日本酒の歴史 (History of Sake (Japanese liquor))
日本酒の歴史(にほんしゅのれきし)
本項では、日本酒の歴史について説明する。
揚子江起源説
日本列島に住む人々がいつ頃から米を原料とした酒を造るようになったのかは定かではないが、稲作、とりわけ水稲の耕作が定着し、安定して米が収穫できるようになってからのことであるのは確かと思われる。
日本国外には、中国大陸長江流域に紀元前4800年ごろ稲作が始まり、ここで造られた米酒が日本に輸出されたのが日本酒の起源とする説もある。
しかしながら、年代的にもっとも前に位置するとは云え、さまざまな点で無理があり、日本国内ではほとんど支持されていない。
『魏志倭人伝』の記述
日本に酒が存在することを示す最古の記録は、3世紀に成立した『三国志』東夷伝倭人条(いわゆる魏志倭人伝)の記述に見られる。
同書は倭人のことを「人性嗜酒(さけをたしなむ)」と評しており、喪に当たっては弔問客が「歌舞飲酒」をする風習があることも述べている。
ただ、この酒が具体的に何を原料とし、またどのような方法で醸造したものなのかまでは、この記述からうかがい知ることはできない。
ちなみに、酒と宗教が深く関わっていたことを示すこの『三国志』の記述は、酒造りが巫女(みこ)の仕事として始まったことをうかがわせる一つの根拠となっている。
八塩折之酒
『日本書紀』には、須佐之男命(素佐男尊とも。すさのおのみこと)が八岐大蛇(やまたのおろち)を退治するために八塩折之酒(やしおおりのさけ)という八度にわたって醸す酒というものを造らせる記述がある。
じっさいの酒質がどのようなものであったか、重複して醸すという点でのちの貴醸酒に通じるものがあるのか、などの疑問点がいまだ解明されていない。
しかし、これも日本酒の起源を考えるのに興味深い史料の一つである。
考古学的アプローチ
日本では、紀元前1000年前後の縄文時代竪穴から、中国では酒造りに用いられていた酒坑(しゅこう)が発見されている。
そこには、発酵したものに集まるショウジョウバエの仲間のサナギといっしょになって、エゾニワトコ、サルナシ、クワ、キイチゴなどの果実の断片が発見された。
米から造られた酒ではなさそうなので、日本酒の直接の祖先と言ってよいかは議論を待つところだ。
だが、日本における醸造の原初的な段階を物語るものとしてこれらの史跡も貴重である。
酵母は生き物であり、アルコールも蒸発してしまうものであるから、従来の考古学的手法ではあまり日本酒の起源に関する研究は進んでいない。
口嚼ノ酒(くちかみのさけ)とカビの酒
米を原料とした酒であることが確実な記録が日本に登場するのは、『三国志』の時代から約500年も後のことになる。
興味深いことに、その最古の記述は二つある。
一つは『大隅国風土記』逸文(713年以降)である。
大隅国(今の鹿児島県東部)では村中の男女が水と米を用意して生米を噛んでは容器に吐き戻し、一晩以上の時間をおいて酒の香りがし始めたら全員で飲む風習があることが記されている。
彼らはその酒を「口噛み酒」と称していたという。
これは唾液中の澱粉分解酵素であるアミラーゼ、ジアスターゼを利用し、空気中の野生酵母で発酵させる原始的な醸造法であり、東アジアから南太平洋、中南米という広い範囲に分布していることが知られている。
現代日本語でも酒を醸造することを「醸(かも)す」という。
その古語である「醸(か)む」と「噛(か)む」が同音であるのは、このことに由来すると言われているが、異説もある。
もう一つは『播磨国風土記』(716年頃)である。
携行食の干し飯が水に濡れてカビが生えたので、それを用いて酒を造らせ、その酒で宴会をしたという記述が見える。
こちらは麹カビの糖化作用を利用した醸造法であり、現代の日本酒のそれと相通じるものである。
このように、奈良時代の同時期に口噛みによるものと麹によるものというまったく異なる醸造法が記録されているわけである。
しかし、後述する『日本書紀』応神天皇21年の記録等を勘案するに、この当時一般的であったのは後者の方であったろう。
前者は大隅という辺境の地にたまたま残った古い風習を記録したものと解すべきである。
清酒の起源をめぐって
『播磨国風土記』には「清酒(すみさけ)」というものに関する記事もある。
これを以て現在の清酒(せいしゅ)の初見とみなす説があるが、それは以下のように議論の分かれるところである。
古代の酒は、標準的には、出雲や博多に現在も残る練酒(ねりざけ)のようにペースト状でねっとりとしたものであったようである。
現在でも、皇室における新嘗祭(にいなめさい)では、このような古代の製法で醸造した白酒 (しろき)(しろき)、黒酒(くろき)という二種類の酒が供えられる。
黒酒とは、白濁した白酒に、久佐木と呼ばれる草を蒸し焼きにし、その灰をまぜこんで黒くした酒である。
これは、黒みがかった古代米で造った古代の酒の色を伝承していくための工夫の結果であろうと考えられている。
さて、このような粘度の高い古代酒から、今日私たちが見るような透明でサラサラとした清酒(せいしゅ)を精製することは決して不可能ではなかっただろうと思われる。
濁りを漉しとるだけならば、布、炭、砂などで濾過する原始的技術があったからである。
ゆえに、清酒(せいしゅ)が日本酒そのものの誕生とほぼ同時期である上代に造られたと考えるのにはさほど無理はない。
しかしながら、一方ではこの時代の古文書、たとえば天平年間の地方諸国の収支報告書である正税帳などには「浄酒」(すみさけ/すみざけ)といった語も出現する。
よって「清酒(すみさけ)」は「清(きよ)め」など祭事的な用途に使われる酒を意味していた、という説が生まれた。
いずれにせよ清酒(せいしゅ)は、やがて『菩提泉』に代表されるような平安時代以降の僧坊酒にその技術が結集されていくことになる。
また、この『菩提泉』をもって日本最初の清酒とする説もあり、それを醸した奈良正暦寺には「日本清酒発祥之地」の碑が建っている。
さらに兵庫県伊丹市鴻池にも、同市が文化財に指定した「清酒発祥の地」の伝説を示す石碑である鴻池稲荷祠碑(こうのいけいなりしひ)が建っている。
麹造りと醴酒(こざけ)
『古事記』には応神天皇(『新撰姓氏録』によれば仁徳天皇)の御世に来朝した百済人の須須許里(すすこり)が大御酒(おおみき)を醸造して天皇に献上したという記述がある。
『新撰姓氏録』によれば、この献上を行なったのは兄曽曽保利と妹曽曽保利の二人ということになっており、この二人を酒の神として祀る神社もある(参照:日本酒に関する施設)。
よって、そもそも須須許里なる人物が実在したかどうかも不明であるが、いずれにせよ百済からの帰化人が用いた醸造法ということであれば、当然それは麹によるものであったに違いない。
しかし、だからと言って、この献上より前には、麹による酒造法が日本に存在しなかったということにはならない。
たとえば、『日本書紀』によれば、応神天皇19年に吉野の国樔(くず)が醴酒(こざけ)を献上したという記述が見られる。
「国樔」は「国主」「国栖」とも書き、奈良時代以前の日本各地に散在していた非農耕民で、その特異な習俗のため大和朝廷からは異種族扱いされていた人々である。
『延喜式』の記述によれば、その国樔が献上した酒でさえも醴酒という米と麹を使用して造る酒であったことがうかがえる。
したがって、麹による醸造法は当時既に全国的に普及していたと見るべきである。
須須許里が実在の人物であったとしても、彼がもたらしたものはせいぜい酒造技術の向上レベルのものであったと思われる。
また、麹の種類の問題もある。
現在中国や朝鮮半島で酒造用に用いられているのは麦麹(餅麹)がほとんどであり、その中身はクモノスカビやケカビが中心であるが、日本酒は米麹(バラ麹)であり、その中身は純粋なコウジカビである。
朝鮮半島経由で麹による酒造法が伝えられたのであれば、それは当然麦麹であったはずである。
日本にマッコリのような麦麹を用いた酒が存在した記録がない以上、朝鮮半島起源説は成り立たない。
近年では、水田の稲穂に自然に発生したカビの塊、すなわち稲麹を利用したのが日本における麹の起源であるとする説も有力視されている。
小泉武夫の調査によれば、問い合わせた25府県全部で、かつては稲麹をもとに麹を作っていたという話を聞いたことがあるという回答を得ることができた。
中にも山形県の麹屋からは、第二次世界大戦以前までは実際にそのようにして麹を得ていたという具体的な証言が得られたという。
そこで、小泉は実際に稲麹を用いて酒造を試みた結果、日本酒に近い風味のものを作り出すことに成功している
なお、醴酒に関しては、養老1年(717年)美濃国から献上された醴泉で醴酒を造ったとの記述も『続日本紀』にある。
朝廷による酒造り
持統3年(689年)には飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)に基づいて宮内省(くないしょう)の造酒司(さけのつかさ / みきのつかさ 「造酒寮」とも)に酒部(さかべ)という部署が設けられた。
701年には大宝律令によってそれがさらに体系化され、朝廷による朝廷のための酒の醸造体制が整えられていった。
酒部は部署の名称だけでなく、今日の杜氏(とうじ)にあたる醸造技術者をも指す。
造酒司は部署だけでなく役所の名称で、建築的な構造としては、酒を醸造する甕がならんだ酒殿(さけどの)が一宇、日本酒精米をおこなう舎である臼殿(うすどの)が一宇、日本酒麹造りを造るための麹室(こうじむろ)が一宇、計三宇という配置であったという。
そこで造られる酒は、9世紀後半に編まれた『令集解』(りょうのしゅうげ)によれば、麹は現在の製法と同じ米から造るばら麹で、米と麹と水を甕に入れて混ぜ合わせ、醗酵期間は十日ほどの薄い酒であったとされている。
それより約一世紀ほど新しい『延喜式』(967年)によれば、主に造られる酒質は米と麹を数回に分けて仕込む濃い味の酒になっており、後世の段仕込みの原型がすでにうかがわれる。
また、小麦を使った酒、麹を多く使った甘口の酒、水で割った下級酒など、今日の焼酎、貴醸酒、低濃度酒の原型を想わせる製法のバラエティーが10種類ほどあったことが記されている。
さらに醪を酒袋に吊るして搾ったり、上澄みを採ったりという技術は、今日のものと同じといってよい。
中古
『延喜式』(927年)には宮内省造酒司の御酒槽のしくみが記されており、すでに現代の酒とそれほど変わらない製法でいろいろな酒が造られていたことがわかる。
なかでも「しおり」と記される製法は、現代の貴醸酒が開発される基になった。
その後は朝廷直属の酒造組織に代わって、寺院で造られた僧坊酒(そうぼうしゅ)が高い評価を得るようになっていった。
数ある僧坊酒の中で、奈良の寺院が造った「南都諸白(なんともろはく)」は室町時代に至るまで長いこと高い名声を保った。
諸白とは、現在の酒造りの基礎にもなっている、麹米と掛け米の両方に精白米を用いる手法で造られた透明度の高い酒、今日でいう清酒とほぼ等しい酒のことを、当時の酒の主流をしめていた濁り酒(にごりざけ)に対して呼んだ名称である。
江戸時代以降も「下り諸白」などのように上級酒をあらわす語として使われた。
奈良菩提山正暦寺で産する銘酒『菩提泉』を醸す菩提酛(ぼだいもと)という酒母や、今でいう高温糖化法の一種である煮酛(にもと)などの技術によって優れた清酒を醸造していた。
しかしながら、この時代の清酒は量的にも些少であり、有力貴族など極めて限られた階層にしかゆきわたらなかったと考えられる。
鎌倉時代
商業が盛んになり、貨幣経済が各地へゆきわたったことを背景として、酒は、米と同等の経済価値を持った商品として流通するようになった。
京都、とくに伏見などを中心に、自前の蔵で酒の製造を行い、それを販売する店舗も持つ酒屋、いわゆる「造り酒屋(つくりざかや)」が隆盛し始めた。
まだ十石入り仕込み桶が開発される前で、二石から三石入る甕(かめ)(もしくは「瓶」の字をあて「かめ」と読ませる場合も)を土間にならべて酒を造っていたようである。
