儒教 (Ju-kyo (Confucianism))
儒教(じゅきょう)とは、孔子を始祖とする思考・信仰の体系である。
紀元前の中国に興り、東アジア各国で2000年以上に渡って強い影響力を持つ。
その学問的側面から儒学(中国語)、思想的側面からは名教・礼教ともいう。
大成者の孔子から、孔教・孔子教とも呼ぶ。
中国では、哲学・思想としては儒家思想という。
東周春秋時代、魯の孔子によって体系化され、堯・舜、文王 (周)武王 (周)周公旦の古えの君子の政治を理想の時代として祖述し、仁義の道を実践し、上下秩序の弁別を唱えた。
その教団は諸子百家の一家となって儒家となり、徳による王道で天下を治めるべきであり、同時代の武力による覇道を批判し、事実、そのように歴史が推移してきたとする徳治主義を主張した。
その儒家思想が漢代、国家の教学として認定されたことによって成立した。
教義
儒教は、五常(仁、義、礼、智、信)という徳性を拡充することにより五倫(父子、君臣、夫婦、長幼、朋友)関係を維持することを教える。
儒教の考えには本来、男尊女卑と言う考えは存在していなかった。
しかし、唐代以降、儒教に於ける男尊女卑の傾向がかなり強く見られるのも事実である。
これは「夫に妻は身を持って尽くす義務がある」と言う思想(五倫関係の維持)を強調し続けた結果、と現在ではみなされており、儒教を男女同権思想と見るか男尊女卑思想と見るかの論争も度々行われるようになっている。
仁
人を思いやること。
孔子以前には、「おもねること」という意味では使われていた。
また、白川静『孔子伝』によれば、「狩衣姿も凛々しい若者のたのもしさをいう語」。
「論語」の中では、さまざまな説明がなされている。
孔子は仁を最高の徳目としていた。
義
恩に報いる
礼
仁を具体的な行動として、表したもの。
もともとは宗教儀礼でのタブーや伝統的な習慣・制度を意味していた。
のちに、人間の上下関係で守るべきことを意味するようになった。
智
学問に励む
信
親睦を深める
中国における展開
儒教前史
儒(じゅ)の起源については胡適が論文「説儒」(1924年)で「殷の遺民で礼を教える士」として以来、様々な説がなされてきたが、近年は冠婚葬祭、特に葬儀を専門とした集団であったとするのが一般化してきている。
そこには死後の世界と交通する「巫祝」(シャーマン)が関係してくる。
そこで、東洋学者の白川静は、紀元前、アジア一帯に流布していたシャーマニズムを儒の母体と考えた。
そのシャーマニズムから祖先崇拝の要素を取り出して礼教化し、仁愛の理念をもって、当時、身分制秩序崩壊の社会混乱によって解体していた古代社会の道徳的・宗教的再編を試みたのが孔子であると主張している。
春秋時代(紀元前770年 - 紀元前403年)
孔丘(孔子、紀元前551年‐紀元前479年)は実力主義が横行し身分制秩序が解体されつつあった周末、魯国に生まれ、周初への復古を理想として身分制秩序の再編と仁道政治を掲げた。
孔子の弟子たちは孔子の思想を奉じて教団を作り、戦国時代 (中国)、儒家となって諸子百家の一家をなした。
孔子と弟子たちの語録は『論語』にまとめられた。
『史記』孔子世家によると、孔子の弟子は3000人おり、特に「身の六芸に通じる者」として七十子がいたとされる。
そのうち特に優れた高弟は孔門十哲と呼ばれ、その才能ごとに四科に分けられている。
すなわち、徳行に顔回・閔子騫・冉伯牛・仲弓、言語に宰我・子貢、政事に冉有・子路、文学(学問のこと)に子游・子夏である。
その他、孝の実践で知られ、『孝経』の作者とされる曾参(曾子)がおり、その弟子には孔子の孫で『中庸』の作者とされる子思がいる。
戦国時代(紀元前403年 - 紀元前221年)
孔子の死後、儒家は八派に分かれた。
そのなかで孟軻(孟子)は性善説を唱え,孔子が最高の徳目とした仁に加え、実践が可能とされる徳目義の思想を主張した。
荀況(荀子)は性悪説を唱えて礼治主義を主張した。
また『詩経』『書経』『儀礼』『楽経』『易経』『春秋』といった周の書物を六経として儒家の経典とし、その儒家的な解釈学の立場から『礼記』や『易伝』『春秋左氏伝』『春秋公羊伝』『春秋穀梁伝』といった注釈書や論文集である伝が整理された(完成は漢代)。
秦代(紀元前221年 - 紀元前206年)
秦の始皇帝が六国を併せて中国を統一すると、法家思想を尊んでそれ以外の自由な思想活動を禁止し、焚書坑儒を起こした。
ただし、博士官が保存する書物は除かれたとあるので儒家の経書が全く滅びたというわけではなく、楚漢戦争をへながらも、漢に伝えられた。
漢代
前漢(紀元前202年 - 8年)
漢に再び中国は統一されたが、漢初に流行した思想・学術は道家系の黄老刑名の学であった。
そのなかにあって叔孫通が漢の宮廷儀礼を定め、陸賈が南越王を朝貢させ、伏生が『今文尚書』を伝えるなど、秦の博士官であった儒者たちが活躍した。
文帝 (漢)のもとでは賈誼が活躍した。
武帝 (漢)の時、賢良文学の士で挙げられた董仲舒は儒学を正統の学問として五経博士を設置することを献策した。
武帝はこの献策をいれ、建元 (漢)5年(紀元前136年)、五経博士を設けた。
従来の通説では、このことによって儒教が国教となったとしていたが、現在の研究では儒家思想が国家の学問思想として浸透して儒家一尊体制が確立されたのは前漢末から後漢初にかけてとするのが一般的である。
