活動弁士 (Katsudo Benshi (Silent Movie Narrator))
活動弁士(かつどうべんし)は、活動写真すなわち無声映画(サイレント映画)を上映中に、その内容を語りで表現して解説する専門の職業的解説者。
活動写真を弁ずるというところから活動写真弁士(かつどうしゃしんべんし)と呼ばれる。
略して活弁(かつべん)とも言うが、俗称である。
無声映画期の活動弁士達は活弁と呼ばれることを酷く嫌った。
単に弁士(べんし)ということも多い。
関東圏では映画説明者、関西圏では映画解説者とも名乗っていた。
今日では活弁士(かつべんし)という呼び名も用いられている。
史的には誤用であるが「活弁をする人」という意味を表現する上で分かり易く、今後は広く用いられる可能性が高い。
NHKもこの用語を用いている。
活動弁士の発生
日本で映画が初めて公開されたのは、明治29年(1896年)11月25日の神戸神港倶楽部においてであった。
輸入品のキネトスコープは日本人にとっては全く未知の装置であり、またフィルムもたいへん短いものであったため、映画を興行として成り立たせるためには、機械の説明をして、場を盛り上げる説明者が必要だった。
この要求に応じる形で口上を述べ、弁舌を振るったのが活動弁士の元祖、上田布袋軒なる人物である。
その後約3ヶ月の間に複数の経路から映画が輸入される。
それらのどの興行にも説明者が付いていた事実から、日本が活動弁士という特異な興行・芸能形態を確立する必然性を見て取ることが可能である。
以下に挙げるのは、日本における映画の初公開(映写機別)の詳細である。
活動弁士の活躍と衰退
初期の映画はほとんどが無声映画(サイレント映画)であり、作品中では出演者の声や音楽が一切流れなかった。
欧米では映画の中に挿入されるセリフや背景解説のショット(図を参照)と伴奏音楽によって上映されていたが、日本では言語や文化背景の相違も影響し、上映する際には口頭で説明することが求められた。
日本は話芸の文化が多彩であり、特に人形浄瑠璃における太夫と三味線、歌舞伎における出語り、写し絵、錦影絵の解説者といったナレーション文化がすでに定着していた。
したがって、説明を担う話芸者が舞台に登場することは自然な流れであったと考えられる。
そのため、日本においては、映画作品の内容にあわせて台本を書き、上映中に進行にあわせてそれを口演する特殊な職業と文化が出現した。
戦前には娯楽が少ない中で映画がその中心を占め、活動弁士もその状況に応じて活躍するようになり、西村楽天、徳川夢声、大蔵貢、生駒雷遊、國井紫香、静田錦波、谷天郎、山野一郎、牧野周一、伍東宏郎、泉詩郎、里見義郎、松田春翠、大辻司郎のような人気弁士も現れるようになった。
弁士に対して歌舞伎のような礼賛の掛け声がかかることがあった。
弁士は舞台上でななめに構え、奥のスクリーンと観客席を交互に見ながら語った。
このため当時の映画館には必ず舞台があった。
しかし、映画の技術が発達して、音声が入るトーキーが普及するようになって以後は、活動弁士は不要となってしまう。
このため、大半の活動弁士が廃業に追いこまれ、その多くが漫談や講談師、紙芝居、司会者などに転身した。
活動弁士には映画の解説を行う際に話術が高く要求されるため、その優れた話術や構成力がそのままタレントなどとなっても活かせたのである。
なかには須田貞明(黒澤明の実兄)のように転身を図ることもできず、ストライキによる待遇改善の要求に失敗、精神的な挫折により自ら命を絶った者もいた。
活動弁士の現況
現在でもサイレント映画を上映する映画館は少なからず存在し、その上映のために活動弁士も少なからず存在している。
現在の活動弁士として、麻生八咫とその娘の麻生子八咫、澤登翠とその弟子の桜井麻美、斎藤裕子、片岡一郎(以上2002年に澤登翠に入門)、その他に佐々木亜希子、映画監督と活動弁士を兼業している山田広野、古典作品及び自作アニメに活弁を付ける坂本頼光などが東京を中心に活動している。
また、名古屋にはわかこうじ、大阪に井上陽一、手廻し映写機で上映と活弁をする小崎泰嗣などが活動している。
しかし、活動弁士を生業として、それのみで生活できるのは現在では澤登翠などごくわずかであり、大半の活動弁士は、山崎バニラのように声優などのテレビ出演や、山田広野のように映画監督など、副業を持っている場合が多い。