また一方で、租税の確保や武家的な禁欲思想に基づいて、たびたび酒の売買、製造、移出入などを禁ずる政策が出された。
建長4年(1252年)に幕府の出した沽酒の禁(こしゅのきん)は徹底しており、一軒につき一個のみを残して醸造・保管用の甕を破壊させた。
破壊した甕の数は鎌倉市中のみで三万七千を数えたという。
一方で、朝廷では14世紀に入ると、財源不足より酒屋を認めて代わりに壷銭を徴収した。
このため、幕府の政策は徹底できなかった。
室町時代
室町時代前期には、この傾向にはさらに拍車がかかり、応永32年(1425年)には洛中洛外の酒屋の数は342軒に達していたことが、京都北野神社に残されている酒屋名簿という文書に記されている。
また灘区に伝わる『柴田家文書酒造り始之由来』には、「むかし大内裏(朝廷)で造酒之寮(造酒司)と呼ばれる御官人が祭祀のために酒を造っていたが、室町時代になると酒の需要が高まり、とても追いつかなくなったので、御官人の縁者が市中でも造り始めたところ、とりわけ摂州表で造る酒は出来柄がよかった。」と書かれ、室町時代が酒造業にとって急成長の時代であったことを裏付けている。
鎌倉幕府が布いた沽酒の禁は廃止され、室町幕府は反対に酒造業者たちに課税して幕府の財源として活用する道を選んだ。
当時の酒屋は資本力を持ち、土倉(どそう)といって金融業者を兼ねていることが多く、借金の取立てや財産の自衛のために用心棒たちを養っていた。
なかでも五条西洞院にあった柳酒屋という酒屋は、規模だけでなく扱っている酒質も同業者の群を抜く存在で、その名声は全国に知られた。
こうして経済力をつけた酒屋が、それまで酒屋とは別個の職業であった麹造りにも進出し、従来の麹屋の座と対立した。
この対立は文安1年(1444年)、文安の麹騒動という武力衝突にまで発展し、その結果、京都における麹屋という専門職は滅亡し、麹座も解散した。
以後、麹造りは酒屋業の一工程へと吸収合併された形となった。
またこの事件は、争いに明け暮れる京都市中の商人たちとは無縁に坦々と生産が続けられた、奈良の『菩提泉(ぼだいせん)』『山樽(やまだる)』『大和多武峯(たふのみね)酒』、越前の『豊原(ほうげん)酒』、近江の『百済寺酒』、河内の『観心寺酒』などの僧坊酒がさらに評価を高める原因にもなった。
室町時代初期に書かれた『御酒之日記(ごしゅのにっき)』には、すでに今日の段仕込みや、乳酸菌発酵の技術、火入れによる加熱殺菌、木炭による濾過などについての記述がある。
酒造法としては、掛米だけに白米を使う従来の片白(かたはく)に加えて、新しく掛米と麹米の両方に使う諸白(もろはく)の製法が現れて、その上品な味わいが人気を集めるようになった。
また僧坊酒の発展から、奈良酒や天野酒などの、のちの摂泉十二郷の各流派の原型にあたる技法の違いも現れた。
『多聞院日記(たもんいんにっき)』には、先の火入れについての記述に加えて、こうした江戸時代まで続いた伝統的な酒造法について詳しく記されている。
やがて、京都以外の土地でも酒屋が出現するようになり、こういうところで造られた酒が京都の酒市場に出回るようになった。
京都の酒屋は、他国から市中に入る酒を「他所酒(よそざけ)」または「抜け酒」と呼んで警戒し、排除しようと躍起になった。
洛中洛外の酒屋や町組(ちょうぐみ)からは、価格の安い他所酒の販売差し止めを陳情する願い状が、たびたび幕府の奉行所に提出されている。
しかし、この他所酒こそが、のちの日本の酒文化の中核をなす地酒の出発点でもあった。
文明年間(1469年~1487年)には西宮市の『旨酒』、堺市の『堺酒』、加賀国の『宮越酒』などが、弘治3年(1557年)には伊豆国の『江川酒』、河内国の『平野酒』などが盛んに取り引きされたことが記録からうかがえる。
また、厳密にいえばこれは日本酒ではないが、天文3年(1534年)には「南蛮酒」として今日でいう泡盛の『清烈而芳』が酒市場に入っていた。
安土桃山時代
日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルは1552年、イエズス会の上司へ宛てた手紙の中で、「酒は米より造れるが、そのほかに酒なく、その量は少なくして価は高し」と、日本酒に関してヨーロッパ人として最初の報告を書いている。
もちろんザビエルは、これを自文化における酒であるワインを基準として日本酒を評価しているわけだから、量や値段の印象などは興味深い。
また織田信長に接して多くの記録を残した宣教師ルイス・フロイスも天正9年(1581年)に「我々は酒を冷やすが、日本では酒を温める」などの情報を本国に書き送っている。
天正10年(1582年)『多聞院日記』によれば奈良市で十石入り仕込み桶が開発された。
これによって地方においても酒の大量生産が可能になり、さらに地酒文化を花開かせることにつながっていく。
戦国時代 (日本)の群雄割拠が諸国に文化的な独自性を持たせたことも追い風となって、それぞれの土地の一般庶民の食文化との相互補完をベースとしながら、各地に数々の新しいローカルブランドが誕生し、味、酒質、製造量などの点において多様化が進んでいった。
このころ以前は、新酒よりも、古酒が圧倒的に高級とされ値段も高かった。
古酒は茶色がかって、現代の紹興酒のように醤油のような香りがあったと推定される。
しかし酒の大量生産が可能になると、酒を輸送するのに用いられるコンテナも、壺や甕ではなく樽が主流になっていった。
古酒は密閉されてこそ酒質が保たれ、壺や甕はそのために工夫されて発達してきた醸造器であったが、樽では密閉が効かない。
このため古酒が流通しにくくなっていき、人々は新酒をしだいに飲むようになっていった。
新酒への需要が高まり、値段も相対的に高くなっていった。
16世紀(1500年代)半ばには蒸留の技術が九州に伝えられ、焼酎が造られはじめた。
これらも芋酒(いもざけ)などとしていち早く当時の酒の中央市場であった京都に入っている。
織田信長、伊達政宗、大友義鎮ほか有力大名の海外との通商、豊臣秀吉の南蛮貿易により南蛮酒として古酒(くーす)と称される琉球泡盛や、桑酒、生姜酒、黄精酒(おうせいしゅ)、八珍酒、長命酒、忍冬酒(にんどうしゅ)、地黄酒(じおうしゅ)、五加皮酒(うこぎしゅ)、豆淋酒(とうりんしゅ)などなどの中国・朝鮮の珍酒や薬草酒、さらにヨーロッパからのワインも入ってきた。
「アラキ」と記される南蛮酒もあり、これにはアラビアから地中海方面に広く現在も存在するアラックとする説や、戦国武将荒木村重の城下である摂津伊丹の銘酒とする説などがある。
こうした国際色豊かな酒の交流は、江戸時代初期の朱印船貿易へと引き継がれていった。
一方、織田信長の比叡山焼き討ち (1571年)や石山本願寺攻撃に代表されるように、この時代の支配者たちは、それまでさまざまな意味で強い力を持っていた寺院勢力を恐れ、執拗に殲滅していった。
これによって平安時代中期から培われた僧坊酒の伝統は衰滅していき、のちに寺そのものが再建されても、もはや醸造技術が寺院に復活することはなかった。
かたわらでは、鴻池善右衛門や奈良流など各地の造り酒屋や杜氏の流派が、僧坊酒の技術に改良を加えながらこれを承継していくことになる。
日本酒は、こうして中世の末までにいちおう濁り酒から清酒への移行を完了したと考えられる。
だからといって、これ以後に濁り酒がなくなるというわけではないし、清酒も今日のそれと同じものというわけでもない。
濁り酒は、農民たちが自家製するどぶろくを含めて、清酒よりも安価で手軽な格下の酒として製造、流通されつづける。
また清酒に関しても、一般的には片白(かたはく)や並酒(なみざけ)が主流であったため、ほとんどの清酒はまだ玄米の持つ糠が雑味として残る、黄金色がかった、今日のみりん(みりん)のようにこってりした味であったと考えられる。
江戸時代前期
僧坊酒を継ぐように台頭してきたのが、室町時代中期から他所酒を生産し始めていた、摂津国猪名川上流の伊丹・池田・鴻池、武庫川上流の小浜・大鹿などの酒郷であった。
これらの酒郷は、のちに摂泉十二郷と呼ばれる上方の一大酒造地として発展していく母体となった。
のちに天明3年(1783年)に書かれた『柴田家文書酒造り始之由来』によればと次のような主旨の記述がある。
「遠く飛鳥時代などに朝廷で造酒司の酒部たちが細々と酒を造っていた」
「しかし、室町時代に酒の需要が高まったためそれでは追いつかなくなった」
「縁者が摂津で酒造りを始めたところ良い出来であったので、その子孫が池田郷に住んで酒造家になった」
奈良流の諸白を改良し、効率的に清酒を大量生産する製法が、慶長5年(1600年)に伊丹の鴻池善右衛門(こうのいけぜんえもん)によって開発された。
これが大きな契機となって、次第に酒が本格的に一般大衆にも流通するようになっていった。
また日本酒は、朱印船貿易により東南アジア各地に作られた日本人町やその国の王族などへ輸出された。
とくにオランダ東インド会社(略称VOC)の根拠地であったバタヴィア(現インドネシアの一部)では、日本酒は定期的に入荷され、人々の暮らしの一部として欠くべからざるものとなった。
ヨーロッパ(おもにオランダ)から届けられるワインに対して日本酒はアルコール度数が若干高いがために、バタヴィアを始めとした東南アジアにおいては、日本酒は食前酒、ワインを食中酒として飲むという独自の食文化の伝統が生まれた。
いっぽう日本国内においては、江戸時代初期には、後世から四季醸造と名づけられる技術があり、新酒、間酒(あいしゅ)、寒前酒(かんまえざけ / かんまえさけ)、寒酒(かんしゅ)、春酒(はるざけ)と年に五回、四季を通じて酒が造られていた。
酒造りは大量の米を使うために、米を中心とする食料の供給とつねに競合する一面を持っている。
そこで幕府は、ときどきの米相場や食糧事情によって、さまざまな形で酒造統制を行なった。
まず明暦3年(1657年)、初めて酒株(酒造株)制度を導入し、酒株を持っていなければ酒が造れないように醸造業を免許制にした。
寛文7年(1667年)伊丹でそれまでの寒酒の仕込み方を改良した寒造りが確立されると、延宝1年(1673年)には酒造統制の一環として寒造り以外の醸造が禁止された(寒造り以外の禁)。
これにより四季醸造はしばらく途絶える形となった。
こうして酒造りは冬に限られた仕事となったので、農民が出稼ぎとして冬場だけ杜氏を請け負うようになった。
やがて各地にそれぞれ地域的な特徴を持った杜氏の職人集団が生成されていった。
このころは全国各地で、一般的に造り酒屋によって製造・卸の兼業が行われていた。
とくに江戸では人口が集中して大消費地になったために、酒についても専門問屋仲間が成立した。
そして江戸に着いた荷をさばく問屋の寄合いも形成された。
いっぽう大坂では、従来の造り酒屋が問屋を兼業していたので、江戸のような専門酒問屋は出現しなかった。
このように江戸時代に入り商品化された酒は「商人の酒」といわれるようになった。
一方、酒によって多大な利益を得る商人から、いかにして租税をとりたてるかが幕府にとって頭の使いどころでもあり、頭の痛い問題でもあった。
幕府から見れば、酒株制度には酒造石高をめぐって一つの弱点があり、酒屋ら商人たちがそこをうまく利用すると、幕府に入る酒税が先細りになっていく恐れがあった。
そのため幕府は寛文6年(1666年)を始めとして何回か酒株改めをおこなった。
ことに元禄の酒株改め(1697年)は徹底的におこなわれ、このときから宝永6年(1709年)まで酒屋には運上金(うんじょうきん)も課せられた。
江戸時代中期
伊丹酒(いたみざけ)や池田酒の評判はつとに高まり、元文5年(1740年)には伊丹『剣菱』が将軍の御膳酒に指定された。
江戸市中の酒の相場でも、伊丹酒や池田酒は他の土地の酒に比べはるかに高値で取引されていた。
しかしこのころから神戸・西宮あたりの灘目三郷が新興の醸造地域としてすでに注目を集め始める。
後世、銘醸地の代表格となる灘が、最初に文献に登場するのは正徳6年(1716年)である。
享保9年(1724年)の下り酒問屋の調査では、灘目三郷の名が伊丹酒を追い上げる酒の生産地として報告書に記載されている。
これが江戸時代後期の灘五郷である。
