御座楽 (Uzagaku (Ozagaku))

御座楽(うざがく、おざがく)とは、琉球王国の室内楽である。
冊封使歓待を目的として発展した明清系の音楽である。
その起源は16世紀頃まで遡るが、琉球王国の滅亡とともに伝承が絶え、幻の音楽となった。

歴史

琉球王国では、中国(明や清)から冊封使が来たとき、あるいは徳川将軍に謝恩使や慶賀使を送る「江戸上り」のとき、中国系の音楽を演奏した。
このうち、室内で座って合奏する音楽を「御座楽」と呼び、屋外で行列しつつ歩きながら合奏する音楽を「路次楽」(るじがく)と呼んだ。
御座楽は荘重で優雅な雅楽であり、路次楽もチャルメラや太鼓などによる荘厳な鼓吹楽(こすいがく)であった。

琉球王国には中国から帰化した人々の子孫が集住する地域があり、彼らは「久米三十六姓」と呼ばれた。
久米三十六姓の人々は、琉球国王の命令を受けて、中国本土(主に福建)に渡って留学し、中国語や、音楽などの中国文化を学習した。
琉球の御座楽を伝承した楽師も、久米三十六姓の者が多かった。

「江戸上り」では、元服前の男児が、楽師から楽曲を仕込まれて、「楽童子」(がくどうじ)として御座楽を演奏した。
みな三司官など良家の子弟で、将来を期待されたエリートであった。
1653年の江戸上りから1850年の江戸上りまで、約200年の間に、70曲ぐらい演奏された。
最大で6人のアンサンブルで、1回の演奏会で10曲ぐらい弾くことが多かった。
器楽曲のほか、「明曲」「清曲」と記される唱曲も演奏された。

江戸時代の琉球王国は、名目的には中国(明、および次の清)に服属したものの、実質的には日本の薩摩藩の支配を受けていた。
琉球の使節団の「江戸上り」のとき、薩摩藩は琉球の音楽を演奏させた。
薩摩藩は、江戸までの街道ぞいの人々に「路次楽」を聴かせ、将軍以下の江戸幕府の要人たちに「御座楽」の演奏を聴かせることで、自藩の支配力を顕示した。

東アジアの漢字文化圏の諸国では、日本も朝鮮もベトナムも、それぞれ中国伝来の宮廷音楽を「雅楽」としていた。
琉球の御座楽もその一つであり、その品格と優美さは、日本本土の雅楽に勝るとも劣らぬものであった。

その後、明治の廃藩置県などがあり、琉球王国は消滅した。
明治政府は琉球を「沖縄県」として併合したが、琉球王国の名目的な宗主国だった中国(当時は清)はこれに不満を表明した。
このような微妙な国際関係も一因となって、沖縄における中国系音楽の伝統、特に「御座楽」は、明治時代に伝承が絶えた。
「御座楽」の最後の上演記録は、明治20年、伊藤博文の前で演奏したのが最後である。

現状

御座楽に関する現存資料は少ない。

・楽器:「江戸上り」のとき献上された現物が、幸い、尾張徳川家(名古屋市・徳川美術館)と水戸徳川家(茨城県水戸市)に現存。
また復元楽器が、首里城公園で展示。

・絵図:沖縄県立博物館蔵「琉球人座楽并躍之図」。
1832年の尚育王の謝恩使の一行が、江戸の芝白金の島津邸で行った奏楽と舞踊、演劇の様子を描いた絵巻。

・曲目:『通航一覧』ほかの「江戸上り」の文献記録の中に、楽隊の編成や曲目名などが記載されている。

・楽譜:山内盛彬(やまうち せいひん 1890-1986)が、1912年に古老が口で歌った旋律を聞き取って採譜した楽譜(五線譜)の中に、御座楽の曲が3種類ほどあり、山内の『琉球王朝古謡秘曲の研究』(1964)に収録されている。
古老のおぼろげな記憶によるもので、しかもいずれも曲の途中で切れてしまっている。
しかしながら、現在残っている御座楽の楽譜は、これだけである。

・歌詞:戦争で焼ける前の首里城で鎌倉芳太郎(かまくら よしたろう 1898-1983)がノートに筆写した歌詞が残っている(沖縄県立芸術大学附属図書館蔵「鎌倉芳太郎ノート54『唐歌唐踊集』」)。

中国本土には、御座楽で演奏されたのと同じ楽曲が現存しているはずであるが、御座楽のどの曲が中国本土のどの曲にあたるかについては、目下、学者たちが研究中である。

近年の沖縄県では、首里城復元などを機に、琉球王国の宮廷文化を再評価する機運が高まっている。
首里城という「ハコ」が先にできたものの、ハコの中身である儀礼や音楽は空っぽであった。
また、沖縄独自のアイデンティティーと国際交流の象徴として、「御座楽」を見直す風潮も出てきた。
こうした時代の変化を受けて、現在、御座楽を復元する事業が行われている。

[English Translation]