飛鳥浄御原宮 (Asuka no Kiyomihara no Miya Palace (an ancient Imperial Palace where Emperor Tenmu and then Emperor Jito lived))
飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや、あすかきよみがはらのみや)は、7世紀後半の天皇である天武天皇と持統天皇の2代が営んだ宮。
奈良県明日香村飛鳥に伝承地がある。
近年の発掘成果により同村、岡の飛鳥京跡にあったと考えられようになっている。
『日本書紀』天武天皇元年是歳の条に、下記のようにある。
「宮室を岡本宮の南に営る。」
「即冬に、遷りて居します。」
「是を飛鳥浄御原宮と謂ふ。」
また、朱鳥元年七月の条に下記のようにある。
「元を改めて朱鳥(あかみどり)元年という。」
仍りて宮を名づけて飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)謂ふ。」
これを信じれば、「飛鳥浄御原宮」という宮号は天武十五年(朱鳥元、686)に名づけられたことになる。
672年12月~686年7月までは、この宮の名がなかったことになる。
飛鳥の諸宮の名は、豊浦宮、小墾田宮、飛鳥岡本宮、後飛鳥岡本宮などで分かるように地名をつけている。
異なるのが飛鳥浄御原宮である。
「浄御原」は一種の嘉号であり、朱鳥年号とともに、不祥を祓い天皇の病気平癒を願ったものであるという。
大化前代の宮(皇居)は、多く飛鳥地方の中で天皇の代ごとに移っていた。
大化の時に孝徳天皇は難波(なにわ)に難波宮(ながらのとよさきのみや)を造り、天智天皇は近江大津宮に移った。
672年の壬申の乱に勝利し大海人皇子が、天智天皇・弘文天皇の都であった近江国(滋賀県)の近江宮から飛鳥に都を戻すべく造営した。
翌673年に大海人がこの宮で天武天皇として即位した。
その後、天武天皇とその夫人で次の天皇となった持統天皇は、20年以上に渡ってこの宮で律令国家の基礎を築く事業を進めたとされる。
694年に藤原京に遷都され、廃止された。
日本最初の律令である飛鳥浄御原令もここで編纂された。
7世紀に編纂された『日本書紀』から、内安殿など様々な名前をもった殿舎が飛鳥浄御原宮に存在したことが判明している。
2004年、飛鳥京跡の発掘を進めていた奈良県立橿原考古学研究所は、大型の高床式建物跡を発見した。
飛鳥浄御原宮の「正殿」であったと判断した。
宮域は、南北800メートル、東西500メートルくらいの範囲に収まる。