これら摂泉十二郷(せっせんじゅうにごう)と呼ばれた、伊丹や灘やその周辺地域で造られた酒は、天下の台所といわれた集散地大阪から、すでに人口70万人を擁していた大消費地江戸へ船で海上輸送された。
こうして上方から江戸へ送られた酒を下り酒と呼ぶ。
時代により変動があるが、下り酒の7割から9割は、摂泉十二郷産のものであった。
それ以外では尾張、三河、美濃で造られ伊勢湾から合流する中国もの、他には山城、河内、播磨、丹波、伊勢、紀伊で造られた酒が下り酒として江戸に入っていった。
いっぽう関東側では、中川と浦賀に幕府の派出所があり、ここで江戸に入る物資をチェックしていた。
この調査結果は江戸入津と呼ばれ、幕府が江戸市中の経済状態を市場操作したり、国内の移入移出の実態を調べるのに活用された。
下り酒は、はじめは菱垣廻船で木綿や醤油などと一緒に送られていたが、享保15年(1730年)以降は樽廻船として酒荷だけで送られるようになった。
宝暦年間初期は豊作が続いたため、幕府は宝暦4年(1754年)に勝手造り令を出し、新酒を造ることも許可した。
このため四季醸造は復活の機会があった。
しかし、もはや生き証人としてその技術を心得ている杜氏がいなかったこと、また消費者もうまい寒酒の味に慣れ、酒郷ではよりよい酒質を求めて熾烈な競争をくりひろげていたことなどから、以前のような復活に至らなかった。
こうして幕府の酒造統制が緊緩を揺らいでいくうちに、四季醸造の技術は江戸時代の終わりまでに消滅してしまうことになる。
それが復活できたのは、じつに昭和時代の工業技術によってであった。
江戸時代後期
天明3年(1783年)に浅間山が大噴火し天明の大飢饉が起こると、幕府は、天明6年(1786年)に諸国の酒造石高を五割にするよう減醸令(げんじょうれい)を発した。
天明8年(1788年)にはまたしても酒株改めをおこない、その結果にもとづいて三分の一造り令などが示達された。
松平定信は寛政の改革の一環として天明の三分の一造り令を継続するとともに、「酒などというものは入荷しなければ民も消費しない」との考えのもとに下り酒の江戸入津を著しく制限した。
享和2年(1802年)水害などに起因する米価の高騰により、幕府は酒造米の十分の一を供出させた。
この米のことを十分の一役米という。
酒屋たちは抵抗、反発し、十分の一役米は享和3年(1803年)に廃止された。
文化文政年間は豊作の年が続き、幕府は文化3年(1806年)にふたたび文化の勝手造り令を発し、酒株を持たない者でも、新しく届出さえすれば酒造りができるようになった。
こうして酒株制度はふたたび有名無実化したが、このことはやがて江戸後期から幕末にかけ、酒屋たちのあいだに複雑な酒株無株者と株持ちを起こさせることになる。
天保8年(1837年)(一説には天保11年(1840年))山邑太左衛門(やまむらたざえもん)によって宮水(みやみず)が発見されると、摂泉十二郷の中心は海に遠い伊丹から、水と港に恵まれた灘五郷へと移っていった。
近代
明治時代前期
海外への紹介
明治5年(1872年)、オーストリア万国博覧会に日本酒が出品された。
2006年3月現在、日本酒造組合中央会など日本における「公式」といってもよい日本酒の歴史によれば、このオーストリア万博への出品を以て日本酒のヨーロッパへの初めての「輸出」とみなしているようである。
しかし、これは正確とは言えない。
日本国外への輸出は、江戸時代初期に朱印船貿易によって東南アジアに輸出されていた多くの実績がある。
とくにそれ以後、日本酒の飲用がその地の独自な食文化の一部として定着をみた、オランダ東インド会社の根拠地バタヴィア(現インドネシアの一部)などを通じて、オランダ経由で日本酒がすでに江戸時代にヨーロッパにもたらされた形跡がある。
また、江戸時代後半にはカムチャツカからシベリア経由でロシア帝国がヨーロッパに日本酒を紹介していたことなども明らかになっている。
しかしながら、明治維新を迎えて、日本酒が政府のお墨付きと後押しを受けて表舞台を通じてヨーロッパに入っていったことは事実であるといえよう。
鹿鳴館時代に来日したイギリス人アトキンソンは、明治14年(1881年)に日本各地の酒屋で日本酒火入れの様子を観察した。
彼は、すでに1862年にルイ・パスツールが殺菌を発見していた西洋の近代的方法と異なり、温度計のない環境で、杜氏が酒の表面に「の」の字がやっと書ける熱さとしてぴったりと華氏130度(約55℃)をあてることに驚きを表明している。
また、火入れの技法そのものは中古からあったものの、それを施さなかったときに起こる腐造のことを火落ち、あるいはそれを起こす菌を火落ち菌と呼ぶようになったのは、このころ以降のことである。
酒税と自由民権
明治8年(1875年)、明治政府は、江戸幕府が定めた複雑に入り組んだ酒株に関する規制を一挙に撤廃し、酒類の税則を酒造税と営業税の二本立てに簡略化して、醸造技術と資本のある者ならば誰でも自由に酒造りができるように法令を発した。
このためわずか一年のあいだに大小含め30000場を超える酒蔵がいっきに誕生した。
また、のちに禁じられる自家製酒(どぶろく)に関しても、製造量は1年につき1石までという規制はあったものの、どの家庭でも自由に造ることができた。
明治15年(1882年)には、自家製酒を造る者は製造免許鑑札を申請し、鑑札料金80銭を納めることが義務づけられた。
しかし、販売を目的としないかぎり、ちゃんとした清酒であっても明治19年(1886年)まで自家醸造は自由であった。
一方では、輸出先に対して関税自主権を持てなかった明治政府は、外国からめったに輸入されないため関税について頭を悩ませる必要がなく、しかも国内消費が大きかった日本酒から徴収する酒税に、主たる歳入としての目星をつけた。
こうして政府は、酒蔵への課税をどんどん重くするようになり、明治政府は国家歳入のじつに3割前後を酒税に頼るにいたった。
こうした重税化の動きに対し酒蔵側は、明治14年(1881年)に高知県の酒造業者が、同県出身の自由民権運動の指導者植木枝盛の助力を得て、酒造税引き下げの嘆願書を政府に提出したのを皮切りに、各地で抵抗に立ち上がった。
政府側は嘆願書に署名した蔵元を処罰するなどして鎮静化を図ったが、酒造税をめぐる酒蔵たちと明治政府のあいだの攻防は収まる気配をみせず、以後三十年近くにも及ぶことになる。
なかでも代表的な事件が明治15年(1882年)の大阪酒屋会議事件である。
課税に耐えられない酒蔵はどんどんつぶれていき、明治15年には16000場にまで減少した。
やがて8000場前後を推移しながら昭和時代を迎え、太平洋戦争によって打撃を受け4000場ほどになる。
さらに平成時代は消費低迷期を迎え、2008年現在では約1500場を下回っている。
酒米の開発
課税に耐えて生き残ることができた酒蔵は、富裕な大地主によって開かれたものばかりであった。
それまで、大地主たちは不作や飢饉の時にそなえて、毎年の収穫から一定量の米を備蓄するのが通例であった
だが、不作や飢饉がなければ、こうした備蓄米はそのまま古くなって無駄になるリスクがつきまとった。
そこで彼らは、備蓄米を自分がやっている酒蔵へ原料として回したのである。
こうした大地主が始めた酒蔵のなかには、そのまま発展して今日の日本酒業界でいわゆる「大メーカー」となっている会社も多い。
このように米の使途の比重として、酒造りが大きくなってきた地方では、食用でなく酒造りに向いている米の探究が盛んに行なわれるようになった。
1860年にすでに伊勢国多気郡の岡山友清が在来品種である大和 (イネ)から酒米醸造適性のある品種を純系分離したのに範をとって、それぞれ下記ように選抜・純系分離し、酒造好適米として品種確立していった。
1866年岡山県では岸本甚造が在来品種より備前雄町を確立した。
明治10年(1877年)に兵庫県の丸尾重次郎が在来品種程吉から神力(しんりき)を確立した。
明治21年(1889年)に山口県の伊藤音市が兵庫県の在来品種都より穀良都を確立した。
明治23年(1891年)に鳥取県の渡邊信平が在来品種より強力(ごうりき)を確立した。
また起源には複数説があるが、のちに日本を代表する酒米となるものとして、明治時代前期に兵庫県で山田穂が品種確立されている。
しかしながら、まだ科学的再現性というものが導入されていなかったこのころの醸造業界では、今日に比べると技術が拙なく、いかに良い酒米を用いても醸造しているうちに腐ってしまうことも多かった。
このような状況が、政府主導によって全国規模で酒造りに関する情報を交換し、酒蔵相互の技術の向上を図る必要を生んだ。
やがて明治時代後期の全国新酒鑑評会制度の整備へとつながっていくこととなる。
ビール・ワインとの競合
明治維新とともに数多くのビール醸造メーカーも酒造業界に参入したが、酒造業者(酒蔵)と酒問屋は自分たちの商品と競合するビールの進出を好まなかった。
従来からの酒問屋はビールを取り扱わず、その結果、酒小売店もビールを取り扱わなかった。
そのためビールは酒屋ではなく薬種問屋などで売られるようになり、日本酒とは異なる流通網が構築された。
また明治政府は、欧化政策の一環として国民に西洋の酒類をより多く消費させようとして、当初ビールやワインに対しては、日本酒に対するような重い課税を行なわなかった。
このことが日本人に急速にビールが浸透したことの一因となった。
明治34年(1901年)、ようやくビールにも課税がなされるようになったが、ワインは無税であった。
それ以後太平洋戦争末期にかけて、日本酒には造石税・物品税・庫出税などさまざまな課税がなされていくが、ワインは醸造免許にかかわる税のみで、商品に対する酒税は免除されていた。
このことがビール・ワイン業界の基礎体力ともいうべきものを温存し、戦後の復興もスムーズとなった。
昭和時代後期から現在におけるビール・ワインの酒類消費シェアの拡大の裏には、じつに明治初年の欧化政策が尾を引いているのである。
明治時代後期・大正時代
醸造業の近代化
明治時代後期(日清戦争以後)から大正時代にかけては、酒造りにおいて急速な近代化の時代を形成する。
これを伝統技法の逸失ととらえる立場もある。
近代以前はいわゆる科学的再現性が酒造りにおいてはつねに大問題であった。
たとえ生酛によって良い酒ができても「同じものをまた造る」ということが不可能に近かったのである。
明治時代中期でも、仕込んだ醪のうち10%はできあがる前に腐ったり(腐造)、火落ち菌によってだめになったり(火落ち)、おかしくなったり(変調・変敗)、すっぱくなったり(酸敗)することを前提として仕込みを行なっていた。
醗酵を進める酵母については、酒蔵では空気中に自然に存在する酵母や、昔から住みついている酵母(蔵つき酵母・家つき酵母)の力に頼っていた。
しかし、株が一定せず、雑菌と混同しやすく、醸造される酒は品質が安定しなかった。
また、ひとたび腐造が起こると、それを起こした菌は木樽や木桶のなかに浸透するため、何年にもわたって影響をおよぼし、酒蔵にとっては長い災禍となった。
このような災禍の恐れのない醸造環境のことを安全醸造といい、酒造りそのものが腐造と隣り合わせだった昭和時代中期まで、醸造業における重要な概念となる。
1894年(明治27年)から1895年にかけての日清戦争に勝利した明治政府は、安全醸造の行なえる醸造業の近代化も国家戦略の一部としてとらえ、西洋の微生物学を導入して積極的に支援した。
というのも、日清戦争で獲得した賠償金などの余力を、次世代の国庫の財源確保につなげなければならないという大命題があったからである。
国家歳入の酒税に頼る割合は依然として高く、明治30年(1897年)には33.0%に達した。
このため、税制の健全化を図るにはまず酒税の安定が先決であると考え、国家レベルの投資の一環として、安全醸造に普及に、ひいては醸造業の近代化に取り組んだわけである。
こうして、明治37年(1904年)には大蔵省の管轄下に国立醸造試験所(現在の独立行政法人酒類総合研究所)が設立された。
そこではやがて明治42年(1909年)山廃仕込みが開発され、翌年(1910年)には日本酒速醸系が考案された。
