空手道 (Karatedo)

空手道(からてどう)もしくは空手(からて)とは、沖縄で発祥した拳足による打撃技を特徴とする武道、格闘技。

空手は、大正時代にまず沖縄県から他の道府県に伝えられ、さらに第二次大戦後は世界各地に広まった。
現在では世界中で有効な武道、格闘技、スポーツとして親しまれている。
現在普及している空手は、試合方式の違いから、寸止めルールを採用する伝統派空手と直接打撃制ルールを採用するフルコンタクト空手に大別することができる。
このほかにも防具を着用して行う防具付き空手(広義のフルコンタクト空手)などもある。

今日の空手は打撃技を主体とする格闘技であるが、沖縄古来の空手には取手(トゥイティー、とりて)と呼ばれる関節技や投げ技も含んでいた。
また、かつては空手以外に棍術(棒術)や節棍術(ヌンチャクなど)といった武器術も併せて修行するのが一般的であった。
最近では、失伝した技を他の武術から取り入れて補う形で、総合的な体術への回帰、あるいは新たな総合武道へ発展を目指す流派も存在する。

表記

空手は、もともと琉球王国時代の沖縄本島では、手 (沖縄武術)(て、琉球方言でティー)もしくは唐手(とうで、琉球方言でトゥーディー)と呼ばれていた。
「手」とは主に琉球固有の拳法を指し、唐手とは中国から伝来した拳法を指していたとされる。
しかし、明治34年(1901年)に空手が沖縄県で学校の体育科に採用された頃から、唐手表記のまま、読み方が「トゥーディー」から「からて」へ改められ、意味も「手」も含めた琉球拳法一般を指すようになった。
それゆえ、唐手(トゥーディー)と唐手(からて)は、言葉の意味する範囲が違うことに注意する必要がある。

「空手」表記は、沖縄では明治38年から花城長茂が空手空拳の意味で使い始めた。
本土では昭和4年(1929年)に慶應義塾大学唐手研究会(師範・船越義珍)が般若心経の空 (仏教)の概念を参考にして初めてこれを用い、その後この表記が広まった。
昭和11年(1936年)10月25日、那覇市で「空手大家の座談会」(琉球新報主催)が開かれ、この時、唐手を空手に改めることが決まった。
1960年代までは唐手表記も珍しくなかったが、現在では空手の表記が一般化し定着している。
また、1970年代からは、主にフルコンタクト空手の流派において、カラテやKARATEと表記されることも多い。
以下では、原則として、空手表記に統一して叙述する。

歴史

空手は、琉球王国時代に発祥した武術であるが、空手について書かれた当時の文献は現在まで確認されていない。
それゆえ、今日語られている空手の歴史は、主に明治時代の空手の古老たちが伝え聞いた話に基づいている。

起源

空手の起源に関しては諸説あるが、主なものは下記の通りである。

久米三十六姓導入説

那覇市の久米村(クニンダ)に、1392年、当時の明の福建省から「ビン人三十六姓」と呼ばれる職能集団が移住してきたとされる。
彼らは琉球に先進的な学芸、技能等をもたらしたが、この時、空手の起源となる中国拳法も同時にもたらされたとする説。

「田舎の舞方」からの発展説

舞方(メーカタ)とは、沖縄方言で踊りの意味である。
田舎の武術的要素をもった琉球舞踊から、沖縄固有の武術「手(ティー)」が生まれ、空手へと発展したとする説。
安里安恒やその弟子の船越義珍はこの説を唱えている。

他にも、シマ(沖縄相撲)からの発展説、本土から柔術が伝来した説などがある。
いずれの説も、明治以降の空手家、研究者の唱える説であって、それぞれの説を裏付ける明確な歴史資料が存在するわけではない。

唐手佐久川の以前と以後

沖縄県の歴史において、唐手の文字が初めて現れるのは、唐手佐久川(トゥーディーさくかわ)とあだ名された、佐久川寛賀(1782年 - 1838年)においてである。
佐久川は28歳(1806年)の時、当時の清へ留学し、北京市で中国武術を学んだとされる。
この佐久川が沖縄本島に持ち帰った中国武術に、以前からあった沖縄固有の武術「手(ティー)」が融合してできたものが、今日の空手の源流である唐手であったと考えられる。

