相撲節会 (Sumai no Sechie)
相撲節会(すまひのせちえ)とは、奈良時代・平安時代にかけて行われた宮中行事の1つ。
射礼・騎射(後に競馬)と並んで「三度節」とも呼ばれた。
記紀にも相撲に関する記事が多く見られる。
相撲自体は古くから行われていることは確実である.
しかし、相撲節会の最古の記録は『宮中行事秘事』などに伝えられる聖武天皇の神亀3年(726年)に令制国より相撲人(今日の力士)が貢進されというものであると考えられている。
これは正史の『続日本紀』には載っていないものの、2年後の神亀5年4月辛卯(25日)(728年)条に騎射・相撲に参加する者の貢進の停滞に関する記事があること。
更に同書養老3年7月辛卯(4日)(719年)条に相撲司の前身であるとされる抜出司設置の記事が見られることからこの前後の成立であると考えられている。
天平年間に入ると、7月7日 (旧暦)に行われていた七夕の節会と融合してこの日に行われるようになった。
なお、諸国に対して中央から相撲人貢進を促すために派遣された使者を相撲使と呼称した。
相撲人は本来、近衛府・兵衛府の官人及び白生(見習い)が中心で諸国から貢進された相撲人がこれを補う形であった。
しかし、後に諸国からの貢進で賄われる様になり、その抜手(優勝者)を近衛府・兵衛府などで採用したり、帰国後に在庁官人などに登用された。
平安時代には相撲司と呼ばれる親王を別当とした臨時の役職が設置されるようになった。
だが、天長元年7月7日(824年8月5日))に平城上皇が崩御したのを機に節会が7月16日 (旧暦)に期日変更されてからは次第に衰微した。
後に光孝天皇が相撲を奨励するなど再興の動きも見られたが、平安時代中期以後は相撲召合と呼ばれて規模が縮小されるようになり、近衛府が事実上の主催するようになった。
保元3年(1158年)と承安 (日本)4年(1174年)に散発的に行われたのを最後に廃絶することになった。