ともかく五経博士が設置されたことで、儒家の経書が国家の公認のもとに教授され、儒教が官学化した。
同時に儒家官僚の進出も徐々に進み、前漢末になると儒者が多く重臣の地位を占めるようになり、丞相など儒者が独占する状態になる。
前漢の経学は一経専門であり、流派を重んじて、師から伝えられる家法を守り、一字一句も変更することがなかった(章句の学)。
宣帝 (漢)の時には経文の異同や経説の違いを論議する石渠閣会議が開かれている。
この会議で『春秋』では春秋公羊伝に対して春秋穀梁伝が優位に立った。
董仲舒ら公羊家は陰陽五行思想を取り入れて天人相関の災異説を説いた。
前漢末には揚雄が現れ、儒教顕彰のために『易経』を模した『太玄』や『論語』を模した『法言』を著作している。
後漢(25年 - 220年)
前漢末から災異思想などによって、神秘主義的に経書を解釈した緯書が現れた(「経」には機織りの「たていと」、「緯」は「よこいと」の意味がある)。
緯書は六経に孝経を足した七経に対して七緯が整理され、予言書である讖書や図讖(としん)と合わせて讖緯といい、前漢末から後漢にかけて流行した。
新の王莽も後漢の光武帝も盛んに讖緯を利用している。
一方で桓譚や王充といった思想家は無神論を唱え、その合理主義的な立場から讖緯を非難している。
さて、前漢から五経博士たちが使っていた五経の写本は、漢代通行の隷書体に書き写されていて今文経といわれる。
これに対して、古文経と呼ばれる孔子旧宅の壁中や民間から秦以前のテキストが、発見されていた。
前漢末、劉キンが古文経を学官に立てようとして、今文経学との学派争いを引き起こしている。
平帝 (漢)の時には『春秋左氏伝』『儀礼』『毛詩』『尚書』が、新朝では『周礼』が学官に立てられた。
後漢になると、古文経が学官に立てられることはなかったものの、民間において経伝の訓詁解釈学を発展させて力をつけていった。
章帝 (漢)の時に今文経の写本の異同を論じる白虎観会議が開かれたが、この中で古文学は攻撃に晒されながらも、その解釈がいくらか採用されている。
この会議の記録は班固によって『白虎通義』にまとめられた。
古文学は、今文学が一経専門で家法を頑なに遵守したのに対して、六経すべてを兼修し、ときには今文学など他学派の学説をとりいれつつ、経書を総合的に解釈することを目指した。
賈逵 (漢)(かき)は『左氏伝』を讖緯と結びつけて漢王朝受命を説明する書だと顕彰した。
その弟子、許慎は『説文解字』を著して今文による文字解釈の妥当性を否定し、古文学の発展に大きく寄与している。
また馬融は経学を総合して今古文を折衷する方向性を打ち出した。
その弟子、鄭玄(じょうげん)は三礼注を中心に五経全体に矛盾なく貫通する理論を構築し、漢代経学を集大成した。
今文学のほうでは古文学説の弱点を研究して反駁を行った。
李育は『難左氏義』によって左氏学を批判し、白虎観会議に参加して賈逵を攻撃した。
何休は博学をもって『公羊伝』に注を作り、『春秋公羊解詁』にまとめた。
また、『公羊墨守』を著作して公羊学を顕彰するとともに、『左氏膏肓』を著作して左氏学を攻撃した。
一方で『周礼』を「六国陰謀の書」として斥けている。
何休は鄭玄によって論駁され、以後、今文学に大師が出ることもなく、今文学は古文学に押されて衰退していった。
三国時代(220年 - 280年)・両晋(265年 - 420年)
魏 (三国)に入ると、王粛(おうしゅく)が鄭玄を反駁してほぼ全経に注を作り、その経注のほとんどが魏の学官に立てられた。
また王粛は『孔子家語』を偽作したことでも知られる。
西晋では杜預(どよ)が『春秋左氏伝』に注して『春秋経伝集解』を作り、独自の春秋義例を作って左伝に基づく春秋学を完成させた。
『春秋穀梁伝』には范寧が注を作っている。
この時代に隆盛した学問は老荘思想と『易』に基づく玄学であるが、玄学の側からも儒教の経書に注を作るものが現れた。
王弼は費氏易に注して『周易注』を作り、何晏(かあん)は『論語集解』を作った(正始の音)。
また呉 (三国)には今文孟氏易を伝えた虞翻、『国語注』を遺した韋昭がいる。
西晋末には永嘉の乱が起こり、これによって今文経学の多くの伝承が途絶えた。
東晋になると、永嘉の乱で亡佚していた『古文尚書』に対して梅サク(ばいさく)が孔安国伝が付された『古文尚書』58篇なるものを奏上したが、清の閻若キョ(えんじゃっきょ)によって偽作であることが証明されている(偽古文尚書・偽孔伝という)。
この偽孔伝が鄭玄注と並んで学官に立てられた。
南北朝時代(439年 - 589年)
南北朝時代 (中国)、南朝 (中国)の儒学を南学、北朝 (中国)の儒学を北学という。
南朝ではあまり儒教は振るわなかったが、梁 (南朝)の蕭衍の時には五経博士が置かれ、一時儒教が盛んになったという。
南学では魏晋の学風が踏襲され、『毛詩』「三礼」の鄭玄注以外に、『周易』は王弼注、『尚書』は偽孔伝、『春秋』は杜預注が尊ばれた。
あまり家法に拘ることもなく、玄学や仏教理論も取り込んだ思想が行われた。
この時代、仏教の経典解釈学である義疏(ぎしょ)の学の影響を受けて、儒教の経書にも義疏(ぎそ)が作られはじめた。