佐久川以降、「手」は唐手に吸収・同化されながら、徐々に衰退していったのであろう。
一般に空手の歴史を語る際、この唐手と「手」の区別が曖昧である。
それゆえ、狭義の意味での唐手の歴史は佐久川に始まる(さらに厳密に言えば、佐久川はあくまで「トゥーディー」=中国武術の使い手であり、「日本の武技の手・空手」の起源を考えるならば、佐久川の弟子の松村宗棍以降になる)が、「手」も含めた沖縄の格闘技全般の唐手の歴史は、もちろんそれ以前にさかのぼる。
以下、広義の意味での唐手(空手)の歴史について叙述する。

禁武政策の虚実

琉球の沖縄本島で空手が発展した理由として、従来言及されてきたのが、二度にわたって実施された禁武政策である。
一度目は尚真王(在位1476年 - 1526年)の時代に実施され、このとき、国中の武器が集められて王府で厳重に管理されることになった。
二度目は慶長14年(1609年)の薩摩藩による琉球侵攻後に実施された禁武政策である。
二度の禁武政策を通じて、武器を取り上げられた人々が、薩摩藩に対抗するために空手を発展させたとする説が、従来、歴史的事実であるかのように繰り返し言及されてきた。

しかし、禁武政策と空手発展の因果関係については、近年、これを疑問視する研究者が少なくない。
特に薩摩藩の実施した禁武政策(1613年の琉球王府宛通達)は、帯刀など武器の携帯を禁じただけで、その所持まで禁じたものではなく、比較的緩やかな規制であったことが判明している。

この通達は「一、鉄砲の所持禁止。
二、王子・三司官・士族の個人所有武器の保有は認める。
三、武器類の修理は在番奉行所を通して薩摩にて行う事。
四、刀剣類は在番奉行所に届け出て認可を受ける事」という内容であった。
武器の所持(鉄砲を除く)やその稽古まで禁じるものではなかった。
実際、薩摩侵攻後も、琉球の剣術、槍術、弓術などの達人の名は何人も知られている。
また、素手で鉄砲や刀などの武器に対抗するという発想そのものが非現実的であり、このような動機に基づいて琉球士族が空手の鍛錬に励んだとは考えられない、との指摘もある。
それゆえ、禁武政策による空手発展説を「全く根拠のない巷間の浮説」(藤原稜三)と一刀両断する研究者もいる。

手(ティー)の時代

古くは16世紀、命を狙われた京阿波根実基(きょうあはごんじっき)が空手(くうしゅ)にて相手の股間を蹴り上げたとの記述が正史『球陽』にあり、これは唐手以前の素手格闘術であったと考えられているが、その実態は判然としない。
また、17世紀の武術家の名前が何人か伝えられているが、彼らがいかなる格闘技をしていたのか、その実態は明らかではない。
明確に、手(ティー)の使い手として、多くの武人の名が挙がるのは18世紀に入ってからである。
西平親方、具志川親方、僧侶通信、渡嘉敷親雲上、蔡世昌、真壁朝顕などの名が知られている。

また、土佐藩の儒学者・戸部良煕が、土佐に漂着した琉球士族より聴取して記した『大島筆記』(1776年)の中に、先年来琉した公相君が組合術という名の武術を披露したとの記述があることが知られている。
この公相君とは、1756年に訪れた冊封使節の中の侍従武官だったのでないかと見られており、空手の起源をこの公相君の来琉に求める説もある。
しかし、組合術とは空手のような打撃技ではなく、一種の柔術だったのではないかとの見解もあり、推測の域を出ていない。

唐手(トゥーディー)の時代

19世紀になると、唐手という名称が使われ出す。
しかし、唐手と「手」の相違は判然としない。
明治初頭の頃まで、唐手以前の「手」は特に沖縄手(おきなわて、ウチナーディー)と呼ばれ、唐手とは区別されていたとされるが、両者の間にどのような相違があったのかは不明である。
19世紀以降の唐手の使い手としては、首里では佐久川寛賀とその弟子の松村宗棍、盛島親方、油屋山城、泊では宇久嘉隆、照屋規箴、那覇では湖城以正、長浜筑登之親雲上などである。

この中でも、特に松村宗棍は「琉球の宮本武蔵」とも言われ、琉球王国時代の最も偉大な空手家と言われている。
琉球国王の御側守役(侍従武官)の職にあり、国王の武術指南役もつとめたと伝えられる。

