石前面の掘立柱穴の間隔が約3mで並んでおり、唐尺(一尺=29.5cm)の十尺(2.95m)とほぼ等しいことから唐尺が使われた7世紀中頃以降の築造とした。
しかし、南北朝時代(中国)の小尺(一尺=24.5cm)でも十二尺(2.94m)とすると殆ど変らない値なので7世紀中頃以降の築造とするには疑問がある。
北部九州から瀬戸内沿岸にかけて、16箇所が知られる。

神籠石は、当て字で皮籠石、交合石、皇后石などとも書き、「こうご」の本来の意味は分かっていない。
磐座(いわくら)のことだったという説がある。

発見と論争

神籠石が学会に発表されたのは、明治31年に小林庄次郎が筑後・高良山神籠石を「霊地として神聖に保たれた地を区別したもの」として紹介したのが最初。

明治33年に九州所在の神籠石を踏査した八木奬三郎が「城郭を除いては、他にこの類の大工事なかるべし」として城郭であることを主張して以後、この神籠石の性格について霊域説と城郭説との論争が展開された。

昭和38年(1963年)の佐賀県武雄市「おつぼ山」神籠石の発掘調査で、列石の背後にある版築によって築かれた土塁と、列石の前面に3m間隔で並ぶ堀立柱の痕跡が発見され、山城であることが確定的となった。

ただし、散見しただけでもそれぞれの神籠石の差異は大きい。
御所ヶ谷のように「最初期形成時代以降にかなりの手が入っていると思われるもの」や、雷山のように「生活域、食料生産域との隔絶性が高く、水も確保しづらく、籠城に向かず、、祭祀遺跡との位置関係が特殊であるもの」、おつぼ山のように「稲作農耕地域の小丘陵に設置されているもの」などである。

現在まで、神籠石が何時頃作られたかも判明しておらず、成立年代は同じであったとしても、これほど様々に状況の違うものを現在的視点から神籠石と総称している可能性は高い。
おつぼ山の調査結果は「神籠石の中に山城として使われていたことがあるものもある」ことを確定しただけに過ぎない。
生活域に近い神籠石の場合、遺構中からの発掘物が無批判に神籠石の性格を規定できるものではないのも当然である。

また、仮にこれらすべてが単純に古代山城であった場合でも、それらが戦略拠点たりえた状況を含めて、そのようなものが西日本の広範な地域に存在していること、現在までほとんど知られていなかったことは、大和王朝成立前後や、その過程の古代史を考える上で非常に重要なはずである。
しかし、現代(21世紀初頭)の歴史研究を取り巻く環境の中で強い興味を持って捉えられることは少ないことから、歴史がどのように形成されていくのかを現代に於いて知る極めて有効な事例であるとの声もある。

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