ただし、儒教では漢魏の注についてさらに注釈を施すといった訓詁学的なものを「疏」と呼ぶようになっていった。
梁の費カン(ひかん、「かん」は虎+甘)の『尚書義疏』や皇侃(おうがん)の『論語義疏』がある。
『尚書義疏』は北方に伝わって北学でも取りあげられ、唐の『尚書正義』のもとになり、『論語義疏』は亡佚することなく現在まで伝えられている。
北朝でも仏教・玄学が流行したが、わりあい儒教が盛んであり、特に北周ではその国名が示すとおり周王朝を理想として儒教を顕彰し仏教を抑制した。
北朝では後漢の古文学が行われ、『周易』・『書経』・『毛詩』「三礼」は鄭玄注、『春秋左氏伝』は後漢の服虔(ふっけん)の注、『春秋公羊伝』は後漢の何休の注が尊ばれた。
その学風は保守的で旧説を覆すことなく章句訓詁の学を墨守した。
北魏には徐遵明(じょじゅんめい)がおり、劉献之の『毛詩』を除く経学はすべて彼の門下から出た。
その門下に北周の熊安生(ゆうあんせい)がおり、とりわけ三礼に通じて『礼記義疏』などの著作がある。
熊安生の門下からは隋の二大学者である劉シャク(りゅうしゃく)・劉炫(りゅうげん)が出た。
隋代(581年 - 619年)
北朝系の隋が中国を統一したので、隋初の儒学は北学中心であったが、煬帝の時、劉シャク(りゅうしゃく)・劉炫(りゅうげん)の二劉が出、費カンの『尚書義疏』を取りあげたり、南学系の注に義疏を作ったりして南北の儒学を総合した。
劉シャクの『五経述義』、劉炫の『春秋述義』『尚書述義』『毛詩述義』は唐の『五経正義』の底本となった。
また在野の学者に王通(文中子)がいる。
彼は自らを周公から孔子への学統を継ぐものと自認し、六経の続編という「続経」を作った。
偽作・潤色説もあるが『論語』に擬した『中説』が現存している。
唐末、孔孟道統論が起こるなかで再評価され韓愈の先駆者として位置づけられた。
その儒仏道三教帰一の立場、みずからを儒教の作り手である聖人儒教とする立場がのちの宋学に影響を与えた。
また隋の楊堅がはじめて科挙を行ったことを挙げなければならない。
従来の貴族の子弟が官吏となる体制から試験によって官吏が選ばれるようになった。
これにより儒学者がその知識をもって官吏となる道が広がったのである。
唐代(618年 - 917年)
唐が中国を再統一すると、隋の二劉が示した南北儒学統一の流れを国家事業として推し進めた。
隋末混乱期に散佚した経書を収集・校定し、貞観 (唐)7年(633年)には顔師古が五経を校定した『五経定本』が頒布された。
さらに貞観 (唐)14年(640年)には孔穎達を責任者として五経の注疏をまとめた『五経正義』が撰定された(二度の改訂を経て永徽4年(653年)に完成)。
また永徽年間には賈公彦に『十三経注疏』を選定させている。
これにより七経の正義が出そろい漢唐訓詁学の成果はここに極まった。
こうして正義が確定される一方、中唐(8世紀中葉)になると注疏批判の動きが生じた。
『春秋』では啖助・趙匡・陸淳が春秋三伝は『春秋』を注するものではないと懐疑を述べ、特に『左伝』を排斥した。
『周易』では李鼎祚が王弼注の義理易に反対して鄭玄を始めとする漢代象数易を伝えた。
『詩経』では韓愈撰と仮託される「詩之序議」が「詩序」の子夏制作を否定している。
唐代は一概に仏教隆盛の時代であったが、その中にあって儒教回帰を唱えたのが、韓愈や李コウたちである。
韓愈は著書『原道』で、尭舜から孔子・孟子まで絶えることなく伝授された仁義の「道」こそ仏教・道教の道に取って代わられるべきものだと主張している。
李コウは『復性書』において「性」は本来的に善であり、その性に復することで聖人儒教になれるとした。
その復性の教えは孔子から伝えられて子思が『中庸』47篇にまとめ、孟子に伝えられたが、秦の焚書坑儒によって失われ、道教・仏教が隆盛するにいたったのだと主張している。
彼らの「道」の伝授に関する系統論は宋代の道統論の先駆けとなった。
また彼らは文学史上、古文復興運動の担い手であるが、古文運動家のいわゆる「文」とは「載道」(道を載せる)の道具であり、文章の字面ではなく、そこに込められた道徳的な精神こそが重要であるとして経文の一字一句にこだわる注疏の学をも批判した。
このことが宋代の新しい経学を生む要因の一つとなった。
宋代
北宋(960年 - 1127年)
北宋ははじめ唐を継承することを目指しており、儒学においても注疏の学が行われた。
聶崇義の『三礼図』、ケイヘイ・孫セキらの『孝経疏』『論語疏』『爾雅疏』がある。
南宋になると、漢唐の注疏にこの三疏と『孟子疏』が加えられて『十三経注疏』がまとめられた。
しかし、宋の天下が安定した仁宗 (宋)期になると、唐末の古文復興運動が共感され、漢唐時代は否定されるようになった。
漢唐時代には細々と伝承されてきたとする孔子の道に対する系譜が作られ、自己をその最後に置く道統論が盛んになった。
例えば、古文家の柳開は「孔子 - 孟子 - 荀子 - 揚雄 - 韓愈」の系譜を提出し、石介はこれに隋の王通を加えた。
ここに孟子の再評価の動きが起こった。
宋初、孟子を評価するものは少なく宋代前期の激しい議論を経てその評価が確定された。
王安石は科挙改革で従来の『孝経』『爾雅』に代わって『孟子』を挙げ、南宋になると孫セキ撰と仮託されて『孟子注疏』が編まれている。
人性論としても伝統的な性三品説から性善説が主張されるようになっていく。