また、この頃から、薩摩を経由して伝来した日本武術も、唐手の発展に影響を及ぼしたとされる。
琉球王国末期になると、琉球士族の一部には、薩摩の在番役人から示現流やその分派の剣術を修業する者もあり、松村宗棍のように、実際に薩摩に渡って示現流を修業してくる者もいた。
空手の「巻藁突き」は、示現流の「立木打ち」からヒントを得たとも言われている。
また、空手の一撃必殺を追求する理念にも、示現流の影響があるという説もある。

さて、空手に流派が登場するのは、空手が本土に伝えられた大正末期以降である。
それ以前は、空手の盛んだった地域名から、単に首里手、泊手、那覇手の三つに、大まかに分類されていたにすぎない。
もっとも首里士族の中には首里手以外に、泊手や那覇手も同時に習っていた例もあり、この分類もあまり厳密に受け取るべきではないと言えよう。

唐手(からて)の公開(明治時代)

元来、琉球士族の間で密かに伝えられてきた唐手であるが、明治12年(1879年)、沖縄県の歴史琉球処分により琉球王国が滅亡すると、唐手も失伝の危機を迎えた。
唐手の担い手であった琉球士族は、一部の有禄士族を除いて瞬く間に没落し、唐手の修練どころではなくなった。
不平士族の中には清国へ逃れ(脱清)、独立運動を展開する者もいた。
開化党(革新派)と頑固党(保守派)が激しく対立して、士族階層は動揺した。

このような危機的状況から唐手を救ったのが、糸洲安恒である。
糸洲の尽力によって、唐手はまず明治34年(1901年)に首里尋常小学校で、明治38年(1905年)には沖縄県立第一中学校(現・首里高等学校)および沖縄県師範学校の体育科に採用された。
その際、読み方も「トゥーディー」から「からて」に改められた。
唐手は糸洲によって一般に公開され、また武術から体育的性格へと変化することによって、生き延びたのである。
糸洲の改革の情熱は、型の創作や改良にも及んだ。
生徒たちが学習しやすいようにとピンアン(平安)の型を新たに創作し、既存の型からは急所攻撃や関節折りなど危険な技が取り除かれた。

このような動きとは別に、中国へ渡った沖縄県人の中には、現地で唐手道場を開いたり、また現地で中国拳法を習得して、これを持ち帰る者もいた。
湖城以正、東恩納寛量、上地完文などがそうである。
もっとも、日中国交回復後、日本から何度も現地へ調査団が派遣されたが源流武術が特定できず、また中国武術についての書籍や動画が出回るにつれ、彼らが伝えた武術と中国武術とはあまり似ていないという事実が知られるようになると、近年では研究者の間で彼らの伝系を疑問視する声も出てきている。

本土へ(大正時代)

最近の研究によれば、最初に本土へ唐手を紹介したのは、明治時代に東京の尚侯爵邸に詰めていた琉球士族たちであったと言われている。
彼らは他の藩邸に招かれて唐手を披露したり、揚心流や起倒流などの町道場に出向いて、突きや蹴りの使い方を教授していた。

しかし、本格的な指導は、富名腰義珍(後の船越義珍)や本部朝基らが本土へ渡った大正以降である。
大正11年(1922年)5月、文部省主催の第一回体育展覧会において、富名腰は唐手の演武を行った。
これが本土における、公の場での初めての唐手の披露であった。
この時の演武は、柔道の嘉納治五郎など、本土の武道家の注目を大いに引いた。
翌6月にも、富名腰は講道館に招かれて、嘉納治五郎をはじめ200名を超える柔道有段者を前にして、唐手の演武と解説を行った。
富名腰はそのまま東京に留まり、唐手の指導に当たることになった。

同じ頃、関西では本部朝基が唐手の実力を世人に示して、世間を驚嘆させた。
同年11月、たまたま遊びに出かけていた京都で、本部はボクシング対柔道の興行試合に飛び入りで参戦し、相手のロシア人ボクサーを一撃のもとに倒した。
当時52歳であった。
この出来事は新聞や雑誌で大いに取り上げられ、それまで本土では一部の武道家のみに知られていた唐手は、一躍全国に知られるようになったと言われている。
本部は翌年から関西方面で唐手の指導を始めた。
船越や本部の活動に刺激されて、大学では唐手部の創設が相次いだ。

