亥の子餅 (Inoko mochi (a rice cake imitating a little wild boar))
亥の子餅(いのこもち)とは、亥の子に際して作られる餅。
玄猪餅(げんちょもち)。
亥の子(旧暦10月(亥の月)の亥の日)の亥の刻(午後10時ごろ)に食べられる。
俳句の季語では冬にあたる。
亥の子餅を販売する菓子店があるが、新暦10月よりも旧暦10月(新暦11月)に入ってから販売されることが多い。
形状
名称に亥(イノシシ)の文字が使われていることから、餅の表面に焼きごてを使い、猪に似せた色を付けたものや、餅に猪の姿の焼印を押したものがある。
また、単に紅白の餅、餅の表面に茹でた小豆をまぶしたものなど、地方により大豆、小豆、ササゲ、胡麻、栗、柿、飴など素材に差異がある。
このように、特に決まった形・色・材料はない。
概要
「古今要覧稿」(明治38年~40年刊行)に亥の子餅の項目があり、「蔵人式」(橘広相撰)の中に、禁中年中行事の1つとして記されている。
橘広相は貞観_(日本)年間に存命していたことから、いつごろから、亥の子餅に関する行事が行なわれいたか定かではないが、貞観年間には宮中行事として、行なわれていたと推察される。
宮中の年中行事
かつては、旧暦10月・上亥日に禁裏では、亥の子餅を群臣に下賜していた。
能勢からの亥の子餅が献上されていたが、宮中においても亥の子餅が作られた。
官職の高低により、下賜される亥の子餅の色(黒・赤・白)と包み紙の仕様に厳格な決まりがあった。
亥の子餅の色は、公卿までは黒色の餅・四品の殿上人までは赤色の餅などである。
また、3回にわたって、亥の子餅の下賜があったが、3度とも同じ色の餅ではなかった。
賞玩のために色(黒・赤・白)を変えていたという。
室町幕府の年中行事
室町幕府の年中行事として、旧暦10月・上亥日に亥子祝い・玄猪餅進上があった。
江戸幕府の年中行事
江戸幕府の年中行事として、亥の子を祝する行事(玄猪の祝い)があった。
10月朔日(ついたち)は玄猪の祝いを行う。
この日より囲炉裏を開いて、炉で鍋を焼き、火鉢で火を盛る習慣があった。
幕府では、大名・諸役人に対して、10月朔日、七つ半(午後5時)に江戸城への登城を命じ、征夷大将軍から白・赤・黄・胡麻・萌黄の5色の鳥の子餅を拝領して、戌の刻(午後7~9時)に退出する。
玄猪の祝いに参加する将軍・大名・諸役人の服装は熨斗目長裃(のしめながかみしも)と規定されている。
また、この日の夜は江戸城の本丸・西の丸の大手門・桜田門外・下乗所(げじょうしょ)に釣瓶(つるべ)式の大篝火(かがりび)が焚かれる。
概要
1870年(明治3年)まで、摂津国能勢(のせ)(現在の大阪府豊能町)にある木代村(きしろむら)・切畑村(きりはたむら)・大円村(おおまるむら)から、毎年、旧暦10月の亥の日に、宮中に亥の子餅を献上していた。
そのことから、能勢には亥の子餅に関して以下のような伝承が伝わっている。
伝承
仲哀天皇9年、12月に神功皇后は、自ら将帥となり、三韓に出兵した。
筑紫に還啓された後、皇太子(応神天皇)が誕生した。
仲哀天皇10年、2月に穴門・豊浦宮を出発し、群郷百僚を率いて海路をとった。
大和に凱旋する途中に、皇太子の異母兄である香阪(かごさか)・忍熊(おしくま)の二王子が、やがて皇太子が即位することを嫉(ねた)んだ。
二王子が相謀り、皇太子を迎え討って殺害しようと大軍を率いた。
上陸するのを待つ間、戦の勝敗を卜(ぼく)して(占って)、能勢(大阪府)の山に入り、「祈狩」(うけいがり)を催した。
「戦に勝つならば、良獣を獲られるであろう」と言っていた。
まもなく、大イノシシが現われれ、香阪王に飛び掛った。
香阪王は驚いて、近くの大樹によじ登ったが、猪は大樹の根を掘り起こし、遂に香阪王は死亡した。
忍熊王はこの事を聞き、怪しみ恐れて、住吉に軍勢を退いた。
神功皇后はこの事を聞かれて、武内宿禰に忍熊王を討伐を命じた。
忍熊王は戦に破れ、山城国宇治市に退き、さらに近江国瀬田に逃れたが、死亡した。
これにより、皇后・皇太子は、無事に大和の都に凱旋した。
その後、神功皇后が崩御し、皇太子(応神天皇)が即位した。
応神天皇は、皇太子の時に、猪に危難を救われた事を思い出して、吉例として、詔を発して、能勢・木代村、切畑村、大円村より、毎年10月の亥の日に供御を行うように命じ、亥の子餅の献上の起源であると言い伝えらえれている。
調理過程
能勢から、宮中へ献上される亥の子餅(能勢餅(のせもち)とも言う)(近世ごろ)の調理方法が「禁裏献上 能勢のおいの子」に記載されている。
10月に入ると、猪子役人の当番の者が御所御賄所に出頭し、御用の数を伺う、「合数伺い」を行う。
この時に、御賄所より、その数(合数)を記した御書付を下される「御書下げ」があり、調理準備に入る。
1合とは、1箱のことである。
献上の数は一定していないが、約100合から150合である。
亥の日7日前になると、献上する亥の子餅を作る家には、亥の子餅を調理する場所・道具・使用する井戸を木代村では、真言宗・善福寺(どんどろ大師善福寺)、切畑村は法華宗・法性寺の僧侶を請じて、それぞれ清めの加持を行った後に調理が始まる。
糯米(もちごめ)を洗い清めて、水に浸す。
蒸篭(せいろう)に入れて、糯米を蒸す。
別に小豆(あずき)を蒸した糯米に合せる。
合せた糯米を挺樋(ねりおけ)と呼ばれる四斗樽の樋に投じて2本の棒を用いて「エイエイ」と掛声をしながら、こねつける。
やがて、淡紅色の猪の色に似た餅が出来る。
長さ6寸・幅4寸・深さ1寸5分の箱に餅を詰め、別に煮た小豆の釜に沈殿した餡を流しかける。
餡を流しかけた餅の上に、薄く切った方形に切ったクリの実を6個並べ、その上に更に、熊笹の葉2枚で覆う。
餅は猪肉、栗は猪の骨、熊笹は牙を模しているという。