小袖 (Kosode)
小袖は平安時代中頃に誕生したと思われる和服の元になった衣類である。
それまでの着物が袖口が大きく袖丈一杯まで開いていたので大袖と言うのに対し、小袖は袖口が狭いという特徴がある。
歴史
平安時代初期までは下着として単衣が使われたが、中期以降の国風文化興隆に伴う服飾の変化により、単は巨大化して下着としての用を為さなくなった。
その代わりに庶民の着ていた筒袖の着物を下着としたのが小袖の始まりではないかとされる。
岩手県平泉の中尊寺金色堂に納められていた藤原基衡着用の物が現存最古の小袖とされる。
平安後期(院政期)から鎌倉時代初期には貴族の間に爆発的な小袖ブームが訪れ、袿の代わりに豪華な織物で仕立てた小袖を何重にもまとうことが流行するが、余りにもお金がかかるためにしばしば禁止令が出される。
そのため、室町時代まで貴族や武士などの上層階級では小袖は下着の扱いのままであった。
室町時代後期(戦国時代 (日本))になると、下克上や治安の低下などから、袖が小さく活動的な小袖が表着として武家の夫人の正装に採用されるようになり、織豊時代にはお市の方肖像画に見られるような豪華な打ち掛け型の小袖などが作られるようになった。
また、武士の礼装となった裃でも小袖を表に出す着方が通例となり、小袖は上着に昇格した。
この頃の小袖は「桃山小袖」といわれる。
その後、江戸幕府による士農工商の身分制により武士などの上層階級では小袖の柄行きが固定化されてしまうが、京・大坂などの上方や江戸の富裕な町人は平和になった余力を衣類に向けるようになり手の込んだ小袖が誕生する。
しかし、やはり華美に過ぎるとしてしばしば江戸幕府より禁令が出ている。
この時代の代表的な小袖として慶長小袖、寛文小袖、元禄小袖がある。
江戸時代も後期を過ぎると公家の間でも儀式以外では小袖を着るのが通例となり、また、小袖自体の袖も平和な時代の中で華美になり巨大化して振袖が誕生、そのため「小袖」と言う名称自体が実態に合わなくなり使われなくなってしまった。
現在では「小袖」というと束帯や十二単など宮廷装束の下着を指す。
桃山小袖
安土桃山時代に流行したタイプの小袖で、女性でも対丈に仕立てられる。
南蛮貿易によるキリシタン文化の影響も受け、大胆で派手な柄行き・色使いの物が多い。
時代の活気を反映してか、刺繍を全体に巡らしたり、辻が花染を多用しているのも特徴である。
この時代の代表作としては山形県米沢市に伝わる上杉謙信の遺品や久能山東照宮にある徳川家康の遺品があげられる。
慶長小袖
慶長年間に流行したタイプの小袖で、総柄であるが、模様が細かくなり、色調が桃山小袖に比べて暗いのが特徴とされる。
奈良県立美術館にある「伝淀殿像」に描かれている物が代表的な慶長小袖とされる。
寛文小袖
寛文年間に流行したタイプの小袖で、肩から裾の方に大胆に流れるような模様をとり余白が大きく、また文字を模様として使うのも特徴とされる。
この小袖から現在の和服のように袖幅を大きく仕立てるようになる(慶長以前は肩幅が大きく、袖幅は肩幅の半分しかなかった)。
この流行を作ったのは東福門院とされ、和子の御用達だった「雁金屋」には注文が殺到して大儲けしたという。
後にこの雁金屋から元禄文化の重要な担い手だった尾形光琳、尾形乾山兄弟が誕生している。
元禄小袖
元禄年間に流行したタイプの小袖で、流行の発信源は上方の町人であったとされる。
友禅の誕生により自由に模様を描き、明るい色彩が特徴とされる。
菱川師宣の代表作「見返り美人」の着物はこの元禄小袖である。
小袖の身分差
平和な時代が続き、庶民が次第に力を蓄え武士以上の豪奢な着物を着用するようになると、江戸幕府は士農工商身分確定のために躍起となって次々と禁令を発したのは先述の通りである。
また、大奥においては事細かに婦人の着物を規定したため、次第に身分によって着用される柄が固定化していった。
また元禄以後も小袖には流行があったが、文化史上「○○小袖」とは呼称しない。
武家の小袖
先述のように江戸幕府は大奥での着物を事細かに規定し、それが大名家にも普及し、武士階級全体で大奥慣習に準じるようになっていった(江戸中期以降)。
その規定は次の通り。
年始には正室はおすべらかしに髪を結い、将軍正室は十二単、大名家正室は袿袴装束をまとう
三月三日、九月九日、式日には打掛着用
五月五日は絹縮か麻晒の帷子着用、ただし地の色は白か黒のみ
七月七日には帷子着用の上、腰巻をまとう
打掛の色は黒、白、赤、桃色のみ
打掛の下に着る着物(間着)は白、赤、黄色のみ