逆に性悪説の荀子や性善悪混説の揚雄は評価の対象から外されていった。
また漢唐訓詁学の語義のみを重視する解釈学を批判し、その中身である道徳精神を重視する学問が打ち出された。
胡エン・孫復・石介は「仁義礼楽を以て学と為」し、後に欧陽脩によって宋初三先生と称されている。
神宗 (宋)期になると、このような前人の主張を総合し、体系的な学問が新たに創始された。
その代表が王安石の新学である。
王安石は『周礼』『詩経』『書経』に注釈を施して『三経新義』を作り、さらに新学に属する学者たちが他の経書にも注を作った。
これら新注は学校に頒布されて科挙の国定教科書となり、宋代を通じて広く読まれた。
王安石は特に『周官新義』を重んじ、『周礼』に基づく中央集権国家の樹立を目指し、さまざまな新法を実施した。
新学に異議を唱えたものに程顥・程頤らの洛学(道学)、蘇軾・蘇轍らの蜀学、張載らの関学があった。
12世紀を通じてこれらの学派は激しく対立したが、南宋になると、新学優位から次第に道学優位へと傾いていった。
この時代、「天」をめぐる考え方に大きな変化が現れた。
それまでの天は人格的であり意志を持って人に賞罰を下すとされたが、宋代以降、天は意志をもたない自然的なものであり、天と人とを貫く法則にただ理があるとされた。
その先鞭をつけたのは中唐の柳宗元の「天説」・劉禹錫の『天論』であり、北宋においては欧陽脩の『新唐書』五行志・王安石の『洪範伝』・程頤の『春秋伝』などに見られる。
程頤の理・程顥の天理は後の朱熹に影響を与えた。
またこのような天観の変化によって『易経』を中心として新しい宇宙生成論が展開された。
邵雍は「先天図」を作って「数」で宇宙生成を説明し、周敦頤は「太極図」に基づいて『太極図説』を著し、「無極→太極→陰陽→五行→万物化生」の宇宙生成論を唱えた(朱熹は無極=太極と読み替えた)。
また張載は「太虚即気」説を唱え、世界の存在を気が離散して流動性の高いあり方を「太虚」、気が凝固停滞してできているものを「万物」とした。
またこの気には単なる宇宙論にとどまらず道徳的な「性」が備わっており、「太虚」の状態の性を「天地の性」として本来的な優れたものとし、「万物」の状態の性を「気質の性」として劣化したものとした。
こういった唐宋変革期のパラダイムシフトは南宋になると体系的な思想として総合され、朱子学が形成されることになる。
南宋(1127年 - 1279年)
宋朝は北方を金 (王朝)に占領され、南渡することになった。
この時代、在朝在野を問わず新学と洛学が激しく争った。
南宋初、程頤の直弟子である楊時は北宋亡国の責任は王安石の新学にあるとして科挙に王安石の解釈を用いるべきではないと高宗 (宋)に進言し、『三経義辯』を著して『三経新義』を批判した。
また程頤に私淑した胡安国は『春秋』に注して『胡氏春秋伝』を著し、『周礼』に基づく新学を批判した。
謝良佐の弟子である朱震は邵雍の『皇極経世書』、周敦頤の『通書』といった象数易と『程氏易伝』や張載の『正蒙』といった義理易を総合して『漢上易伝』を著し、王安石や蘇軾の易学に対抗した。
新学を重んじた重鎮秦檜の死後、高宗によって新学の地位は相対化された。
孝宗 (宋)の時代には、後に朱子学と呼ばれる学術体系を構築した朱熹が現れる。
洛学の後継者を自認する朱熹は心の修養を重視して緻密な理論に基づく方法論を確立した。
彼は楊時の再伝弟子という李トウとの出会、胡安国の子胡宏の学を承けた張ショク(湖湘学派)との交友によって心の構造論・修養法(主敬静座)への思索を深めた。
40歳の時、張載の言葉という「心は性と情とを統べる」と程頤の「性即理」による定論を得、一家を成してびん学(びんがく)を起こした。
宇宙構造を理気二元論で説明し、心においても形而上学的な「理」によって規定され、人間に普遍的に存在する「性」と、「気」によって形作られ、個々人の具体的な現れ方である「情」があるとし、孟子に基づいて性は絶対的に善であるとした。
そして、その「性」に立ち戻ること、すなわち「理」を体得することによって大本が得られ万事に対処することができるとし、そのための心の修養法に内省的な「居敬」と外界の観察や読書による「格物」とを主張した。
また経学では、五経を学ぶ前段階として四書の学を設け、『四書集注』を著した。
さらに『易経』には経を占いの書として扱った『周易本義』、『詩経』には必ずしも礼教的解釈によらず人の自然な感情に基づく解釈をした『詩集伝』、「礼経」には『儀礼』を経とし『礼記』を伝とした『儀礼経伝通解』を著した。
また『書経』には弟子の蔡沈に『書集伝』を作らせている。
同時代、永康学派の陳亮や永嘉学派の葉適(しょうせき)は、聖人の道は国家や民衆の生活を利することにあるとする事功の学を唱えて自己の内面を重視する朱熹を批判した。
また江西学派の陸九淵は心の構造論において朱熹と考えを異にし、心即理説にもとづく独自の理論を展開した。
朱熹・陸九淵の両者は直に対面して論争したが(鵝湖の会)、結論は全く出ず、互いの学説の違いを再確認するに留まった。
・陸九淵の学は明代、王守仁によって顕彰され、心学(陸王心学)の系譜に入れられた。
この時代、洛学の流派は朱熹の学を含めて道学と呼ばれるようになり一世を風靡した。
一方、鄭樵・洪邁・程大昌らが経史の考証をもって学とし、道学と対峙している。