やがて明治40年(1907年)に日本醸造協会が主催する第1回全国清酒鑑評会が、さらに明治44年(1911年)には国立醸造試験所によって第1回全国新酒鑑評会が開催されることになる。
協会系酵母と酒質の潮流
全国新酒鑑評会が毎年春に、全国清酒品評会が秋に開かれるようになり、そこで高い順位を取るなどして客観的に優秀と評価された清酒酵母を、醸造協会(現在の日本醸造協会)が分離、純粋培養し、全国の酒蔵に頒布するという制度が成り立っていった。
これに則って江戸時代後期から名声の高かった灘五郷の『桜正宗』から協会系酵母協会1号が、さらに京都伏見の『月桂冠』から協会系酵母協会2号が、それぞれ採取され全国に普及した。
鑑評会や品評会が始まった当時、上位に入賞するのはこれら灘・伏見のような古くから知られた銘醸地であることは誰しもが予想していた。
しかし協会系酵母協会3号が、三浦仙三郎によって軟水醸造法が開発された広島『酔心』から選ばれ、さらに第4号・第5号も広島系の酒蔵から採取された。
これらのことに、地方の酒蔵はおおいに驚くとともに鼓舞され、各地で自分たちの水と米に適合した酒造りが研究・発展されることになる。
わけても山形の鶴岡市『出羽ノ雪』、福岡の小林作五郎による『萬代』が評価を高めた。
酒米の開発も意欲的に続けられ、下記のようにそれぞれ選抜・純系分離し、酒造好適米として品種確立していった。
明治27年(1895年)滋賀県立農事試験場が備前雄町から雄町を確立した。
明治30年(1897年)島根県では御原岩次郎が在来品種晩稲大関より早大関を確立した。
明治26年(1893年)から明治30年(1897年)ごろにかけて山形県にて阿部亀治が在来品種惣兵衛早生より亀の尾を確立した。
流通と消費の形態変化
以前は、江戸へ下り酒として大量輸送される灘五郷のような大ブランドを例外として、基本的に日本酒とは地産地消であった。
祭礼などの場に地元の酒が四斗樽で運ばれて皆で自由に飲むか、比較的に裕福な階層が自前の徳利などを携えて酒屋へ行き、酒屋は店頭に並べた菰(こも)かぶりの酒樽から枡で量り売りをするのが通例であった。
このため、今でいう地酒はその町や村から外へほとんど出ることがなかった。
しかし、明治後期から少しずつではあったが酒は瓶で売られるようになり、生産された町や村を離れて流通するようになった。
明治34年(1901年)には白鶴酒造から一升瓶が登場し、大手メーカーでは日本酒が瓶詰めで売られるのが普及していった。
いっぽう、量り売りをする酒屋は昭和前期まで見られた。
酒が瓶詰めになったことは、人の酒の飲み方、すなわち消費形態や食生活にも変化をもたらした。
すなわち日本人の平均的な日本酒の飲み方は、年に数回だけ振る舞い酒を、枡の角に盛った塩を舐めながら飲み、飲んだからにはとことん泥酔するような様式だった。
酒屋から瓶で買ってきた自分の好みの銘柄を、ほとんど毎晩晩酌や独酌として、食事や肴とともにたしなみ、そこそこに酔う(当時の表現で「なま酔い」という)様式へ変わっていったのである。
このような消費様式の変化は、明治後期から昭和時代前期にかけてゆっくりと浸透した。
戦中戦後の復興の時代をまたいで、現在の消費形態の土台ともなっている。
どぶろくの禁止
政府は、明治32年(1899年)自家製酒税法を廃止し、これを以って自家製酒(どぶろく)の製造と消費を禁止した。
違法化されると、「どぶろく」という語も「密造酒」という意味を帯びていった。
この措置も、政府の歳入獲得が目的であった。
酒類の消費の大勢を占めるどぶろくを禁止すれば、国民の需要は酒税のかかる清酒へと向き、それがそっくり歳入にはねかえってくるだろう、というのが明治政府の予測であった。
ところが実際はそのようには運ばず、これ以後、酒税の歳入に占める割合は増加することはなかった。
どぶろくの禁止に関しては、国民の食生活への国家の介入であるとしてその後も根強い反論を招き、昭和時代後期のどぶろく裁判などを経て、2002年(平成14年)の構造改革特別区域でいわゆる「どぶろく」が設けられるまで続いた。
どぶろく特区以外では2010年現在も家庭でどぶろくを作ることは法的に禁止されている。
木樽から琺瑯へ
明治以前の酒樽は木製で、樽壁の中に雑菌が生息している可能性もあり、不衛生だという意見があった。
この問題を解決するために、今日のような琺瑯(ほうろう)で表面を加工した鉄製の酒造タンクも開発され、政府もこの普及を推進した。
これに対して、木樽造りは長い伝統的実績を経た醸造技術であり、それが生み出す日本酒香りもまた日本酒の魅力であるとする酒蔵が、平成時代になって木樽造りを復活させた。
一方では琺瑯タンクによる酒造りも、製造される酒質はそれ以前のものと比べて何ら劣るものではなく、あえてコスト高と不衛生のリスクを冒して木樽造りにこだわる意味を見出さないとする意見もある。
新式焼酎と合成清酒
醸造業の近代化とはすなわち、「酒を工業的に生産する」ことの始まりでもあった。
そもそも陸軍に所属する火薬製造所で開発された、純度の高いアルコールを蒸留する技術が、アルコール飲料の開発に応用されるようになった。
工業生産されたアルコールに水を加えた甲類焼酎として、明治44年(1911年)日本酒精より発売された。
飲用に使われるようになって、官能的に感知される不純物を除去するため、アルコールの蒸留技術はさらに進化していった。
それを応用して大正10年(1920年)に鈴木梅太郎が合成清酒の製法で特許を獲得した。
「ほんらい食用に回すべきお米を酒にしてしまう」との発想から、酒が不届きなぜいたく品のようにも考えられた当時は、「成分中のアルコールが米に由来しない」ということが近代的で良いこととして解釈された。
合成清酒は新清酒とも呼ばれて、大和醸造から科学の酒『新進』として発売された。
これがやがて昭和時代の三倍増醸酒へと至る技術の一端である。
昭和時代前期
昭和初期の隆盛
昭和1年(1926年)には、国家歳入の酒税に頼る割合は24.4%にまで下がってきていたが、依然として所得税を抜き首位であった。
主要な輸出品でなかった日本酒は、昭和4年(1929年)の世界大恐慌の打撃をまともに受けることはなかった。
だが、かえってビール業界の伸長に圧迫され、昭和4年(1929年)から昭和6年(1931年)まで連続年10%の減産を余儀なくされた。
昭和3年(1928年)、同5年、同7年と立て続けに鑑評会で優等賞を取った佐藤卯兵衛の秋田『新政』(あらまさ)の秋田流低温長期醗酵が注目を集め、ここから分離された新政酵母が昭和10年(1935年)に協会系酵母協会6号となった。
第6号酵母は現在も使われている酵母としては最も古い清酒酵母であり、また低温長期醗酵はのちの吟醸酒の誕生の原型となった。
酒米も、大正13年(1923年)に酒米一般米と雄町を交配させ、昭和11年(1936年)に兵庫県奨励品種として登場した山田錦が鑑評会上位を占めるようになった。
日中戦争と米不足
昭和12年(1937年)、日中戦争が始まると日本酒を取り巻く状況は暗転した。
日本酒も前線の兵士へ送るために徴用され、品質の良い酒が市場に出回らなくなった。
さらに食用としての米を確保するため、昭和13年(1938年)国家総動員法によって酒造米200万石が削減させられた。
さらに勅令789号によって米穀搗精制限令(通称「白米禁止令」)が公布され、生産は半減することとなった。
昭和5年(1930年)の縦型精米機の登場によって、一時は飛躍的な発展の可能性がかいまみえた日本酒吟醸酒の技術に関しても、昭和13酒造年度(1938年-1939年)から精米歩合が65%以下に規制されて出鼻をくじかれ、本格的な発展にはなお三十年近い歳月を待つことになった。
酒の値段も、政府のさだめる公定価格によって統制されることになり、このことが太平洋戦争末期から戦後の混乱期にかけて別個に存在する実勢価格(闇値)で取引される素地を、すなわち闇市を作った。
この公定価格制度は昭和35年(1960年)まで残った。
こうして日本酒の需要と供給は大きくバランスが崩れ、酒小売店では酒樽を店頭に出す前に中身へ水を加えてかさ増しするところが続出した。
金魚が泳げるくらい薄い酒ということで金魚酒と名づけられたこのような酒を取りしまるために、昭和15年(1940年)にアルコール濃度の規格ができ、政府の監査により日本酒級別制度が設けられた。
当初は「特級」「上級」「中級」「並」の4階級であった。
階級の分け方は時代とともに変遷していったが、制度そのものは平成4年(1992年)まで続いた。
増産酒の登場
第1次増産酒
日本人が多く入植した満州国でも日本酒の需要は高かった。
現地の水がひじょうに硬水だったこと、内地からの米の輸入が不自由だったこと、いまだ安全醸造に至らない貧弱な設備の蔵が多かったこと、既成の日本酒は現地の極寒の気候では凍ってしまうことなどの問題があった。
このため、それら問題点を解決する酒が、満洲国経済部官長島長治と奉天にあった嘉納酒造の技師安川豪雄によって研究されていた。
やがて、ワインへ行なわれていた日本酒アルコール添加の技法にヒントを得て、昭和14年(1939年)日本酒へ大量にアルコール添加することで容量を増やし、さらにそれでは辛すぎて飲めないということで糖類を添加して飲むという方法が開発された。
これは第1次増産酒と呼ばれた。
この手法では、添加するアルコールは30度まで希釈して、過マンガン酸カリウムと活性炭濾過によって精製したものを、上槽の三日前に、白米10石の醪につき3石から5石を加えるというものであった。
昭和15年(1940年)に実施された試醸で、香りはほとんど感じることなく火入れによる変敗も認められなかったと報告されたため、昭和16年(1941年)には満州全土の酒蔵で実用に移された。
第2次増産酒
昭和16年(1941年)、太平洋戦争が始まり米不足に拍車がかかった内地では、昭和17年(1942年)食糧管理制度が制定され、酒造米も配給制となった。
このような中、いかに米を使わないで酒を造るかが研究された。
満州における第1次増産酒が内地55場の酒蔵で試醸され、その結果、元の清酒の量の3倍になるまでアルコールを添加する手法が編み出された。
これを第2次増産酒といい、戦後の三増酒の直接の原型となる。
これに伴い昭和18年(1943年)、政府は清酒の原料にアルコールを追加できるよう酒税法を改正、またアルコールを酒類製造業者へ売り渡しできるようアルコール専売法を改正するなど関係法令の整備をおこなった。
昭和19年(1944年)にはすべての酒造業者が第2次増産酒に切り替えた。
しかし、識者から日本酒の純粋性と品質低下を招くとの根強い批判があったために、大蔵省は第2次増産酒は原則として清酒三級として取り扱うよう通達を出した。
添加する醸造アルコールは当初おもに芋から供給された。
だが、やがて芋も不足してくると、野山に動員された小学生が拾ってくるドングリが、さらにガソリン原料の無水アルコールが転用された。
昭和18年(1943年)酒類もすべて配給制となり、これ以後はもっぱら闇市で取引されるようになった。
酒の闇値はほぼ半年で2倍の割合で上昇していった。
横流しの酒のほかに、家庭に配給された酒までが換金のために闇へ流されるようになった。
酒蔵は、隠れて仕込んでいる酒が発覚すれば、醸造設備すべてをスクラップとして供出しなければならなかった。
現代
昭和時代中期
闇酒の横行
戦争によって醸造業も壊滅的な打撃を受けた。
戦火に焼かれた酒蔵だけでも223場にのぼり、昭和20酒造年度(1945年-1946年)の全製成量の17%の酒が失われ、杜氏や蔵人などの人的損失もたいへん大きかった。
わけても深刻だったのが食糧難、とくに原料となる米の絶望的な不足であった。
昭和21年(1946年)5月19日の「飯米獲得人民大会」(いわゆる「米よこせメーデー」)を抑えこんだ連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、日本政府へ酒類の製造を禁止する命令を下した。
