枯山水 (Karesansui (dry landscape))

枯山水(かれさんすい)とは日本庭園や日本画の様式・風のひとつである。

庭園
枯山水は水のない庭のことで、池や遣水などの水を用いずに石や砂などにより山水の風景を表現する庭園様式。
例えば白砂や小石を敷いて水面に見立てることが多く、橋が架かっていればその下は水である。
石の表面の紋様で水の流れを表現することもある。

抽象的な表現の庭が室町時代の禅宗寺院で特に用いられ発達した。
従来の庭園でも技法として庭園の一部に用いられ、寝殿造庭園でも枯山水の部分を含み大名屋敷に造られていく回遊式庭園も枯山水を含んでいることがあった。
ただし、禅宗寺院で用いられて以降、独立した庭園として造られるようになった。
日本庭園は水を得られる場所に築くものであったが、枯山水様式の登場後は必ずしも水を使わなくとも造園が可能になった。

西芳寺(下の方は池のある池泉回遊式庭園で上の方に枯山水庭園がある)や大徳寺の庭などが有名である。
特に龍安寺の石庭は草木を用いず塀に囲まれた庭に白砂と15個の石組のみで表現した特異なもので、その解釈を巡っては様々な説が唱えられている。
どの角度から見ても石は14個しか見えないという構図になっている。

以上はいずれも砂庭を基本とする枯山水であるが、太山寺 (神戸市)の太山寺安養院庭園のように砂を用いず石組だけで風景を表現する枯池式と呼ばれる枯山水も存在する。

吉川需による枯山水総論
分類
日本庭園の様式は、築山泉水庭(池泉庭園)、枯山水庭園、茶庭(露地)の3つに分類される。

歴史
推古天皇28年(620年)頃、蘇我馬子が飛鳥川畔に作った「島」が日本庭園の最も古い記録で、その流れを受けたと思われる草壁王子の住居「島の宮」は中島、橋、池汀、荒磯を配置した自然風景を描写したものとされる。
ただし、奈良時代に入り平城宮の東院の庭園は海景、流水など、水辺の景色を石を使って描写したものであった。

平安時代、神泉苑や洛外の離宮など池が広大になるが、ここまで水を含む自然の景色を描写する地割りを基本として、日本の庭園の様式は形作られた。
作庭の技術者は僧で、平安時代末期には「石立僧」と呼ばれた。

この日本の庭園の伝統の上に禅がその寺院の伽藍のなかに後庭を作庭するとき、禅宗思想、大陸から渡来した思想、芸術、文化を多く取り入れた。

また、水利のよくない都市地域に寺院が造成されるとき作庭は集約化されたものとなり、特徴的な様式が発達した。
こうして日本の造園の根本である風景の理想化がもっとも先鋭表現されて生まれたのが、庭園の様式「枯山水」である。

自然に存在する数多くの山や川、滝などのなかから特徴的な姿の抽象的表現を極限までつきつめると、石1つで山1つあるいは風景全体ひいては全宇宙を表すとされる盆石や水墨画などと同様に抽象美術としてみなされる。

夢窓疎石の作庭思想に強く影響を受けた足利義政は山水河原者・善阿弥を寵愛した。
善阿弥が造った山水画風の睡蔭軒の小庭は『蔭涼軒日録』にて絶賛されているが、室町時代の作庭技術の発達には山水河原者が多く関与している。

のちには大名庭園においても一部用いられたが戦前には西洋から導入された抽象美学・芸術が日本の土着の抽象芸術を模索する姿勢をつくりだし、その視点から注目されていった。

抽象芸術という観点から日本が世界に誇る庭園様式とみなされて世界に発信されていくが、西洋文化が求めた東洋の神秘的イメージに合致して世界的にも有名になった。
装飾を廃して無駄をそぎ落としたストイシズムがモダニズムの美学、近代主義的なまなざしを受けて、日本を代表する庭園様式となる。

昭和初期おいて近代主義モダニズムに通じるその美学が注目されるに至り、重森三玲によって自身が作庭する庭園に用いて、昭和14年には京都東福寺方丈庭園にその端緒を採り入れる。

