強訴 (Goso (direct petition))

強訴(ごうそ)とは強硬な態度で相手に訴えかける行動を指す。

寺社
寺社の僧や僧兵、神人が、仏罰・神罰や武力を振りかざして、幕府や朝廷に対し自らの要求を通そうとした。

特に有名なものに延暦寺・興福寺など。
延暦寺は日吉大社の神輿、興福寺は春日大社の神木などの「神威」をかざして洛中内裏に押し掛けて要求を行ない、それが通らない時は、神輿・神木を御所の門前に放置し、政治機能を実質上停止させるなどの手段に出た。

白河法皇は「賀茂川の水、双六の賽、山法師。これぞ朕が心にままならぬもの」という言葉を残しているが、これは延暦寺の強訴を嘆いての事である。

強訴の理由は寺社の荘園を国司が侵害したり、ライバル寺社が今までより優遇措置を受けられるようになったりしたなどである。
朝廷は、強訴を押さえるため、武士の武力を重用した。
これにより、武士が中央政界での発言権を徐々に持つようになる。

寺社の強訴は平安時代から室町時代ごろまで盛んだったが、その後寺社権門体制論の衰退と共に廃れていった。

農民
江戸時代にお上に対し農民が集団で訴える事を強訴と呼んでいた。
いわゆる百姓一揆のこと。
年貢の減免や村役人の交代などが訴えられたが、とくに幕末期には世直し一揆が各地で頻発した。

慶応4年(1868年)3月の五箇条の御誓文とほぼ同時に掲げられた五榜の掲示では、徒党や逃散とともに明治新政府によって禁止された。

ポーランドの強訴

14世紀から18世紀まで存在したヨーロッパ史有数の巨大国家であるポーランド・リトアニア連合(俗に「ポーランド」と呼ばれる)では、「黄金の自由」と呼ばれた貴族民主主義の政治システムの体制下で、国王(すなわち中央政府)と大貴族(マグナート)たち、国王と貴族(シュラフタ)たち、ポーランド国会(セイム)と一部の少数派貴族たちの間で利害の対立が深刻化した際にしばしば大規模な強訴が発生した。
ポーランドでは強訴をロコシュ(Rokosz)と呼び、これはハンガリー語で「集会」を表す言葉のラーコシュ(Rákos)が起源である外来語。

17世紀に入ってヨーロッパで穀物価格が大きく下がると、穀物が重要な輸出品であったポーランドの国内で社会の各階層どうしの利害対立が広まり、ロコシュの規模が大きくなった。
1606年にはミコワイ・ゼブジドフスキをリーダーとしたカトリックとプロテスタントの両派からなる有力貴族たちのグループが、民主主義を廃止して絶対主義を確立しようと画策する国王ジグムント3世とそれを後押しするイエズス会に対して、黄金の自由と宗教的寛容(プロテスタントの権利の保護)の2つを求めて大規模なロコシュを起こした(ゼブジドフスキの乱)。
ポーランド史最大のロコシュは、1648年から1657年にかけて、当時はポーランド王国領であったウクライナで、ポーランド国会(セイム)のコサック(首都ワルシャワの中央政府に登録されたコサックはポーランド・リトアニア同君連合における正式な地方貴族だった)冷遇政策に反発したコサックたちが自治権などコサックの権利拡大を求めてポーランド国王の錦の御旗を立てて起こしたフメリヌィーツィクィイの乱であると言える。

強訴は当時のポーランドではヘンリク条項や議会に関する契約(パクタ・コンヴェンタ)により法的に明確に定められた権利で、全ての貴族にその権利が認められており、強訴が鎮圧されても首謀者は強訴そのものの行為では罪に問われない。
実際に上記のゼブジドフスキの乱でも反逆は適用されなかった。
フメリニツキーの乱でもフメリニツキーはワルシャワの中央政府で正式に登録されたコサックでシュラフタ(ポーランド貴族)とみなされており、しかも国王の錦の御旗を立てることでこれは強訴でありポーランド国家そのものに対する反逆行為ではないことをアピールしている。

[English Translation]