しかし、過去アメリカにおける禁酒法が実効をあげなかったこと、闇酒が多くの犠牲者を出していたこと、大手ビール会社が確保していた大麦の一部を供出したこと、などの要因によって命令は実施に至らなかった。
兵士たちの復員などによって飲酒人口が急増し、また暗い世相を反映して酒類への需要が高まり、供給が追いつかなかった。
このためメチル、カストリ、バクダンなどの密造酒が大量に横行するようになった。
どぶろくなどの従来の密造酒と比べてアルコール濃度が高く、激烈で有害なのが特徴で、闇市で売買されることから闇酒ともいう。
メチルとは、戦争中に石油燃料の代用とするために製造されたエチルアルコールを水で希釈したものに、人が間違えて飲まないようにわざわざメチルアルコールを混ぜ、目立ちやすいように桃色に染めたものであった。
戦後の食糧難のなかで人々は危険を半ば承知でこれらに手をつけた。
それも必ずしも下層階級ばかりでなく、分別も教養もある人々が酒への渇望から飲み、失明したり死亡したりした。
新聞では「目散/命散(めちる)」などと書かれた。
カストリとは、本来は酒粕を蒸留して作る伝統的な焼酎の一種であったが、当時は密造の粗悪な芋焼酎のことを指し、飲んだ後のコップが油ぎって汚れるのが特徴であった。
関東では多摩川をはさんで大田区から川崎市川崎区、関西では尼崎市が生産地として有名であった。
バクダンとは、戦時中の航空基地などで使い残された燃料用アルコールの変成したものを、活性炭で脱色し水で薄めたもの。
闇市の酒場では「即席焼酎」などと呼ばれて売られ、さらに他の酒へ割り込むこともあった。
失明・死亡率が最も高かった。
三増酒の登場
闇酒の横行は国民の健康を損ねるだけでなく、治安を悪化させ、政府にとっても税収の低減につながるため、合法的でなおかつ米を原料としない酒が真剣に研究された。
清酒と合成清酒を混ぜた混和酒が考案されたが、政府が採用したのが戦前の第2次増産酒を応用した三倍増醸清酒であった。
三増酒(三倍増醸酒)とは、日本酒醪をしぼる前に、その醪から生成すると見込まれる清酒の2倍量のアルコールに、あらかじめ調味料を入れて調味アルコールとし、醪に加えて圧搾にかけ、結果的に約3倍の製成酒を得るというものであった。
合成清酒や混和酒と区別するために、調味料として使える原料はブドウ糖、水飴、乳酸、コハク酸、グルタミン酸ソーダ、無機塩類にかぎられた。
この手法を実現するためには、より純度の高いアルコールに含まれる不純物を加水抽出する技術が必要であった。
昭和24年(1949年)10月フランスの蒸留機メーカーであるメル社のアロスパス式加水蒸留が日本蒸留工業にもたらされて問題点を解決するに至った。
三増酒の生産が昭和24酒造年度(1949年-1950年)に本格的に導入されることになった。
全国で200場の酒蔵が試醸に参加した。
ちなみに、このように生産される工業アルコールはのちに、日本酒だけでなく、焼酎、ウィスキー、ワインにも使われることになる。
戦禍から即席に再生させた醸造設備は乏しく、せっかく貴重な原料米を入手しても健全醗酵できず、腐造に至る場合も相次いで起こった。
それでも市場における供給不足は深刻なので、曲がりなりにも酒として出荷しなければならない。
そのためには大量のアルコールを添加し、辛ければ調味料で甘くするしかない。
このような背景から、ほとんどの酒蔵でかさ増しのためのアルコール添加が行なわれ、三増酒が合法的な日本酒の主流となっていった。
酒税法を守らせる立場の監督官庁ですら「建前を言っている場合ではない」と、醪を腐造から守るために率先して法定上限をはるかに超えるアルコール添加をおこなっていたという。
日本酒をめぐる需給バランスは敗戦直後よりもむしろ悪化する一方で、昭和23酒造年度(1948年-1949年)あたりが最悪であった。
昭和22年(1947年)の全国の製成量は昭和初年の10分の1を下回った。
同年3月の配給酒1升の公定価格は43円であったが、闇市での実勢価格は500円を上回っていた。
日本酒への原料米の割り当てが昭和20年(敗戦時)の水準に戻ったのは、じつに昭和26年である。
戦後の復興
昭和20年(1945年)はさすがに全国新酒鑑評会・全国清酒品評会ともに行なわれなかった。
昭和21年(1946年)には鑑評会と品評会が両方ともかろうじて再開された。
しかし当時の食糧難を反映して、精米歩合も70%までと規制が設けられた。
70%以下という精米歩合帯で有利になった長野『真澄』が鑑評会・品評会ともに上位を独占した。
この酵母が分離され協会系酵母として全国に頒布され、出品酒の8割以上に使われるようになった。
昭和24年(1949年)5月6日酒類の配給制が解かれ酒類販売の自由化がなされた。
配給制から自由化に移行するに当たって、各都道府県に指定の卸が置かれることとなった。
この卸の役割を担ったのが酒造メーカーであった。
江戸時代から続く、小売店の店頭で小銭を払って酒を立ち飲みする風俗は、昭和18年に酒類が配給制となってから途絶していたが、この販売自由化によって復活した。
全国清酒品評会は隔年の秋に、主にひやおろしを対象として昭和25年(1950年)まで開催されたが、やがて行われなくなった。
いっぽう産業振興よりも醸造技術の修得・向上が目的とされる全国新酒鑑評会は、賛否両論を浴びながらも現在に至るまで毎年春に行われている。
昭和25年(1950年)6月朝鮮戦争が勃発し、日本に特需景気をもたらし始めると、密造酒の撲滅のためにその機会を狙っていた政府は、同年12月、明治時代前期はじめて全酒類の減税に踏み切った。
引き下げ率は平均30%近くという画期的なもので、これがやがて「酔えば何でもよい」という闇酒への需要から日本人が脱却するきっかけとなった。
昭和26年(1951年)の進駐軍撤退後、ようやく日本酒の消費は伸び始める。
しかし三倍増醸酒は昭和30年代以降も根強く残り、ひいては昭和時代後期に始まる日本酒の消費低迷期を招くこととなる。
昭和27年(1952年)茨城の明利酒類『副将軍』より(複数説あり)協会系酵母協会10号が分離された。
また昭和28年(1953年)熊本『香露』から協会系酵母協会9号が分離されると、これを用いて盛んに吟醸酒が試みられるようになった。
日本酒吟醸酒・純米吟醸酒の誕生
「吟醸酒」という言葉はすでに大正時代からあり、鑑評会に出すために「吟味して醸した酒」という意味であった。
製成のしくみが科学的に解明される前にも、一部のいわゆる名人の域に達した杜氏たちは経験的に日本酒麹の造り方を心得ていた。
しかし、配下に働く蔵人はおろか蔵元にも教えなかった。
技統を継がせる一番弟子だけにかろうじて語られる門外不出、一子相伝の代物であった。
科学的な解明は、国立醸造試験所などにおける1920年代の清酒酵母の研究に始まる。
これによって、ある種の特殊な酵母を用いて醸造した酒は、それまでの日本酒にはない洗練された香味を醪に内包させ、水に溶け出さないこれらの成分も、日本酒アルコール添加によって引き出せることが技術的に知られてきた。
したがって吟醸酒とはそもそも、新式焼酎と合成清酒などが未来志向の「科学の酒」として意欲的に開発された時代に、のちに三増酒の流通によって多分に悪いイメージを背負いこむことになるアルコール添加を前提として研究された概念であった。
当初は市販流通を目的として造られた酒ではなかった。
その造りには高度な醸造技術を要することから、蔵人たちの修業研鑽のために、また全国新酒鑑評会への出品酒とするために、ごく限られた量だけ実験的に造られていた。
昭和5年(1930年)には縦型精米機の登場などによって精米技術が飛躍的に発達し、吟醸酒を造るのに欠かせない高い精米歩合が容易に実現されるようになった。
これによって、それまで一部のごく限られた愛飲家だけに楽しまれていた吟醸酒が、市販流通に耐えうる量を生産できる展望が開かれたが、昭和12年(1937年)日中戦争の勃発によって頓挫した形となった。
昭和28年(1953年)『香露』を造っていた熊本県酒造研究所の野白金一によって、低温でも醗酵力が旺盛で華やかな芳香を出す酵母が分離され、協会系酵母協会9号として認定された。
これが現在の吟醸酵母の原型となる。
しかしこのことは、戦前に開発され当時の酒米の主流となっていた山田錦を用い(Y)、『香露』の酵母を用い(K)、精米歩合を35%まで高めれば(35)吟醸酒ができるといった定式化(YK35)が誠しやかに流布される発端ともなった。
昭和20年代末に、すでに吟醸酒を出品酒に留まらせず商品化した蔵元や、特級酒にブレンドするということを試した蔵元もあらわれた。
だが、市場がいまだ高級酒を欲していなかったため、いずれも一般に膾炙するには至らなかった。
それ以後の吟醸酒の展開については「吟醸酒の普及」を参照のこと。
三増酒の流通とその背景
日本酒を知らない世代
昭和31年(1956年)「もはや戦後ではない」と言われるようになり、メチルやカストリといった危険な密造酒は大幅に減じ、焼酎さえも昭和31年を境に消費減少へ転じた。
このことは日本酒に、戦前と同じような恵まれた消費環境が戻ってきたかに見えた。
しかし内実は、まるで違うものとなっていた。
日本酒の消費は伸び続けていたが、戦後の米不足の一時的救済策として開発された三増酒が、その消費の主流として定着してしまっていた。
消費者が、以前の良質な日本酒には見向きもしなくなっていたからでもある。
戦後に成人した世代は、旧来の日本酒との接点を持たずに大人になり、増産酒以前の日本酒に味覚的郷愁を持っていなかった。
そのため闇酒、粗悪な焼酎、ビール、ウィスキーから飲み始め、日本酒といえば「頭が痛くなる」「気持ち悪くなる」三増酒のことだと思うようになっていったのだった。
もう少し下の世代は下級ウィスキー(その時々の級別制度によって「三級ウィスキー」から「二級ウィスキー」になっていった)から飲み始めた。
大量のアルコール添加をしている点では三増酒と同じであった。
しかし、調味料が入っていないこと、国産でも西洋のイメージがあること、アルコール度が高いものを水割りにして飲むことなどから、三増酒に向けられるような泥臭い印象は持たれなかった。
下級ウィスキーは昭和43年ごろまで庶民によって旺盛に消費されていく。
食糧管理制度の形骸化
たとえ三増酒であっても、右肩上がりの経済成長期で「造れば造るだけ売れた」時代であった。
そのため、そうした現状に疑念や危機感を持つ酒蔵がまだ少なかった。
良質な酒を生産しようと志しても、いまだ昭和17年(1942年)に制定された食糧管理制度の下に国民には米穀通帳(べいこくつうちょう)が発行され、酒造米も配給制となっていたために、満足のゆく原料の調達が困難であった。
しかも、配給量は日中戦争開始以前、まだ小作農が農業人口の大半を占めていた昭和11酒造年度(1936年-1937年)の米の生産高に基づいて算出されていた。
このため、戦後の農地改革が経て、農業もたぶんに機械化され、すっかり豊かになった昭和30年代(1955年-1964年)の日本の実態にまったく即していなかった。
原料である酒造米の配給高が蔵ごとに決められているということは、製成酒の生産高も戦前のそれに準じて規定されていることに等しかった。
それで「造れば造るほど売れる」、「造りに手を抜いてもアルコール添加で最終調整すれば出荷できる酒に仕上がる」、「よい酒を造っても消費者に見向きもされず、しょせん販売価格は同じになる」のであれば、生産者も企業努力をしなくなる。
その結果が三増酒による量産主義となり、そうでない酒はつぎつぎと市場から姿を消していった。
算定基準である昭和11酒造年度には、まだ大メーカーと地方の零細蔵の生産量の格差は小さかったため、割り当てられる酒米の量の差も小さかった。
ところが生産の主流が三増酒という「工業製品」になると、この格差は広がった。
設備投資のしやすい大メーカーは急速に成長し、製成高も急増したため、原料が不足しがちとなる。
一方、旧来然とした素朴な設備しか持たない零細蔵は、自分たちの販売能力を上回る酒造米を割り当てられていたからである。
そのため、零細蔵が製成した酒をタンクごと、大メーカーが買い取るようになった。