朱熹の弟子には、朱熹に最も寵愛され、朱熹の学説の誤解を正すことに努力した黄カン、教学に努めて朱熹の学を四方に広めた輔広、邵雍の易学を研鑽した蔡元定と『書集伝』を編纂した蔡沈父子、『北渓字義』に朱熹の用語を字書風にまとめた陳淳などがいる。
寧宗 (宋)の慶元3年(1197年)、外戚の韓タク冑(かんたくちゅう)が宰相趙汝愚に与する一党を権力の座から追放する慶元の党禁が起こり、趙汝愚・周必大・朱熹・彭亀年・陳傅良・蔡元定ら59人が禁錮に処された。
その翌年、偽学の禁の詔が出され、道学は偽学とされて弾圧を受けることになった。
朱熹は慶元6年(1200年)、逆党とされたまま死去した。
偽学禁令は嘉定 (宋)4年(1211年)に解かれた。
理宗 (宋)はその廟号「理」字が示すとおり道学を好み、朱熹の門流、魏了翁・真徳秀らが活躍した。
真徳秀の『大学衍義』は後世、帝王学の教科書とされている。
度宗 (宋)の時には『黄氏日抄』の黄震、『玉海』『困学紀聞』で知られる王応麟がいる。
いずれも朱熹の門流で学術的な方面に大きな役割を果たした。
元代(1271年 - 1368年)
伝統的な儒教史では、金では道学は行われず、モンゴルの捕虜となった趙復が姚枢・王惟中に伝えたことによって初めて道学が北伝したとされたが、現在では金でも道学が行われていたことが知られている。
ともかくも元 (王朝)代、姚枢から学を承けた許衡が出て、朱子学が大いに盛んになった。
元は当初、金の継承を標榜しており南宋は意識されていなかった。
このような状況のなかで、許衡はクビライの近侍にまで至り、朱子学を元の宮廷に広める役割を果たした。
また南人では呉澄が出て朱子学を大いに普及させた。
彼は朱子学にも誤りがあるとして理気論や太極論の修正を行い、陸九淵の学の成果を積極的に導入している。
許衡と呉澄の二人は後に元の二大儒者として北許南呉と称された。
元代、科挙で一大改革が起こった。
漢人採用の科挙において依拠すべき注釈として『十三経注疏』と並行して朱子学系統の注釈が選ばれたのである。
これによって朱子学の体制教学化が大いに進んだ。
明代(1368年 - 1644年)
明を興した太祖朱元璋のもとには劉基や宋濂といった道学者が集まった。
劉基は明の科挙制度の制定に取り組み、出題科目として四書を採用し、また試験に使う文章に後に言う「八股文」の形式を定めた。
宋濂は明朝の礼制の制定に尽力した。
宋濂の学生には建文帝に仕えて永楽帝に仕えることを潔しとしなかった方孝孺がいる。
永楽帝は胡広らに道学の文献を収集させて百科事典的な『四書大全』『五経大全』『性理大全』を編纂させ、広く学校に頒布した。
この三書はその粗雑さが欠点として挙げられるが、一書で道学の諸説を閲覧できる便利さから科挙の参考書として広く普及した。
『四書大全』『五経大全』の頒布により科挙で依拠すべき経羲解釈に『十三経注疏』は廃され、朱子学が体制教学となった。
明代前期を代表する道学者として薛セン・呉与弼が挙げられている。
薛は、朱熹が理先気後とするのに対して理気相即を唱え、また「格物」と「居敬」では「居敬」を重んじた。
呉与弼は朱熹の理論の枠内から出ず、もっぱらその実践に力をそそいだとされるが、その門下から胡居仁・婁諒・陳献章が出た。
胡居仁は排他的に朱子学を信奉しその純化に努めた人物である。
婁諒は、居敬と著書による実践を重んじたが、胡居仁にその学は陸九淵の学で、経書解釈も主観的だと非難されている。
陳献章は静坐を重んじたことで知られており、胡居仁からその学は禅だと批判された。
陳献章門下には王陽明と親交が深かった湛若水がいる。
明代中期、王守仁(号は陽明)は、朱熹が理を窮めるために掲げた方法の一つである『大学』の「格物致知」について新しい解釈をもたらした。
朱熹は「格物」を「物に格(いた)る」として事物に存在する理を一つ一つ体得していくとしたのに対し、王守仁はこれを「物を格(ただ)す」とし、陸九淵の心即理説を引用して、理は事事物物という心に外在的に存在するのではなく、事事物物に対している心の内の発動に存在するのだとした。
「致知」については『孟子』にある「良知」を先天的な道徳知とし、その良知を遮られることなく発揮する「致良知」(良知を致す)だとした。
そこでは知と実践の同時性が強調され、知行同一(知行合一)が唱えられた。
致良知の工夫として初期には静坐澄心を教えたが、ともすれば門人が禅に流れる弊があるのを鑑み、事上磨練を説いた。
また道学の「聖人、学んでいたるべし」に対し、人は本来的に聖人であるとする「満街聖人」(街中の人が聖人)という新たな聖人儒教観をもたらした。
王守仁の学は陽明学派(姚江学派)として一派をなし、世に流行することになった。
この時代、朱熹の理気二元論に対し異論が唱えられるようになり、気の位置づけが高められ、理を気の運行の条理とする主張がなされた。
道学的な枠組みを準拠しつつこの主張したものには羅欽順などがいる。
また、王守仁などは生生の気によって構成される世界を我が心の内に包括させ、世界と自己とは同一の気によって感応するという「万物一体の仁」を主張した。
さらに、このような気一元論を徹底させたのは王廷相である。
彼は「元気」を根元的な実在として朱熹の理説を批判し、「元気の上に物無く、道無く、理無し」として気の優位性を主張した。
