藤ノ木古墳 (Fujinoki Tumulus)
藤ノ木古墳(ふじのきこふん)は奈良県生駒郡斑鳩町にある古墳。
現在は、地名を古墳名にしている。
昔は、「陵山」(みささぎやま)と呼んだらしい。
玄室内から大量に出土した土師器、須恵器から古墳時代後期、6世紀第4四半期(576~600)の円墳であると推定されている。
この時期に畿内では前方後円墳の造営が終わりに近づいていた。
古墳は法隆寺西院伽藍の西方約350メートルのところに位置する。
なお現在は周辺が公園として整備されており、説明の看板なども多数ある。
そのため法隆寺周辺の観光スポットとなっている。
(右の写真)
概観
発掘調査結果から直径48メートル、高さ約9メートルの円墳であるとされている。
しかし、周りの水田や建物から少しずつ削り取られていている。
現状は、高さ約7.6m、最大径約40mである。
大和での埴輪の設置は6世紀前半で終わったと考えられていた。
しかし憤丘裾には埴輪が並べられていて、従来の見解を訂正することになった。
石室・石棺
未盗掘の横穴式石室で、家形石棺に成人男性二人が合葬されていた。
横穴式石室の設計は、現墳丘裾から盛り土を少し取り除いたところに羨道の入り口(羨門)がある。
その羨道を少し進むと両袖式の玄室に至る。
この玄室は円憤の中心部に設けられている。
石室規模は、全長14メートル弱。
玄室の長さは西壁側で6メートル強、玄室の幅は3メートル弱、高さ3メートルに近い。
羨道の長さは7メートル強、羨道幅2メートル強である。
石室の床は礫が敷かれ、その下を排水溝が、玄室中央から羨道を通って憤丘裾へと敷かれている。
石棺は、玄室の奥の方に安置されていた。
石材は二上山の白色凝灰岩で造られている。
石棺の内や外は、赤色顔料(水銀朱)で塗られている。
棺の大きさは、約235×130×97立方センチである。
蓋は約230×130平方センチで、厚さが約55~52センチぐらいであり、縄かけ突起がついている。
被葬者
副葬品が金銅製の馬具や装身具類、刀剣類などからこの当時の支配階級の一人であったと考えられている。
だが、円墳であることから大王クラスではなく、その一族の人物であったと推測されている。
前園実知雄(奈良芸術短期大学教授)や白石太一郎(奈良大学教授)は、2人の被葬者が『日本書紀』が記す587年6月の暗殺時期と一致する事などから、聖徳太子の叔父で蘇我馬子に暗殺された穴穂部皇子と、宣化天皇の皇子ともされる宅部皇子の可能性が高い事を論じている。
一方、井沢元彦は副葬品や埋葬の様子から「元々穴穂部皇子の陵墓であった所に同母弟崇峻天皇が合葬された」との説を主張している。
また、南側被葬者については、女性説も存在する。
発掘調査
1985年(昭和60年)から2003年にかけて5次にわたり斑鳩町教育委員会や奈良県立橿原考古学研究所により発掘調査が行われた。
第1次調査(1985年7月22日-12月31日)
1985年からの第1次発掘調査では全長13.95メートルの横穴式石室と刳抜(くりぬき)式の家形石棺が検出された。
石棺と奥壁の間からは金銅鞍金具などの馬具類や武器武具類、土師器、須恵器などが出土している。
(「金銅」は銅に金メッキをほどこしたもの)
馬具は三組見つかっており、金銅製のものが古代東アジア世界で見つかっている馬具の中でも最も豪華な物の一つであるといわれている。
この金銅製の鞍は、鞍の形が鮮卑式であり、パルメット(仏教式唐草模様)、鳳凰、龍、鬼面、怪魚、象、獅子、兎などのモチーフが使われている。
鮮卑系国家北燕の首都があった中国遼寧省朝陽市付近で発掘される鞍金具に同様のモチーフを持つ例が見られる。
だが、日本、新羅、百済、伽耶いずれでも他にはまだ同様の鞍の出土例がなく非常に珍しいものである。
第2次調査(1988年5月9日-7月8日)
墳丘の形態、規模の確認。
ファイバースコープによる石棺内の調査。
第3次調査(1988年9月30日-12月28日)
続いて1988年には未盗掘の家形石棺内部の調査が実施された。
2体の人骨(男性二人の合葬である可能性が高い)のほか、大刀・剣6振、金銅製冠などの装身具、鏡類、玉類などの副葬品が検出された。
出土品のなかでも、金銅鞍金具は動物意匠などの精緻な透かし彫りをほどこした高度な金工技法を示すものである。
大陸からの舶載品と推定されている。
歩揺付金銅製金具からは二山広帯冠が復元されている。
古墳は国の史跡に指定されている。
また、出土品一括は日本の古墳文化研究上価値の高いものとして、1988年に重要文化財された。
その後2004年に国宝に指定され、奈良県立橿原考古学研究所附属博物館において常設展示されている。