これを売り手(零細蔵)から見て桶売り、買い手(大メーカー)から見て桶買いという。
桶売り・桶買いは、経済学的には日本酒のOEMととらえられている。
酒は、瓶に詰めて出荷された時点で課税対象になるので、その前段階すなわち桶売り・桶買いの時点では取引に関わる納税の義務が生じない。
そのため未納税取引ともいう。
これは両者にとって経営上、重要な節税のテクニックでもあった。
大メーカーは、桶買いによって集めたあちこちの蔵からの酒をまぜあわせたり、自社醸造の酒の割り増しに使ったり、あるいはそのまま自社ブランドの瓶に詰めたりしてて販路に乗せた。
このような流通システムでは、それぞれの酒蔵に特有の味が消費者に届かなくなる。
酒蔵としても酒造家という、一種の工芸品の作者としての造り甲斐がなく、企業努力をしなくなる。
加えて、買い手である大メーカーの言うままに酒を造っていればよかったので、蔵の本来の持ち味はどんどん失われていった。
酒米の配給制は昭和43年度米まで続いた。
国民の食生活の変化
余裕ができファッションに関心が向き始めた日本人に対して、「お米は太る。パンでスタイルを良くしましょう」といった、科学的根拠に乏しい宣伝も盛んになされた。
経済企画庁の発表する生活革新指数も、国民生活の「革新」の度合いを測るのに「穀物消費中のパン支出割合」が一つとして採用された。
このような中で日本人はしだいに主食を米からパンへと乗り換えていった。
すると、どうしても食生活そのものが和風から洋風になる。
食肉、食用油、乳製品の消費が急増し、料理と合わせる酒も、日本酒から洋酒へと変化していった。
このような背景から昭和30年代前半は洋酒、とりわけ気軽に飲めるビールの伸長がめざましかった。
昭和32年(1957年)宝ホールディングスがビール業界へ参入し、昭和34年(1959年)日本麦酒からサッポロビールが発売された。
当時はまだスチール缶であったが手軽さが受け、ビールは瓶から缶で流通する時代に入っていく。
やがて自動販売機で手軽に入手できるようになる。
このことはのちに1980年代、日本酒のシェアが急速にビールに奪われていく素地となった。
昭和35年(1960年)10月1日、政府によって昭和14年(1939年)4月に定められた酒類の公定価格が撤廃され、酒の値段は市場原理に沿って決められるようになった。
というのも、このころには酒類市場は飽和に達しつつあったからである。
瓶や缶など手軽な容器の浸透と、潤沢な供給の実現によって「飲みたいときに飲みたいだけ飲める」世の中になっていた。
こうなると酒類市場の大きさは、人間の飲む能力、もっと言えば、摂取したアルコールを消費者たちの肝臓が生理的に分解するスピードをある意味で上限とする。
あとはその市場規模の中でのシェア争いとなる。
人々の欲求とともに無限に需要が伸びていく可能性が語られる、たとえば今日のIT産業とは根本的に性質を異にする市場であった。
昭和36年(1961年)、日本人の米の総消費量がついに減少へと転じた。
実態に合わない食糧管理制度は、かつての米不足とは正反対の、深刻な米あまり現象を招いた。
その結果減反政策が実施された。
これによって雄町、穀良都、亀の尾など優秀な酒米もしだいに栽培されなくなり、多くの品種が絶滅していった。
のちに消費低迷期を迎える日本酒業界は、すでに内実が空疎な状態になっていたのである。
昭和37年(1962年)、酒税法が大幅に改正され、それまで「雑酒」と呼ばれてきた中からウィスキー・スピリッツ・リキュールの名が初めて分類上の名称として清酒・焼酎・ビールと並べられることになった。
いわば日本の酒文化のなかにこれら洋酒を認知する手続きであった。
またこの改正によって、酒税は申告によって納税するよう改められた。
明治時代に30%前後だった、酒税の歳入に占める割合はすでに12%前後にまで下がっており、もはや国家にとって酒税は主たる歳入源ではなくなっていたからである。
さらに下って昭和54年以降は5%前後で推移していくことになる。
昭和39年(1964年)「ワンカップ大関」が登場し酒の消費形態が変化した。
これは平成時代の「ワンカップ地酒ブーム」の起源でもある。
昭和40年(1965年)、佐藤和夫らにより宮城県『浦霞』から協会系酵母協会12号が分離された。
昭和43年(1968年)、酒米の配給制度がようやく終わりを告げた。
昭和45年(1970年)、古米や古々米などの在庫が増加の一途をたどったため、政府は、新規の開田禁止、政府米買入限度の設定と自主流通米制度の導入、一定の転作面積の配分を柱とした米の生産調整を開始した。
これによって未納税取引は割高につくようになったため、やがて減少していく端緒となった。
また、そのため多くの酒蔵が近代化促進計画の元で転廃業や集約製造への参加を余儀なくされた。
酒蔵の近代化とはすなわち、もっと工業的にコスト削減をめざすということであった。
その一環としてこのころ昭和40年代、「短期蒸し理論」という製法理論が編み出された。
これは、酒米処理の日本酒蒸しの時間を、従来の約1時間よりも、米のデンプンがアルファ化米する(糊状になる)までの20分程度に短縮するというものであった。
燃料コストの削減から多くの酒蔵がこの理論を採用した。
しかし、これではデンプン以外の成分で、蒸すことによって変成するタンパク質などが処理されないため、製成酒は鈍重に仕上がってしまう。
けれども、大量のアルコール添加をして三増酒にすることを前提としているので、鈍重さは問題とされなかった。
蒸しの節減・省略はさらに進み、やがて別の工場で蒸し最初から糊状になっているアルファ化米や、白米にデンプン糖化酵素剤を加えて溶解させる液化仕込みが開発された。
これら新技術の登場は、たしかにコスト削減には役立ったが、外硬内軟といった蒸し米の基本を踏んでいないために酒質はさらに低下せざるをえなかった。
昭和46年(1971年)は日本人の洋食化を物語る象徴的な年となった。
マクドナルド1号店が銀座にオープンし、稲の減反政策が本格化した。
ビール業界では朝日麦酒から「飲んで、つぶして、ポイ」のアルミ缶が登場し、四社寡占(この年でキリン60.1%、サッポロ21.3%、アサヒ14.1%、サントリー4.5%)の体制が定着した。
1月に、いわゆるガイアツに押し切られた形でウィスキーの貿易自由化が行なわれ、飲用に供するすべての酒は数量や取引金額の制限なく輸入できるようになった。
これは日本の酒類業界に不快なダメージを与えた。
なぜなら、明治時代前期の欧化政策以来、政府は数々の優遇措置をもって国民に洋酒を紹介し、国産洋酒の生産や消費を促してきたわけだが、その延長線上にやってきたのは結局「そろそろ舌になじんだころだろうから本場、外国産の洋酒をどんどん買ってくれ」というべき状況だったからである。
この貿易自由化を皮切りとして、やがて洋酒の輸出国は、日本の従価税のかけ方では輸入酒に運賃や保険料の分まで税金がかかってしまうとして、アルコール度数に応じて課税するという西洋諸国の税制に日本も変更するようさらなる要求をしてくることとなる。
そして、その変更が昭和時代後期の消費低迷期への重要な伏線となっていく。
昭和47年(1972年)ワインが急伸しはじめ、同50年に甘味果実酒の出荷数量を越え、ワインブームと呼ばれる時期へと入っていく。
ワインもまたこのころからバブル経済の時期にかけて、着実に日本酒のシェアを奪っていくことになる。
日本酒の淡麗甘口化
新型焼酎と合成清酒、増産酒の登場、三増酒の登場とさまざまな酒が市場に送り出され、食生活の変化により国民の味覚も大きく変貌をとげた大正から昭和にかけては、それを如実に反映するように流通する日本酒の味も変化していった。
日本醸造協会の栗山一秀による、流通していた清酒の平均的な「日本酒日本酒度/日本酒酸度」の値をしめしたグラフは、明治40年で「+12/3.1」ほど、大正10年「+4/2.9」、昭和16年「+0/2.5」、昭和42年「-6/1.6」と読み取れる。
これは一言でいえば、濃醇辛口から淡麗甘口への移行を物語っている。
やがて、この時期の甘口な日本酒への反動として、昭和後期から平成時代にかけて日本酒辛口ブームが到来することとなる。
昭和時代後期
ここでは、日本酒の消費が減少へと転じた昭和48年(1973年)以降を以って、日本酒の歴史における昭和時代後期と位置づける。
消費低迷期
低迷の構造
昭和48年(1973年)日本酒の消費は減少へと転じたが、何か原因となる決定的事件がこの周辺に起こったわけではない。
これは昭和12年(1937年)以降、もしくはもっと古く大正時代以降の小さな変化や事件の重層的な積み重ねの結果であり、構造変化が目に見えるかたちとなって現れたのがたまたま昭和48年であった。
それまで小さな要因が蓄積するあいだに、同時代的に警鐘を鳴らす者が皆無だったわけではない(参照:低迷からの模索)。
だが、結論から言えばそういう者たちは当時は圧倒的な少数派で、脚光を浴びるには至らなかった。
さらに、日本酒の消費低迷とは、ひとり日本酒のみの問題ではなく、焼酎・ビール・ウィスキー・ワインなど競合するすべてのアルコール飲料との市場シェア争いという観点なくして分析することができない。
奇しくも昭和48年は、昭和30年(1955年)以降ずっと減少していた焼酎の消費が、日本酒とは逆に増加に転じた年である。
また、二年前(1971年)にはウィスキーの貿易自由化が発表され、前年(1972年)にはワインブームが始まっている。
貿易自由化された輸入ウィスキーの消費はこの後十年で約20倍になった。
利便性と思い入れ
かつて明治時代後期には、酒が一升瓶で流通するようになったために、日本人の酒の消費の仕方が、年に数回だけハレの日に振る舞い酒をとことん泥酔するまで飲む様式から、ほとんど毎日ケの日に自分の好みの酒を晩酌や独酌としてほどほどに酔う(なま酔い)様式へ変化した(参照:「流通と消費の形態変化」)。
しかし、いまや高度成長を経てどんな山奥の僻村でも酒類が入手でき、都市部ではどこでも自動販売機で缶ビールやワンカップが買えるようになったこの時代、消費の形態にも次なる変化が起こっていた。
「飲んでつぶしてポイ」のキャッチコピーに象徴されるように、人は酒にありがたみを感じることがなくなった。
また、酒屋へ行ってあれこれ思案し「今日はこの酒を飲もう」と思い入れを以って酒を買ってくることがなくなった。
それは酒類に限らず、技術革新が生活の諸方面にもたらした意識変化であった。
何につけても軽薄短小が好まれ、ポスト・モダンなどということがもっともらしく語られる時代の空気でもあった。
地方文化の持つ入り組んだ複雑な体系よりも、「あーだこーだむずかしいこと言わない」平明さばかりが好まれた時代であった。
戦後の闇酒全盛の時代は、思い入れのあるまともな味の酒が市場になかったために、人々ははじめ仕方なく、思い入れも味もない雑酒を選んだ。
だが、いまや酒類も食糧も巷間にあふれ返っているにもかかわらず、上記のような背景から人は思い入れを以って味を選択しなくなってきていた。
あふれる情報に惑わされて選択できなくなってきた、と言ってもよい。
またこうして、かつての「とことん泥酔」から「ほどほどなま酔い」も、さらに局所的な濃度が薄まって、より日常的な微酔へと変化していくのである。
その延長線上に来るのが、水割りウィスキーやチューハイの出現であり、飲料の低アルコール化であり、ノン・アルコール世代の出現となっていく。
消費者は、祭りのときに泥酔していた時代とは異なる意味で、酒の「味」よりも「酔い」を求めるようになったわけである。
思い入れを以って飲む酒、かみしめるように味を鑑賞しながらほどほどに酔う酒である日本酒は、そうした時代の趨勢と懸け離れたまま、どんどん低迷していくことになる。
消費者行動と因習
「味」よりも「酔い」を追い求めた消費者たちの需要と欲求は、安価な三増酒の消費を促進しただけでなく、「酒道」などとも表現される一種の文化、すなわちかつて昭和初期に洗練された飲み歩き方をも衰退させ、次世代の明敏な飲み手を育成することを阻んだ。