人性論においては人の性は気であって理ではなく、善悪を共に備えているとした。
理に対する気の優位性が高まるなか、気によって形作られるとされる日常的な心の動き(情)や人間の欲望(人欲)が肯定されるようになっていく。
王守仁も晩年、心の本体を無善無悪とする説を唱えている。
弟子の王畿はこれを発展させて心・意・知・物すべて無善無悪だとする四無説を主張したが、同門の銭徳洪は意・知・物については「善を為し悪を去る」自己修養が必要とした四有説を主張してこれに反対している。
以後、無善無悪からは王艮の泰州学派(王学左派)で情や人欲を肯定する動きが顕著になり、明末の李贄(李卓吾)にいたっては「穿衣吃飯、即ち是れ人倫物理」(服を着たり飯を食べることが理)と人欲が完全に肯定された。
さらに李贄は因習的な価値観すべてを否認し、王守仁の良知説を修正して「童心」説(既成道徳に乱される前の純粋な心)を唱えることで孔子や六経『論語』『孟子』さえ否定するに到った。
そして、社会・経済が危機的状況に陥った明末になると、社会の現実的な要求に応えようとする東林学派が興った。
彼らは陽明学の心即理や無善無悪を批判しつつも人欲を肯定する立場を認め、社会的な欲望の調停を「理」としていく流れを作った。
彼らが行った君主批判や地方分権論は清初の経世致用の学へと結実していく。
その思想は東林学派の一員である黄尊素の子で、劉宗周の弟子である黄宗羲の『明夷待訪録』に総括されることになる。
また明代は儒教が士大夫から庶民へと世俗化していく時代である。
太祖朱元璋は六諭を発布して儒教的道徳に基づく郷村秩序の構築を目指し、義民や孝子・節婦の顕彰を行った。
また明代中期以後、郷約・保甲による郷民同士の教化互助組織作りが盛んになり、王守仁や東林学派の人士もその普及に尽力している。
これにより儒教的秩序を郷村社会に徹底させることになった。
一方、王守仁と同時代の黄佐は郷村社会で用いられる郷礼を作るため朱熹の『家礼』を参考に『泰泉郷礼』を著した。
朱熹の『家礼』は元から明にかけて丘濬『家礼儀節』の改良を経ながら士大夫層の儀礼として流行していたが、明末、宗族という家族形態とともに庶民にまで普及した。
また王艮の泰州学派には樵夫や陶匠・田夫などが名を連ねており、儒教が庶民にまで広く浸透した姿が伺える。
一方、明代は史書に対する研究が盛んな時代であったが、中期以後、経書に対する実証学的研究の萌芽も見られる。
梅サク (明)は『尚書考異』を著し、通行の「書経偽古文尚書」が偽書であることを証明しようとした。
また陳第は『毛詩古音考』を著し、音韻が歴史的に変化していることを明言し、古代音韻学研究の道を開いている。
清代(1616年 - 1912年)
明朝滅亡と異民族の清朝の成立は、当時の儒学者たちに大きな衝撃を与えた。
明の遺臣たちは明滅亡の原因を理論的な空談にはしった陽明学にあると考え、実用的な学問、経世致用の学を唱えた。
その代表は黄宗羲や顧炎武、王夫之である。
彼らはその拠り所を経書・史書に求め、六経への回帰を目指した。
そのアプローチの方法は実事求是(客観的実証主義)であった。
彼らの方法論がやがて実証的な古典学である考証学を生むことになった。
一方、顔元は朱子学・陽明学ともに批判し、聖人となる方法は読書でも静坐でもなく「習行」(繰り返しの実践)であるとする独自の学問を興した。
「格物」の「格」についても「手格猛獣」(手もて猛獣を格(ただ)す)の「格」と解釈して自らの体で動くことを重視し、実践にもとづく後天的な人格陶冶を主張した。
顔元の学は弟子の李キョウによって喧伝され、顔李学派と呼ばれる。
こういった清初の思想家たちは理気論上、一様に気一元論であり、朱子学や陽明学の先天的に存在するとした「理」を論理的な存在として斥けた。
また、現実世界を構成する「気」の優位を主張して人間の欲望をも肯定している。
このように明代中期以後、気一元論の方向性で諸説紛々たる様相を見せている理気論はその後、戴震が「理」を「気」が動いた結果として現れる条理(分理)とし、気によって形成された人間の欲望を社会的に調停する「すじめ」と定義するにいたって一応の決着を見ることになる。
清の支配が安定してくると、実学よりも経書を始めとする古典を実証的に解明しようとする考証学が興るようになった。
毛奇齢は朱子学の主観的な経書解釈を批判し、経書をもって経書を解釈するという客観的な経書解釈の方向性を打ち出した。
『四書改錯』を著して朱熹の『四書集注』を攻撃した。
また閻若キョは『尚書古文疏証』を著して「書経偽古文尚書」が偽書であることを証明し、「偽古文尚書」に基づいて「人心道心」説を掲げる朱子学に打撃を与えた。
胡渭は『易図明弁』を著し朱子学が重視した「太極図」や「先天図」「河図洛書」といった易学上の図が本来、儒教とは関連性がなかったことを証明した。
彼らの学は実証主義的な解釈学たる考証学の礎を築いた。
乾隆・嘉慶 (中国)年間は考証学が隆盛した時代である。
その年号から乾嘉の学と呼ばれる。
顧炎武の流れをくむ浙西学派がその主流であり、恵棟を始めとする蘇州市を中心とする呉派、安徽省出身の戴震らの影響を受けた皖派(かんぱ)がある。
彼らは音韻学・文字学・校勘学や礼学などに長じていた。
