熊野 (能) (Yuya (Noh play))

『熊野』(ゆや)は、能を代表する曲の一つである。
作者は、金春禅竹とも言われるが不明。
禅竹の著書『歌舞髄脳記』に『遊屋』の記述がある。
喜多流では『湯谷』。
『平家物語』の巻十「海道下」(かいどうくだり)の場面から発展させたと考えられる。

作中で「自分と同じ名前だ」として熊野権現、今熊野(いまぐまの)を挙げている。
つまりは喜多流以外では主人公は「くまの」さんだと思われるが、ここでは音読みで「ゆや」と読む。

ドラマチックな展開を可能とする素材を扱いながら、対立的な描写を行わない。
春の風景の中、主人公の心の動きをゆるやかな過程で追う。
いかにも能らしい能として、古来「熊野松風に米の飯」(『熊野』と『松風 (能)』は名曲で、米飯と同じく何度観ても飽きず、噛めば噛む程味が出る、の意)と賞賛されてきた。

内容

時は平家の全盛期、ワキ(平宗盛)の威勢の良い名乗りで幕を開ける。
宗盛には愛妾熊野(シテ)がいるが、その母の病が重くなったとの手紙が届いた。
弱気な母の手紙を読み、熊野は故郷の遠江国に顔を出したいと宗盛に願う。
だが、宗盛はせめてこのサクラは熊野と共に見たい、またそれで熊野を元気づけようと考える(「この春ばかりの花見の友と思ひ留め置きて候」)。

熊野の心は母を思い鬱々としながらも、道行きに見る春の京の姿にも目を喜ばせる。
やがて牛車は清水寺に着いた。
花見の宴会が始まる。
一方熊野は仏堂で祈りを捧げる。
やがて熊野は呼び出され、自分の女主人としての役割を思い出す。
宗盛に勧められ花見の一座を喜ばせようと、心ならずも熊野は桜の頃の清水を讃えながら舞(中ノ舞)を舞う。
しかし折悪しく村雨が花を散らす。
それを見た熊野は、歌を詠む。

いかにせん都の春も惜しけれど、馴れし東の花や散るらん
宗盛もこれには感じ入り、その場で暇を許す。
熊野は観世音の功徳と感謝し、宗盛の気が変わらない内にとすぐさま故郷を目指し出立する。
「東路さして行く道の。」
「やがて休ろう逢坂の。」
「関の戸ざしも心して。」
「明けゆく跡の山見えて。」
「花を見捨つるかりがねの。」
「それは越路われはまた。」
「あずまに帰る名残かな。」
「あずまに帰る名残かな。」
(トメ拍子)。

ゆかりの地

熊野の墓

行興寺 静岡県磐田市池田 ()
熊野御前の命日である5月3日に合わせ、毎年、熊野の長藤まつりが行われる。

国指定天然記念物でもあるこの藤には、熊野が植えたとの言い伝えがある。

音声資料

CD 能楽「熊野」コロムビアミュージックエンタテインメント 演能形式でほとんど全曲を収録。

関連作品

平家物語の巻十、海道下(かいどうくだり)の場面から発展させたと思われる。

山田検校作の山田流箏曲『熊野』の他、長唄、河東節、一中節の素材にも用いられた。

三島由紀夫の『近代能楽集』で取り上げられた。

[English Translation]