また当時は現在よりもアルコール依存症に対する認知が低く、飲酒運転にかかわる罰則もゆるく、大学のコンパなどでは今では立派に犯罪となるような「先輩からの強要」や「イッキ呑み」などが日常的に行なわれていた。
背後には、「おれもかつてやらされたのだからお前もやれ」といった虐待連鎖に近い因習があり、また「自分も胸襟を開くのだからお前も開け」といった性急なコミュニケーション欲求があった。
こうした中、新歓コンパから新入生が急性アルコール中毒で救急車で病院にかつぎこまれ、そのまま死亡するケースも多かった。
ほんらい「楽しみ」の具であるはずの酒が、「いじめ」「虐待」「意地の張り合い」の具となっていたわけである(体育会系概説及び体育会系体育会系の不祥事も参照のこと)。
1960年代ごろまでの生まれの世代は、若いころにコンパその他で三増酒を年上の酒呑みから飲まされ、ああいう「飲むと頭痛や吐き気がする」ものが日本酒だと思い込んだまま中高年になっていることも多い。
もっと個人主義的な次の世代となると、上の世代からそのような話を聞かされているので、「酒とは恐ろしいものだ。関わってなるものか」というある種の固定観念を深いところで持ち、若者のアルコール離れが進んでいくのである。
飲料の低アルコール化
昭和48年(1973年)にはアルコール添加の量を三増酒よりはるかに減らした本醸造酒が一般市場に売り出されるようになった。
2008年現在では、それ以前の三増酒と本醸造酒はアルコール添加をしているという意味で同じように考えている消費者もいるようだが、これはまったく違うと言わなくてはならない。
もはや安全醸造が保証された時代であるため腐造防止は目的ではなかった。
米不足の時代は脱していたので原料に米をできるだけ使わない苦肉の策でアルコール添加をする必要もなくなっていた。
したがって本醸造のアルコール添加は、香味の調整の目的で、重量比10分の1以下に限られる。
1990年代から2000年代には全量純米で造る純米蔵宣言をする酒蔵が話題となっている。
同じようなインパクトを以って1970年代には「本醸造宣言」する酒蔵が話題になったものである。
昭和49年(1974年)オイルショックが起こった。
原油価格は前年比4倍となり、経済成長は戦後初のマイナスを記録した。
大手メーカーは成長が止まり、未納税取引がほとんど行なわれないようになった。
このため、桶売りに完全に頼っていた地方の零細蔵は相次いで倒産し、なんとか自立のきっかけをつかんだ蔵も地酒としての生き残り方を真剣に模索せざるをえなくなった。
昭和57年(1982年)、清涼飲料水業界に表面をプラスティック・フィルムで保護した軽量ワンウェイ壜が導入され、これを利用して昭和58年(1983年)炭酸飲料サワーが発売された。
サワーは、それ単独で飲むよりも、高濃度のアルコール飲料、とくに焼酎に加えて飲むもので、焼酎をサワーで割ったものを、焼「酎」とハイサワーに由来してチューハイと呼んだ。
かつてハイボールと呼ばれていた、ウィスキーを割ったものもこのころはウィスキーハイなどと呼ばれた。
それ以前より、一部の居酒屋ではチューハイまたはそれに類する物はメニュー化されていた。
新容器の登場が清涼飲料業界を一変させ、その余波として居酒屋で飲むチューハイが家庭で手軽に作れるようになったのだった。
飲料の低アルコール化は、それまでの「酒」と「水」、「アルコール」と「ノンアルコール」の境界線を曖昧にしていく歴史作用も持っていた。
古くは祭事などの折に年に数回、泥酔するほど飲むが、日常生活には徳利の影も見当たらないような明治時代前期以前の酒のありようから、食卓に晩酌がなじんできたそれ以降の酒のありようへの変化も、その境界線を曖昧にしていく歴史作用であったが、その延長線上にあるものである。
それまで峻別されていた「酒を飲む場・時・人」と「酒を飲まない場・時・人」が境界線を溶かされることで共存し始めたといってもよい。
とりわけ女性の場合、飲酒につきまとう旧来の負のイメージから解放されるのに役立った。
こうした流れのなかで宝ホールディングスは、デビッド・ボウイやシーナ・イーストンなど、およそ従来のドロ臭い焼酎のイメージから程遠い外国人タレントを純 (焼酎)のCMに起用し、焼酎ならびにチューハイの一般化を図り多大な成果を挙げた。
このため、焼酎に限らず大手アルコール飲料メーカーは競うようにして同様の商品、すなわち瓶はスタイリッシュだが中身はあまり本格性のない焼酎甲類を発売するに至った。
飲料の低アルコール化という現象そのものは日本以外の国々でも進行しつつあったし、日本でもウィスキーの水割りが一般化してきた昭和40年代にも予兆を見ることができる。
しかし、上記のようなサワーの登場と焼酎甲類の急伸が、昭和58年(1983年)から昭和60年(1985年)にかけてチューハイブームを一気に加速させた。
もともと「水で割る」という対象でなかった日本酒は、こうした趨勢に乗り遅れ、さらに消費を低迷させることとなった。
若者のアルコール離れ
飲料の低アルコール化という現象の延長線上には、ノン・アルコール化もしくはアルコール離れといった現象がある。
また、日本酒に限って言えば、従来の愛好者は「味にうるさく」「気難しい」「こわいオジサン」という偏見をもたれがちであったために、新規参入しようかと考える若者にとって、畏怖から忌避の対象となっている側面があると思われる。
バブル経済の影響
日本の他のほとんどすべての経済分野と同じく、バブル経済は日本酒業界へもさまざまな影響を与えた。
人々が金の使い道を求めて吟醸酒の普及、淡麗辛口ブームなどを促進したことは、まだしも僥倖の類いだったかもしれない。
だが、話題性のある小さな酒蔵から出荷された希少酒を、投資目的で買占め、熟成に向かないため早めに飲まなくてはならない生酒であるのにもかかわらず、価格が上がるのを待ち、過大なプレミアムをつけて市場へ放出するブローカーが跋扈したことは、日本酒業界にとっては不幸なことであった。
これでは蔵の造った本来の味が消費者に伝わらないからである。
無知な購入者たちは「なんだ、話題の割にはひどい味じゃないか」ということで、以後その蔵の飲み手として定着することなく、ひいては日本酒低迷の回復の鍵となることはなかった。
また、根底に欧米コンプレックスをかかえる日本人が、ありあまる資金を手にしたときに、やはり食卓に置きたがるのがワインやブランデーなど西洋の飲料であった。
「解禁日をいちばん早く迎える国は日本」という宣伝戦略を打ったフランスのボジョレーヌーボーのように、そういう日本人の特性にいち早く目をつけた海外資本は、このときとばかりに巨額の商業的成功をおさめた。
飲料そのものの「味」よりも、それを「所有すること」に価値を置いたバブル期の日本人は、「文化的でオシャレで上等な飲み物」ワインを購入することに狂奔したのである。
ときに1980年代、すでに日本酒は長い低迷からの脱却を求めて、酒米、清酒酵母の開発や、純米酒の改良など、地道な研究を始めて数年が経っていた。
だが、大半の消費者が引き寄せられる華々しい西洋志向の前には、いまだほとんど無力であった。
低迷からの模索
日本酒の消費低迷期への様々な要因がこうして蓄積していくあいだに、同時代的に警鐘を鳴らす者が皆無だったわけではない。
たとえば昭和28年(1953年)国税庁の鑑定官であった田中哲朗を中心として、全国の有志酒蔵が、当時の時流であった三増酒に抗して品質の高い酒を造ろうと研醸会を結成している。
また上原浩によれば、昭和42年(1967年)鳥取県で戦後初となる醸造アルコールをいっさい加えない酒の醸造が始められたという。
今日でいう日本酒純米酒であるが、当時は「アルコール無添加酒」と命名された。
埼玉県はあまり酒どころとして知られてはいないものの、昭和50年(1975年)ごろから蓮田市「神亀」(しんかめ)の神亀酒造がいち早くアルコール添加をまったくしない酒造りへの移行を始め、昭和62年(1987年)には全国で最初に全量純米へ切り替えた。
当時はこの意味が評価されず、「最初は一滴も売れなかった」と蔵人が回顧している。
しかし、この変革は各地の酒蔵に勇気を与え、石川県「加賀鳶」(かがとび)、「黒帯」の福光屋、兵庫県「富久錦」(ふくにしき)の富久錦酒造、茨城県「郷乃誉」(さとのほまれ)の須藤本家などが同様の選択をおこなった。
平成時代に入ってこれらの蔵に範を取り、いわゆる「純米蔵宣言」する酒蔵が増えてきている。
また長野銘醸によれば「元禄の時代より1年たりとも休む事もなく酒造りを継続し、戦後全面的に三倍醸造法が普及する中で、『清酒の技術を冒濱するようなもんはみとめられん』と大反対し、純米酒を守り続け」たとしている。
一方では日本酒アルコール添加を、かつての三増酒に施した防腐や嵩増しの目的ではなく、あくまでも酒質を高めるための究極の技法として追及している石川県「菊姫」の菊姫合資会社のように、純米蔵宣言とは別の方向で日本酒の品質向上と信頼回復に励んでいる蔵もある。
同社では「一切の妥協を排した酒造りのできる次代のスペシャリスト養成」のため、すでに昭和61年(1986年)から酒マイスターを導入し、伝承技術と企業ノウハウの両方を身につけた新しい世代の杜氏を育成しはじめた。
その門下生たちは、すでに酒造業界の第一線、中堅として活躍している。
日本酒の消費が表向き数字の上では右肩上がりであった昭和時代中期には、日本酒の将来をまじめに考える造り手は圧倒的な少数派であり、脚光を浴びるには至らなかった。
皮肉なことに、昭和48年以降は消費の減退というかたちで日本酒業界の衰退が誰の目にも明らかとなったために、かえって以前の少数派に光が当たった。
これ以後はむしろ復活への試みと努力が歴史の表に出てきたのであった。
しかしながら、日本酒の低迷はいまだ止まらない。
現在も続く長期低迷を脱しようとして、さまざまな試行錯誤が重ねられている(参照「日本酒の現在」)。
古代に日本酒が最初に醸されて以来、むしろ品質的にはもっとも高い水準に達していると言ってよい。
ニューヨークやパリなどでの日本酒の消費が伸びていることなどを見れば、そのことは国際的にも証明されているのだが、2010年現在いまだに日本国内の日本酒の消費回復には結びついていない。
「三増酒」という言葉すら知らずに「日本酒とはああいうものだ」という固定観念を極めて深いところに持ってしまっている世代は、なかなか真の日本酒に目を向けようとしないのが現状といえよう。
淡麗辛口ブーム
明治時代後期から昭和時代中期に至るまで約70年の時間をかけて、ゆっくりと濃醇辛口から淡麗甘口への移行が起こったことは「日本酒の淡麗甘口化」に詳しく述べられている。
ひとたび三増酒主流からの脱却が始まると、それまでの甘口への反動として「淡麗辛口ブーム」が起こり、約20年ほど続いた。
(参照:日本酒辛口ブーム)
昭和20年代ごろまで安全醸造が日本酒造りにおける至上命題となっていたころ、腐造した酒を審査で落とす目安として、全国新酒鑑評会で色のついた完成酒を減点するという時代があった。
時代的前提が異なっていたので、評価基準も異なっていたわけである。
このため出品する酒蔵は、たいてい黄金色がついている上槽したばかりの酒に濾過をほどこし、酒から色を抜くことに力をそそいだ。
このように濾過すると、色は抜けるが、コクや雑味も抜けてしまう。
その結果が「淡麗」と表現される、あっさり、すっきりとした酒となるのであった。
新潟はもともと、どっしりとした濃醇な地酒を誇る産地であった。
一方ではこの活性炭濾過を専門職とする「炭屋」(すみや)と呼ばれる職人たちを多く抱える越後杜氏の本拠地でもあった。
そのため少量の炭で要領よく色や味を抜く炭掛け(すみがけ)の技術が発達していた。
昭和47年(1972年)雑誌編集者であった佐々木久子(ささき・ひさこ)が新潟県石本酒造の『越乃寒梅』(こしのかんばい)を雑誌に紹介し、これが幻の酒として有名になっていった。
全国的に新潟の酒が売れ始めたのは、これを以って嚆矢とされている。
なお、「幻の酒」と呼ばれる製品はそれ以後無数に出てくる。
『越乃寒梅』で自信をつけた越後杜氏の淡麗な酒は、昭和60年(1985年)ごろ日本酒市場へ大規模な売り込みをかける。
