井筒 (能) (Izutsu (Noh play))
『井筒』 (いづつ) は、能を代表する曲の一つである。
世阿弥作と考えられ、世阿弥自身が世子六十以後申楽談儀でこの曲を「上花也」(最上級の作品である)と自賛するほどの自信作であった。
多くの場合男性が女装して演ずるシテの女が、更に男装するのも特徴である。
登場人物
前シテ 里の女(化身)
後シテ 井筒の女(霊)
ワキ 旅の僧
アイ 里の男
正面先に井筒の作リ物。
薄の穂が植えてある。
概略
『伊勢物語』23段の「筒井筒」に取材した複式夢幻能である。
若い女性をシテとした、序ノ舞を舞う大小ものである。
幼馴染の在原業平と紀有常女との間の情を、「井筒の女」と呼ばれた紀有常女の霊を主人公にして描く。
なお、井筒は井戸の周りの枠のことである。
前段
旅の僧が名ノリ笛とともに登場する。
僧は諸国を修行しながら見物しており、その途中、大和国石上(いそのかみ,現在の奈良県天理市)にある在原寺に立ち寄った。
そこは昔、在原業平とその妻が住んでいた所だったが、今はもうその面影は無かった。
在原寺はすでに廃寺になっており、業平とその妻との名残の井筒からも一叢のすすきがのびていた。
僧が業平夫婦を弔っていると、次第の囃子に乗り、里の女(実は業平の妻の霊)が現れ、業平の古塚に花水を手向ける。
僧が彼女に話しかけると、彼女は業平の妻である事を隠しつつも、想い出の井戸を見つめ、昔を語り出す。
他の女のもとに通う夫をひたむきな愛情でつなぎ止めた過去を語る(詳細は筒井筒参照)。
そして彼女の思い出は、業平との馴れ初めへと向かう。
「昔この国には幼なじみの男女がいました。」
「二人は井筒のまわりで仲良く語り合ったり、水面に互いの姿を移して遊んだりしていました。」
「しかし、年頃になると、互いに恥ずかしくなり疎遠になってしまいました。」
「しかしあるとき、男がこんな歌を女に送ったのです。」
「筒井筒 井筒にかけし まろがたけ 生いしけりしな 妹見ざるまに」
「昔あなたと遊んでいた幼い日に、井筒と背比べした私の背丈はずっと高くなりましたよ。」
「あなたと会わずに過ごしているうちに」
「女は男に歌を返しました。」
「くらべこし 振分髪も 肩すぎぬ 君ならずして 誰かあぐべき」
「あなたと比べあった、振り分け髪も肩を過ぎてすっかり長くなりました。」
「その髪を妻として結い上げるのはあなたをおいてはありえません。」
こうして二人は結ばれたのだと語る。
最後に彼女は自分が業平の妻(の霊)である事をあかし、去ってゆく。
(ここで片幕で舞台に登場していたアイの居語(いがたり)となる。)
(間狂言の口から同様の物語が語られる。)
後段
その晩、僧は寺に一夜を籠ることにする。
一声の後、先の女が僧の夢の中に再度あらわれる。
彼女は業平の形見の冠と直衣(=当時の貴族の普段着)を身に着け、男装していた。
そして「恥ずかしいことだが」と言いつつ、在りし日の業平をまねて序ノ舞を舞う。
舞いながら彼女は、帰るはずもない夫をいつまでも待ち続けた昔を思い出す。
そして彼女の追憶は業平に求婚されたその日へと再び向かう。
彼女は業平が自分に送ってくれた「筒井筒」の歌を口ずさむうちに、自分が老いてしまった事に気付かされる。
彼女の足は、自然に思い出の井筒へと向かう。
そして業平の直衣を身に着けたその姿で、子供の頃したように、自分の姿を水面にうつす。
水面にうつったのは、業平その人の面影だった。
ここで地謡が止まり、舞台は一瞬静寂につつまれる。
「なんて懐かしい...」そう呟いて、彼女は泣きくずれる。
そして萎む花が匂いだけを残すかのように彼女は消え、夜明けの鐘とともに僧は目覚めるのだった。
観賞
伊勢物語の筒井筒の物語で、女は縁談を断って愛する男を待ち続け、結婚後も浮気する夫の帰りを待ち続けている。
それゆえ能の井筒では筒井筒の物語を、愛する夫を待ち続ける物語として再解釈しており、待ち続ける辛さや喪失感を詠った和歌がいくつか追加されている。
(和歌の節参照)
また井筒は時間の流れと逆順に構成されている。
夫の死後の弔いから始まり、浮気する夫を待ち続けた話へと向かい、そして最後に物語の核心である夫との馴れ初めへと向かう。
これにより物語は「夫への一途で純粋な恋の思いへと集中」してゆく。
