如仏の判決 (Judgment of Nyobutsu)
如仏の判決(にょぶつのはんけつ)は、囲碁のルールのうちの死活において「両劫に仮生一つ」を認めたという鎌倉時代の判例。
日本棋院などの現代の囲碁ルールでは否定されている。
この生き形は「月光の活」の呼び名もある。
問題事例
図におけるコウ両コウ(左辺)があり、同じ盤面上に一眼とコウを持つ白石(右辺)がある場合の、右辺の白石の生死に関する問題。
部分死活論
- 両コウに関わらず、右辺の白石は「死」
全局死活論
- 右辺のコウを黒から取られても、両コウのところに無限のコウ材があるため、常にコウを取り返せるので「生」
という考えの、どちらが正しいかが問題となる。
発端
『古今著聞集』に当時の出来事として、この問題の記述がある。
1253年(建長5年)に法探坊と刑部坊という二人の僧の対局にこの形が現れた。
法探坊は生と、刑部坊は死と主張して決着がつかなかった。
当時の囲碁の上手と言われた備中法眼俊快に訪ねたところ「両劫にかせう一つとは是なり」(生)と言った。
さらに如仏に尋ねると「目一つありと雖も、両劫のあらむには死石にあらず」(生)と述べられた。
法探坊の勝ちと認められた。
以後、これが「如仏の判決」として伝え残る。
家元会議
1821年(文政4年)に備後福山藩の儒学者太田八郎が、家元四家にこの問題について問い合わせた。
本因坊元丈・安井知得仙知・井上因砂因碩・林元美・服部因淑が討議し、元丈から「如仏非に成りし」と回答。
これによりルール解釈が覆ることとなった。
また俊快の述べた「かせう」の文字は「仮生」「可生」「加生」などとする説があった。
現代の判断
明治時代になると如仏の判決(全局死活論)を支持する棋士 (囲碁)が多かったが、日本棋院が1949年に制定した囲碁規約では部分死活論が採用された。
中国ルール・台湾ルール(計点制ルール)では、全局的な同形反復禁止の観点から死とされる。
1989年の日本囲碁規約改訂では、対局の停止後での「死活確認の際における同一劫での取り返しは、行うことができない」という規定により、これが継承された。
1959年の呉清源 - 藤沢朋斎の三番勝負第2局において、呉が全局死活論での対局を申し入れた。
呉が日本棋院所属棋士ではないために可能だった提案である。
藤沢はこれを了承し、例外的なルールでの対局が行われた例となった。
これは直前に行われた呉 - 高川格の本因坊三番碁の第2局で、終局時にコウの手入れを巡るルール解釈の問題が生じたことから、当時不合理な点の残る当時の囲碁規約見直しについての問題提起の一つであった、との見方もある。