それまで主流だった灘五郷や伏見の大手メーカーによる酒が甘くくどくなっていたことに飽いていた消費者は、反動としてこの新潟酒を好感した。
そこへ、昭和62年(1987年)に朝日麦酒からアサヒスーパードライという辛口のビールが発売され、記念碑的なヒットを打ち出した。
これが日本酒へも伝播し、日本酒においても辛口ブームに火がついたのである。
消費者が好感している要素の大きな部分が「辛口」であることを見出すと、新潟酒はどんどん辛口になっていった。
また、もともと「端麗」(たんれい)と書かれていた日本語も、炭掛けした酒の味のイメージから「淡麗」に変わっていった。
酒造好適米「越淡麗」(こしたんれい)が新潟県の奨励品種となるに至り、「淡麗」という語もすっかり「端麗」とは別のニュアンスを持つ語として定着していった。
新潟酒は商業的にもたぶんに成功をおさめ、「酒は新潟に限る」といった考えを持つ消費者も多く現れたという。
この傾向を見た他県の酒蔵も、次々と淡麗辛口へと路線を変更していき、やがて日本中で淡麗辛口の酒が造られるようになった。
香りを引き出し味をスッキリさせるために行なわれていた日本酒アルコール添加も、製成酒を辛くするのが目的で行なう蔵も現れた。
炭で味を削り、アルコール添加で味を辛くて出荷するのであれば、本来の「醸造によって味を造る」という原点からは外れていくのである。
しかし、ブームの勢いは圧倒的なものがあった。
消費者たちのあいだには「良い酒とは辛口、悪い酒とは甘口」といった誤った図式が流布した。
甘口と旨口(うまくち)の区別すらつかない、どちらかというと味覚的に熟達していない消費者が、昔ながらの地酒ふうの濃醇さを忌避し、水のようにサラサラとした清酒だけを本当の日本酒と信じる時代がつづいた。
その背景には、前世代の重厚長大への反動として、何につけても軽薄短小を好み、ポスト・モダンなどといったことをもてはやす、バブル経済前後の時代の空気があった。
また、かつてのさっぱりとした日本食と異なり、食生活の欧米化が進んでバターやオリーブオイルなどを多用する油っこい料理を日常的に食するようになっていた日本人にとって、それらと食卓で合わせる日本酒として、またある意味で白ワインの代替品として、淡麗辛口が好まれたという理由もある。
1990年代に入ると、淡麗辛口ではない、旨口や濃醇な酒も盛んに売り出されるようになったが、ブームに逆らってかつての評価を回復するには十年余りを要した。
奇しくもバブル期の揺り戻しであった平成大不況から2006年第一四半期に抜け出るとほぼ同時ごろに淡麗辛口ブームも終焉した。
かつての日本食が再評価されるにつれて、昨今では濃醇系の日本酒もシェアをだいぶ回復してきている。
日本酒吟醸酒・純米吟醸酒の普及
1930年代前半に誕生し、一時期は発展の可能性がかいまみられながらも、戦中戦後の窮乏のなかでそれが棚上げのかたちとなっていた吟醸酒も、1970年代には、醪(もろみ)造りの工程における温度管理の技術が飛躍的に発達し、また協会系酵母協会7号や協会系酵母協会9号などの吟醸香を出す新しい酵母が実用化され、ようやく少量ずつ市場へ出荷されるようになった。
消費者への受けは良く、1980年代には吟醸酒は広く一般に流通するようになった。
1980年代には、さらに少酸性酵母、高エステル生成酵母、リンゴ酸高生産性多酸酵母といった高い香りを出す酵母が多数つくられた。
都道府県の研究センターや農業大学などを中心として吟醸酒に適した新たな酵母の開発が進んだ。
これはバブル経済ともあいまって吟醸酒ブームを生んだ。
1990年代以降は、地域の特性を生かした酒米や酵母の開発が進んだ。
それぞれ開発地を名称に冠する静岡酵母、山形酵母、秋田酵母、福島酵母や、長野酵母に代表されるカプロン酸エチル高生産性酵母、あるいは東京農業大学がなでしこ、ベコニア、ツルバラの花から分離した花酵母などが、新しい吟醸香を引き出すものとして評価を集めている。
2000年代には、吟醸酒ブームの中心は、アメリカ・フランスを中心とした国外市場に移り、ニューヨークやパリなどでは、食前酒として日本産の吟醸酒を飲むのがトレンディとされている向きもある。
いっぽう、吟醸酒を「ほんらいの米の味と香りのする酒のほうがいい」と嫌う愛飲家も多く存在する。
また吟醸香も強すぎればかえって酒の味を損なってしまうことなどから、強い吟醸香を出す酵母を敬遠する蔵元も多い。
そういう新種の酵母は、他の酵母とブレンドしたり、全国新酒鑑評会への出品酒のみに使ったりと、まだ使い方が模索されている途上にあるといってよい。
しかしながら、日本酒が日本国内で売れなくなった消費低迷期に、国外でその消費を伸ばした牽引役がこの吟醸酒であったことは銘記されてよい。
そうした背景には、普通酒を造るレベルの設備を持った日本酒醸造所なら、いまや日本国外にも多く存在するという事実がある。
そのため必然的に、日本から輸出される対象となるのが、吟醸酒に代表されるような日本の水や技術でしか作れない高級酒となっているわけである。
国税庁発表によれば、日本酒の日本国内での消費量は平成18年(2006年)には全盛期の半分近くまで落ち込んでしまっているが、吟醸酒を中心として輸出量は年々倍増している。
日本酒の現在
昭和15年(1940年)に始まった日本酒級別制度への批判が高まり、平成2年(1990年)からそれに代わる日本酒の分類として使われるようになったのが、のちに分類の項で詳しく述べられるような普通酒、特定名称酒など9種類の名称である。
日本酒級別制度は平成4年(1992年)に完全に撤廃された。
日本酒は、昔ながらの正統な味や質の継承と復活も去ることながら、輸出の伸張と国内消費を回復をめざして、2010年2月21日現在、次のような方向で多様な模索が続けられている。
小ボトル化
1901年に導入されていらい百年余り、日本酒は一升瓶で買うのが主流であった。
だが、一升瓶をさげて家に帰っていくのはためらわれる消費者が多いため四合瓶や300ml瓶への変換が図られている。
しかし消費者の側からは、小瓶になるとかなりの割高になる現在の日本酒の価格体系や、小瓶を並べているコンビニエンスストアなどの陳列方法が果たして日本酒の販売に適切な温度管理なのかといった疑問が寄せられている。
流通経路の改革
主に蔵元の生酒や稀少地酒を、大都市へ低温輸送するため。
種類の多様化
貴醸酒、低濃度酒、低精白酒、発泡日本酒などの開発など。
女性消費者の開拓
協会系酵母赤色清酒酵母を用いたピンク色の甘口の日本酒など。
酒米単米酒の出現
従来のように複数の酒米を合わせるのでなく、単一の、しかも山田錦ではない米種のみで仕上げる酒。
それぞれの地方に適した酒米の開発
それぞれの地方に適した清酒酵母の開発
国外市場へのプロモーション
ラベルのデザインの改良
伝統的製法の復活と復元
樽酒、木桶造り、日本で最初に分離された酵母による醸造、古文書『延喜式』による貴醸酒の開発など。
アンテナショップの増加
大手の酒類販売店が自己資本で飲食店(主に高級居酒屋・和ダイニングバーなど)を経営し、一般消費者層になじみの薄かった地方の銘酒などを試飲感覚で安価で提供している。
健康効果の研究とアピール
アミノ酸成分への再評価、秋田大学の研究による日本酒の抗がん成分アルペラチンなど。
「日本酒はカロリーが高く肥る」との通説の科学的否定。
水割り・チェイサー・カクテルの提案
宇宙酒の登場
ワイン樽仕込みの日本酒の登場
「ワインはおしゃれ、日本酒はダサイ」との先入観を持ってしまった国内消費者層への働きかけの一端。
日本酒に関する古文書
古事記(こじき)
712年 太安万侶ほか。
百済人須須許里(すすこり)が大御酒(おおみき)を天皇に献上したとの記述あり。
大隅国風土記(おおすみのくにふどき)
713年以降 逸文に口嚼ノ酒(くちかみのさけ)に関する記述あり。
播磨国風土記(はりまのくにふどき)
716年? 濡れた干し飯に生えたカビからできた酒に関する記述あり。
日本書紀(にほんしょき)
720年 舎人親王ほか。
八塩折之酒、国樔(くず)の麹造りと醴酒(こざけ)献上など、神代から持統天皇時代までの日本酒に関する記述多し。
令集解(りょうのしゅうげ)
868年? 惟宗直本著。
全50巻中36巻が現存。
養老律令の私撰注釈書で、飛鳥時代から奈良時代と推定される米麹による酒造法が記述されている。
延喜式(えんぎしき)
927年 藤原忠平ほか著。
律令の施行細則50巻。
平安時代初期までの朝廷による酒造について記述されている。
御酒之日記(ごしゅのにっき)
1355年または1489年 著者不詳。
中世の酒造法が詳しく記されている。
秋田藩佐竹氏に伝わっていた、日本最初の民間の酒造技術書。
多聞院日記(たもんいんにっき)
1478年-1618年 僧英俊ほか著。
興福寺塔頭多聞院で140年にわたり歴代つけられていた日記。
当時の酒、醤油、味噌などに関する製造記録を含む。
童蒙酒造記(どうもうしゅぞうき)
1687年? 著者不詳。
鴻池善右衛門を中心とした酒造技術書。
現存するこの分野の書では、江戸時代を通じて質量ともに最高の内容を誇る。
本朝食鑑(ほんちょうしょっかん)
1697年 人見必大著。
江戸時代前期の食に関する百科全書。
和漢三才図会(わかんさんさいずえ)
1713年 寺島良安著。
日本初の絵入り百科事典。
日本山海名産図会(にほんさんかいめいさんずえ)
1799年 木村兼葭堂著。
伊丹や灘で造られている下り酒の様子が詳細な絵入りで説明されている。
手造酒法(てづくりしゅほう)
1813年 『東海道中膝栗毛』で名高い十返舎一九(じっぺんしゃいっく)が書いた当時のグルメ本。
前半は様々な酒に関して薀蓄が垂れられている。
守貞漫稿(もりさだまんこう)
1853年 喜田川守貞著。
江戸時代末期の酒に関する風俗、流通、酒器について述べたもの。
酒を通じて当時の庶民の生活が伝わってくる。
日本酒にまつわる事件
亭子院酒合戦(ていしいんのさけがっせん)
延喜11年(911年) 『本朝文粋』に記述あり。
宇多上皇が主催し、覚えのある有力貴族が酒豪を競った。
多くの参加者が泥酔、吐瀉する中、藤原伊衡だけが乱れず。
文安の麹騒動(ぶんあんのこうじそうどう)
文安1年(1444年) 武力衝突により麹屋業の滅亡。
以後、麹造りは酒屋業の仕事の一部に。
宮中十種酒十度飲の宴
文明6年(1474年) 『親長卿記』に記述あり。
醍醐の花見(だいごのはなみ)
慶長3年(1598年) 豊臣秀吉はこのとき諸国の銘酒を献上させた。
また南蛮酒として、広く海外からも珍酒が集められた。
川崎大師河原酒合戦(かわさきだいしがわらのさけがっせん)
慶安1年(1648年)茨木春朔『水鳥記』に記述あり。
江戸市中のみならず武蔵、相模などから身分を問わず酒豪が集められ、東西両軍に分かれて競った。
江戸初期の風俗として興味深い。
千住酒合戦(せんじゅのさけがっせん)
文化12年(1815年)、千住宿に住む中屋六衛門の六十歳の誕生日を祝う競飲会として催された。
大田南畝『後水鳥記』、高田与清『擁書漫筆』に記述あり。
化政文化の一端がのぞかれる。
万八楼酒合戦(まんはちろうのさけがっせん)
文化14年(1817年)、両国橋で行われた飲み喰い競争。
大喰いの部と大酒飲みの部に参加者が分けられた。
千住の酒合戦の拡大版。
大阪酒屋会議事件
明治15年(1882年) 酒造業者の明治政府への増税反対運動が高まり、大阪府警は酒屋会議を禁止。
酒屋は淀川の舟の中や、京都で会議を強行。
熊谷酒合戦(くまがやのさけがっせん)
昭和2年(1927年)、埼玉県大里郡熊谷町(寄居町)で催された競飲会。
只飲みを防ぐための工夫がこらされた。
以後、1930年代に入ると国情不安、軍部の台頭などによりこのような風俗はつとに減少し、また日本酒をめぐる情勢も激変していくこととなる。
どぶろく裁判
(1984年 - 1989年) 食文化における国民の幸福の追求か、国家の税収の確保かを争点として、自家製酒どぶろくをめぐって最高裁まで争われた裁判。
全国小売酒販組合中央会年金資金不正支出事件
(2005年) 日本酒の国内消費の減退も遠因といわれる。
近年の年金危機の周辺事件。