特に後漢の名物訓詁の学を特徴とする古文学に基づいており、漢学とも呼ばれる。
一方、黄宗羲の流れをくむ浙東学派は史学に長じ、その代表である章学誠は六経皆史の説を唱えて、経書の史学的研究に従事した。
やや後れて阮元を始めとする揚州学派が起こり、乾嘉漢学を発展させている。
道光以降になると、常州学派の前漢今文学が隆盛した。
彼らは今文経(特にその中心とされる『春秋公羊伝』)こそ孔子の真意を伝えているとし、乾嘉の学が重んじる古文経学を排除して今文経、ひいては孔子へと回帰することを目指した。
その拠り所とする公羊学に見られる社会改革思想が清末の社会思潮に大きな影響を与え、康有為を始めとする変法自強運動の理論的根拠となった。
近代
アヘン戦争の敗北により西洋の科学技術「西学」を導入しようという洋務運動が興った。
洋務派官僚の曾国藩は朱子学を重んじて六経のもとに宋学・漢学を兼取することを主張し、さらに明末清初の王夫之を顕彰して実学の必要を説いた。
また張之洞は康有為の学説に反対して『勧学篇』を著し、西学を導入しつつ体制教学としての儒教の形を守ることを主張している。
一方、変法自強運動を進める康有為は、『孔子改制考』を著して孔子を受命改制者として顕彰し、儒教をヨーロッパ風の国家宗教として再解釈した孔教を提唱した。
康有為の孔教運動は年号を廃して孔子紀年を用いることを主張するなど従来の体制を脅かすものであったため、清朝から危険視され『孔子改制考』は発禁処分を受けた。
また変法派のなかでも孔教運動は受け入れられず、これが変法運動挫折につながる一つの原因となる。
しかし、辛亥革命が起こると、康有為は上海市に孔教会を設立して布教に努め、孔教を中華民国の国教にする運動を展開した。
彼らの運動は信仰の自由を掲げる反対派と衝突することとなり、憲法起草を巡って大きな政治問題となった。
その後、1917年、張勲 (清末民初)の張勲復辟のクーデターに関与したため、孔教会はその名声を失うことになる。
康有為が唱える孔子教運動には、弟子の陳煥章が積極的に賛同し、中国及びアメリカで活動している。
この他に賛同した著名人として厳復がいる。
1910年代後半になると、争いを繰り返す政治に絶望した知識人たちは、文学や学問といった文化による啓蒙活動で社会改革を目指そうとする新文化運動を興した。
雑誌『新青年 (中国)』を主宰する陳独秀・呉虞・魯迅らは「孔家店打倒」をスローガンに家父長制的な宗法制度や男尊女卑の思想をもつ儒教を排斥しようとした。
一方、雑誌『学衡』を主宰する柳詒徴・呉ヒツ・梅光迪・胡先驌ら学衡派は、儒学を中心とする中国伝統文化を近代的に転換させることによって中西を融通する新文化を構築することを主張している。
また清末から隆盛した今文学派による古典批判の方法論は古籍に対する弁偽の風潮を興し、1927年、顧頡剛を始めとする疑古派が経書や古史の偽作を論ずる『古史弁』を創刊した。
顧頡剛は「薪を積んでいくと、後から載せたものほど上に来る」という比喩のもと、古史伝承は累層的に古いものほど新しく作られたという説を主張し、尭・舜・禹を中国史の黄金時代とする儒教的歴史観に染まっていた知識人に大きな衝撃を与えた。
さらに銭玄同は六経は周公と無関係であるばかりでなく孔子とも無関係である論じ、孔子と六経の関係は完全に否定されるに到った。
現代
中華人民共和国では「儒教は革命に対する反動である」として弾圧され、特に文化大革命期には徹底弾圧された。
多くの学者は海外に逃れ、中国に留まった熊十力は激しい迫害を受け自殺したといわれる。
だが、21世紀に入ると儒教は弾圧の対象から保護の対象となり再評価されつつある。
2005年以降、孔子の生誕を祝う祝典が国家行事として執り行われ、論語を積極的に学校授業に取り入れるようになるなど儒教の再評価が進んでいる。
文化大革命期に徹底的に破壊された儒教関連の史跡及び施設も近年になって修復作業が急ピッチで行われている。
改革開放が進む中で儒学や老荘思想など広く中国の古典を元にした解釈学である国学 (中国)が「中華民族の優秀な道徳倫理」として再評価されるようになり国学から市場経済に不可欠な商業道徳を学ぼうという機運が生まれている。
また国家幹部は儒教を真剣に学ぶべきだという議論も生まれている。
新儒家
熊十力
梁漱溟
牟宗三
唐君毅
杜維明
周辺諸国への影響
朝鮮
儒教文化が深く浸透した、儒教文化圏であり、現在でもその遺風が深く残っている。
それだけに、恩師に対する「礼」は深く、先生を敬う等儒教文化が良い意味で深く浸透しているという意見もある。
一方で、儒教を歴代の為政者が群集支配をするために悪用してきた弊害も存在しているという意見もある。
李退渓:嶺南学派
李栗谷:畿湖学派
ベトナム
華僑
日本
日本へ儒教が伝わったのは、6世紀、百済より五経博士が渡日して以降のことである。
これ以前にも、王仁(わに)が『論語』を持って渡来するなどしており、概ね5世紀頃には伝来していたものと考えられている。
奈良時代~平安時代
律令制の継承に伴い、官吏養成及び学問研究として取り入れられ、式部省の被官の大学寮において、明経道として教授された。
しかしながら、日本においては科挙制度が取り入れられなかったためか儒教の価値が定着せず、学問の主体は、実学的な紀伝道に移り、次第に衰退した。