伊勢物語では「筒井筒、井筒にかけしまろがたけ、過ぎにけらしな」と詠われていたところが「生(お)いしけりしな」に改編されている。
これは物語後半への伏線になっている。
「筒井筒」を口ずさんだシテは「生(お)いしけりしな」という言葉から自分が老(お)いてしまった事に気づく。
井筒では伊勢物語24段から「真弓槻弓...」の歌の一部が引用されており、それゆえシテの女を24段の女と同一視する解釈がある。
この解釈に従えば、竜田山の件があった後、夫は宮廷勤めの為都にいってしまい、そのまま音沙汰がなくなる。
女は帰らぬ夫を待ち続けたが、3年後、ついに諦めて別の男の元へと嫁ぐ事にする。
しかし嫁ぐ事が決まった日に夫が帰ってくる。
事情を察した夫は身を引いて去ってしまった。
女は夫を追いかけるが、追いつく事ができないまま力尽きて死んでしまう。
またシテが業平をまねて舞う事に関して、次のような意見がある。
「業平を恋慕う表現として、その形見を身につけることにより、業平が憑依するような、あるいはふしぎな一体化をとげたような充足感が生れて、二人の愛が全き姿であった日に遡りつつ一つの陶酔を生むことが可能だと考えられた」
和歌
井筒では数々の和歌が引用されている。
まず前段、シテの女が僧に夫との想い出を話す中、女はむかし夫に詠んだ歌を回想する。
伊勢物語23段「筒井筒」
風吹けば 沖つ白浪 竜田山 夜半にや君が ひとりこゆらん
風が吹くと沖の白波が立つ、ではないがその龍田山を越えて、夜道をあの人が一人でいくのが心配だなあ。
そして「筒井筒」と「くらべこし」が詠まれたあと、女は去ってゆく。
後段、夫の直衣を身に着けて女が僧の夢の中に現れたとき、帰らぬ夫を待ち続けた頃に詠んだ歌を思い出す
伊勢物語17段
徒なりと 名にこそ立てれ 櫻花 年に稀なる 人も待ちけり
風にすぐ散ってしまう桜は不実だと言われていますが、一年のうち滅多に来ないあなたをもちゃんと待ってこのようにきれいに咲いているのですよ。
私の事を不実だとおっしゃるけれど、あなたのほうがよほどそうです。
こう詠んだ為、自分は「人待つ女」とも呼ばれたのだと語る。
そして「筒井筒の昔から「真弓槻弓年を経」た今、夫の真似をして舞いを舞ってみよう」と呟いて舞いはじめる。
(24段の物語の詳細は「観賞」を参照)
伊勢物語24段
梓弓 真弓槻弓年を経て 我がせしがごと うるはしみせよ
誰が夫でもよい。
その人と長い年月連れ添って、わたしがあなたをいとしんだように、新しい夫と仲よくしなさい
月の光に照らされながら舞っているうちに女は「「月やあらぬ 春や昔」と詠んだのはいつのことだろうか」と呟く。
古今和歌集巻十五 恋歌五 747
月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ 我が身ひとつは もとの身にして
月は昔と同じ月ではないのだろうか、春は昔と同じ春ではないのだろうか。
あの方のいらっしゃらない今、一人で眺める月も過ごす春も、去年とは違うように感じられるが、私だけは今もあなたを想い続けている
こうして待つ事の辛さを詠んだ歌が回想された後、最後に再び「筒井筒」の歌が詠まれ、「生(お)いしけりしな」という言葉から自分が老いてしまった事に気付く。
そして彼女が想い出の井筒をのぞきこむと、そこに夫の面影を見出し、泣きくずれるのである。
演じ方
いずれも「読んで楽しむ能の世界」からの重引。
慶長期の能役者・下間仲孝の『童舞抄』
「名ばかりは在原寺の跡古りて」のところは「古跡を恋慕するこころを外想に顕すべし」
移り舞(=(業平を)まねて舞う事)は「男はかせ」の舞であり、「此キリ(=終末部分)男博士、女博士まじれり」
井筒をのぞきこむ部分に関して、「みればなつかしや我ながらなつかしやと云所に陰陽の見樣といふ事あり」
紀州藩の能役者・徳田隣忠(1679-?)の『隣忠秘抄』
移り舞に関して、「男博士にする女博士なれども、跡の出羽(=囃子の名前)より男博士にするは、昔男に移り舞といふ事なり」
井筒をのぞきこむ部分に関して、「作り物の前へ行き立ち、扇を笏のやうに立て、両手に持ちて、見ればなつかしやと井の内みる」
また、名人喜田六平太(十四世)は井筒に関して「ありゃぁ、祝言の舞いだよ」と述べていた。