文様の間には隙間ができないよう花の刺繍を施す
正装は綸子。
ちりめんは準正装か普段着にしか使えない。
ただし下位の者は縮緬が正装。
四月一日~五月四日、九月一日~九月八日は袷着用。
九月九日~三月末日は綿入れ、五月五日~八月末日は単衣
(中に用いた日時はすべて旧暦)
…などである。
これほど規定が決まっていると創意工夫をこらす余地はほとんどなく、江戸時代中期以後、武士階級から着物の流行が生まれることは二度と無かった。
文様は花鳥風月の刺繍の間に有職文様がまんべんなく全体に散らされている物、また源氏物語などの古典文学や能の風景から画題をとった「御所解」に大分されるが、後述する公家や庶民の着物に対して柄行きの大胆さにかけ、余白を嫌う傾向が挙げられる。
これらの複雑な制度は江戸幕府の崩壊により消滅し、その後華族となった大名家には引き継がれなかった。
現在「茶屋辻」といわれる文様は、この武家の小袖で「夏服」として定められた物が残ったものである。
公家の小袖
公家社会で小袖が着用されるようになったのは先述のように徳川和子(東福門院)の入内の頃からと思われる。
その後次第に着用のルールが定められたと考えられるが、その正確な年月ははっきりしない。
基本的には冬服として「掻取(かいどり)」、合服・夏服として「単衣(ひとえ)」、盛夏服として「帷子(かたびら)」という区分があった。
「掻取」はいわゆる打掛と同じ物で、京都の剣術家としても知られる吉岡憲房が発明したとされる「憲法染(けんぽうぞめ)の掻取」(略して「憲法」とも言われる)、刺繍や染めで模様の入った「模様の掻取」、「素模様の掻取」の大まかに3種があった。
このうち、黒地である「憲法染の掻取」は袿袴装束に匹敵する正装として扱われ、掻取の上に袴を着用することもあった。
掻取の下に着用する「間着(あいぎ)」は28歳までは「濃色」(紫に近い濃い紅とされる)、29歳から40歳までは紅縮緬、40歳以上は白羽二重と規定されていた。
ただし、上に羽織る掻取の色に規定はなかった。
「単衣」は現在の着物とよく似ているがお端折をつくらずに引きずって着用された。
「帷子」は刺繍や染めで模様が入った「細染(ほそぞめ)」と浴衣によく似た「地白(じしろ)」の2種があった。
細染は袴を着用して正装とすることもあった。
素材は絹ではなく麻(奈良晒がよく使われた)で、現在の着物と同じようにお端折をつくって着用された。
公家社会では小袖はあくまで「2番手の衣装」だったため武家社会より規定は緩かった。
柄行きは「花鳥風月」を基調としており、有職文様を飛び柄で入れたり、着物全体をつかって刺繍や染めで文様が入っており、寛文小袖に似た雰囲気がある…などの特徴があった。
これらの小袖は明治時代の復古化・西欧化のために徐々に廃止されたものの、貞明皇后の意向で昭和時代初期に一部復活した。
しかし、貞明皇后の崩御とともに皇室の表舞台から完全に廃絶した。
現在は宮中三殿の賢所に仕えるわずかな女官(掌典職)のみこの風俗を守っている。
庶民の小袖
庶民の着物は江戸幕府のあい続く倹約令により、次第に裏地や裾など目立たない部分への贅沢に目が向けられるようになる。
そこに入れられる文様は幕府の禁制により有職故実文様が使えなかったこともあり、身の回りの雑貨をデフォルメしたユニークな物、時にはドクロや性交シーンなどのエログロ趣味まであった。
また地域差が非常に激しく、化政文化の頃、江戸では「江戸褄」といわれる足下に模様を入れることが流行ったのに対し上方では「島原褄」といわれる合褄に模様が入れることが流行った。
その後「江戸褄」は「留袖」の原型になったのに対し、「島原褄」は上方限定の流行で終わった。
着物の世界でもこのころには江戸上位の傾向が見られたのである。
また、脇に「身八つ口」をつけるようになったのも庶民の小袖が発祥なのだが、この起源は着用の便宜を図るため、放熱のため、または遊女の発案によるなど諸説あり起源ははっきりしない。
「留袖」にしろ「身八つ口」にしろ、現在の着物の原型はこのころの庶民の着物に端を発する物が多い。
その流行の発端をつくるのはたいがい遊女、芸者、そして歌舞伎役者であった。
ただし、これらの流行の恩恵にあずかれるのは地方の富裕な町人どまりであったと考えられる。
「打掛」は庶民には無縁の物と考えられているが、公家や武家に準じた身分を持つ町人などの中には、家の儀礼などに打掛を着用するものもいた。
ちなみに時代劇では庶民の着物は黒襟と決まっているが、この流行は幕末の物であり、元禄時代が舞台の「水戸黄門」に出てくるのはおかしい。