空海が『三教指帰』により道教とともに批判するなど、仏教の隆盛も、律令儒教の衰退の原因のひとつとなった。
鎌倉時代~安土桃山時代
元の侵攻を避け、南宋から渡ってきた知識人が朱子学等最新の儒教を伝え、京都五山、鎌倉五山等、禅宗寺院において研究された。
戦国の混乱は、これらの成果を地方に拡散させることとなり、桂庵玄樹の薩南学派、南村梅軒の海南学派等が開かれた。
江戸時代
江戸時代になると、それまでの仏教の僧侶らが学ぶたしなみとしての儒教から独立させ、一つの学問として形成する動きがあらわれた(儒仏分離)。
また中国から、朱子学と陽明学が静座(静坐)(座禅)などの行法をなくした純粋な学問として伝来し、特に朱子学は幕府によって封建支配のための思想として採用された。
藤原惺窩の弟子である林羅山が徳川家康に仕え、以来、林家が大学頭に任ぜられ、幕府の文教政策を統制した。
朱子学は、文治政治移行の傾向を見せる幕政において、立身出世の途となり、林家の他の学派も成長した。
特に木下順庵門下には、新井白石、室鳩巣、雨森芳洲、祇園南海ら多くの人材を輩出。
幕府及び各藩の政策決定に大きな影響を与えた。
陽明学派としては、中江藤樹が一家を構え、その弟子である熊沢蕃山が岡山藩において執政するなど各地に影響を残した。
いわゆる近江商法にその影響を見る者もいる。
陽明学は知行合一を説く実践的な倫理思想となり、大塩平八郎の乱など、変革の思想になることもあった。
儒教と仏教が分離する一方、山崎闇斎によって神儒一致が唱えられ、垂加神道などの儒教神道が生まれた。
また、日本の儒教の大きな特色として、朱子学や陽明学などの後世の解釈によらず、論語などの経典を直接実証的に研究する聖学(古学)、古義学、古文辞学などの古学が、それぞれ山鹿素行、伊藤仁斎、荻生徂徠によって始められた。
江戸時代を通して、武家層を中心として儒教は日本に定着し、水戸学などにも影響、やがて尊皇攘夷思想に結びついて明治維新への原動力の一つとなった。
一方、一般民衆においては、石田梅岩の石門心学等わずかな例外を除き、学問としての儒教思想はほとんど普及しなかった。
儒教的な葬礼が、檀家制度を通じ一般的となったのが、数少ない例外の一つであるが、儒教的な徳目は曲亭馬琴の南総里見八犬伝などを通じて教化がこころみられた。
近代
封建時代は終わり、1885年に当時の文部卿森有礼によって儒教的な道徳教育を規制する命令が出された。
だが、元田永孚ら宮中の保守的な漢学者の影響によって教育勅語などに儒教の忠孝思想が取り入れられ、奨励された。
かつての日本的儒教=朱子学は武士や一部の農民・町民など限られた範囲の道徳であったが、近代天皇制のもとでは国民全体に強要された。
一方、渋沢栄一のように「洗練された近代人」とされる人達の中でも社会貢献の重要性などにおいて、近代社会においてもなお儒教の道徳観が通用する部分もあることを唱えた者もいたが少数派に留まった。
第2次世界大戦後、支配者に都合のよい前近代的な思想として批判を受け、影響力は弱まったが、現代でも『論語』の一節が引用されることは多く、日本人にとっては親しまれている存在である。
儒教を宗教として捉える研究者は少数派であるが、学術研究において儒教の本質を宗教としてとらえる道を開いたのは、山下龍二・加地伸行である。
、山下は天地鬼神や祖先への祭祀を儒教の中心に据え、加地は宗教を死を語るものと定義して祖先崇拝を儒教の本質としている。
ただこうした儒教理解について池田秀三などから批判が寄せられている。
儒教研究上の論争
儒教の長い歴史の間には、古文・今文の争い、喪に服する期間、仏教との思想的関係、理や気の捉え方など様々な論争があって枚挙に暇がない。
ただ現在の学術研究、特に日本における論争のひとつに、儒教は宗教か否かというものがある。
現在、儒教はあくまで思想論の一種であって宗教ではない、とする考えが一般的ではある。
しかし、孟子以降天意によって総てが決まるとも説かれており、これが唯物論と反する考えになっているという指摘もある。
このため、儒教を思想とみなすか宗教とみなすかでは、完全に見解が分かれており、たびたび論争の焦点になっている。
また、儒教を宗教として扱った場合、教義に平等思想が無い事と死後の世界の観念が無い事による死後の再評価ができない事も問題視されている。
何よりも、神の存在を完全に否定している事から、宗教として扱われる思想ではない、という見解が圧倒的に多い。
中華人民共和国(中国共産党)は儒教を道徳思想としているが、前述の通り「儒教は革命に対する反動である」との理由から儒家の活動を弾圧の対象にし、大幅に制限していた。
これは儒教思想が、共産主義の根幹を成すマルクス主義とは相容れない存在と捉えられていたためである。
孔子廟
冒頭で述べたように儒教の大成者は、春秋時代の孔子である。
中国では現在においても、孔子を崇敬する人は多い。
中国の各地に孔子を祭る廟がある。
これを文廟といい、孔子廟、孔廟、夫子廟ともいう。
(特に魯の故地の孔子の旧居跡に作られた孔廟が有名。)
中国国内の孔子廟の多くは文化大革命時に破壊されたり損傷を受けている。
日本でも、江戸時代に、幕府が儒教(儒教の中でも、特に朱子学)を学問の中心と位置付けた。
そのため、儒教(朱子学)を講義した幕府や各藩の学校では孔子を祀る廟が建てられ崇敬された。
湯島聖堂が、その代表である。