以降は、戦前期に戸野琢磨は専門雑誌に2度に渡って特集を組んで紹介に努め、戦後は例えば丹下健三が1959年に香川県庁舎の石庭を生み出し、彫刻家イサム・ノグチも1956年から1959年にかけて作庭したパリ・ユネスコ会館の庭園や1961年から1964年にかけて作庭したチェイスマンハッタン銀行中庭、カルフォルニア・シナリオなど、枯山水形式を採り入れた庭を生み出している。

同じく彫刻家の流政之の手でニューヨーク・ブルックリン植物園に龍安寺のレプリカ庭園がつくられ、また岡本太郎も著書『日本の伝統』(1956年、光文社)で龍安寺、銀閣の沙羅紋、洪隠山を取り上げている。

近年では播磨科学公園都市・先端科学技術センターにおけるピーター・ウォーカーらの砂紋を配した庭空間デザイニングにその影響を読み取ることが出来る。

字義
枯山水
「枯山水」という字が作庭の用語として最初に現れる文献は『作庭記』(『前栽秘抄』)で、藤原頼通の子・橘俊綱の編集とされる(『群書類従』の奥書によれば九条良経(京極良経)である)。
これには読み仮名が振っていなく、堀口捨己は「カレセンズイ」と読むと意見している。
またここで記されている「枯山水」は庭園のなかの1区画に置く石、景石の置き方の様式を指していると考えられ、これを「平安時代式枯山水」「前期式枯山水」と呼び後世の「平庭枯山水」と別のものと把握しようとする意見と、同じ流れであり分ける必要はないとする意見がある。

『栄花物語』巻12の玉村菊の長和5年(1026年)の項に書かれている三条院の庭を現在でいう「枯山水」であるとする見方がある。

乾山水
『源平盛衰記』巻25に「乾山水」「乾泉水」の記述がある。
これは盆栽のようなものを指す言葉と考えられ現在の「枯山水」が指すものとは別のものを指す言葉と考えられるが、これがたとえば龍安寺の石庭など盆石風庭園の流れの元になっているのかもしれず、繋がりはわかっていない。

唐山水
唐(胡)から渡来したものだから「唐山水」と呼ぶべきだとして呼ばれる字と推測されている。
中国の庭園様式を取り入れたので、そういわれるとされている。
しかし、確定した字義の源泉はわかっていない。
『臥雲日件録』の文安3年10月12日 (旧暦)(1446年10月31日)の項に中国の夷人が食す水を入れない餅菓子を唐山水と呼ぶ記述があるが、それとの関係もよくわかっていない。

枯山水(フルセンスイ)
『往来物』に、枯山水に「フルセンスイ」と振り仮名を振ってある記述がある。

枯水形(カレミズガタ)
享保28年(1735年)の『築山庭造伝』の元になったといわれる『築山山水伝』に「枯水形」の記述がある。
これは、現在でいう枯山水が指すものと同じものを指す言葉であると考えられる。

から泉水
石垣島に伝わる寛政12年(1800年)頃に書かれた『庭作不審書』に、「から泉水」(カラセンズイ)の記述がある。
水を用いない築山山水、海乃景を指して使っており、現在でいう枯山水が指すものと同じものであると考えられる。
沖縄の自然環境とは無関係に書かれた本で、吉川はこの用語がこの時代に沖縄まで伝わったことを示すものと示唆している。
また「空」でも「唐」でもなく「から」と記述してあることに、吉川は関心を示している。

枯山水(コセンスイ)
天保元年(1830年)の『嬉遊天覧』に、「枯山水」は「フルセンスイ」とも「カラセンスイ」とも読むのではなく「コセンスイ」と読むべきだという記述がある。

明治・大正期の『園林叢書』『明治庭園記』には枯山水の読み仮名は「カラセンスヰ」と振ってあり、「カレサンスイ」という読み方は比較的新しいと吉川は考察している。

[English Translation]