沖縄では、大正13年(1924年)、「唐手研究倶楽部」が設立され、大正15年(1926年)には「沖縄唐手倶楽部」へと発展しながら、在沖縄の唐手の大家が一堂に会して、唐手の技術交流と共同研究の試みが行われた。
参加者は花城長茂、本部朝勇、本部朝基、喜屋武朝徳、知花朝信、摩文仁賢和、宮城長順、許田重発、呉賢貴など、そうそうたる顔ぶれであった。

空手道の誕生(昭和初期)

昭和に入ると、摩文仁賢和、宮城長順、遠山寛賢らも本土へ渡って、唐手の指導に当たるようになった。
昭和8年(1933年)、唐手は大日本武徳会から、日本の武道として承認された。
これは沖縄という一地方から発祥した唐手が晴れて日本の武道として認められた画期的な出来事だったが、一方でこの時、唐手は「柔道・柔術」の一部門とされ、唐手の称号審査も柔道家が行うという屈辱的な条件を含んでいた。

昭和4年(1929年)、船越義珍が師範を務めていた慶應義塾大学唐手研究会が般若心経の「空 (仏教)」の概念から唐手を空手に改めると発表し、昭和9年(1934年)には大日本武徳会において、空手という名称が正式に承認された。
さらに、日本の他の武道と同じように「芸道」の字をつけ、「唐手術」から「空手道」に改められた。
このような改称の背景には、当時の軍国主義的風潮への配慮(唐手が中国を想起させる)もあったとされている。
なお、空手の表記は花城長茂が明治38年(1905年)から使用していたことが明らかとなっている。

本土の空手は大日本武徳会において柔道の分類下におかれていたこともあり、差別化のために取手(トゥイティー)と呼ばれた柔術的な技法を取り除き、打撃技法に特化した。
また、併伝の棒術や節棍術(ヌンチャクなど)などの武器術も取り除かれた。
型の立ち方や挙動を変更し、型の名称も、新たに日本風の名称に改める流派もあった。
さらに、沖縄から組手が十分に伝承されなかったため、本土で新たな組手を付加し、こうして現在の空手道が誕生した。
これらの改変については、本土での空手の普及を後押ししたとの評価がある一方で、空手の伝統的なあり方から逸脱したとの批判もある。

武道禁止令と活動再開

連合国占領期に連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の指令によって、文部省から出された「柔道、剣道等の武道を禁止する通達」のため、空手の活動は一時、停滞した。
しかし、この通達には「空手」の文字が含まれていなかったため、空手は禁止されていないとの文部省解釈を引き出して、空手は他武道よりも、早期に活動を再開することができた。

全国組織と競技空手の誕生

空手の競技化(試合化)は戦前から試みられていたが、試合化そのものを否定する考えもあり、組織的な競技化は実現していなかった。
しかし1954年(昭和29年)韓武舘(現在の全日本空手道連盟錬武会)が第1回全国空手道選手権大会を防具付き空手ルールで実施すると、1950年(昭和25年)に結成された全日本学生空手道連盟により1957年(昭和37年)に全日本学生空手道連盟主催で伝統派(寸止め)ルールによる「第1回全日本学生空手道選手権大会」が開催。
同年には、日本空手協会主催により「全国空手道選手権大会」が開催された。

1962年(昭和37年)には、山田辰雄 (空手家)が後楽園ホールで、グローブを着用した「第一回空手競技会」を開催して、のちのフルコンタクト空手に先駆けて直接打撃制試合を行った。

1964年(昭和39年)には、全日本空手道連盟(全空連)が結成された。
1969年(昭和44年)9月、全空連主催による伝統派(寸止め)ルールの「第1回全日本空手道選手権大会」が日本武道館で開催された。
そして、同年同月、伝統派空手に疑問を抱き、独自の理論で直接打撃制の空手試合を模索していた極真会館創始者の大山倍達(おおやま ますたつ)によって、防具を一切着用しない、素手、素足の直接打撃制(足技以外の顔面攻撃禁止制)による第1回オープントーナメント全日本空手道選手権大会が代々木の東京体育館で開催され空手界に一大旋風を巻き起こした。
一方の全日本空手道連盟は翌年、第1回世界空手道選手権大会を開催した。

流派の乱立と空手の多様化

このように、空手の全国化・組織化は着実に進んでいった。
しかし、その一方で、もともと流派、会派などが存在しなかったと言われていた空手界であったが、大日本武徳会を機に流派、会派など増え始めていった。
1948年(昭和23年)、東京では船越義珍の門弟たちによって最大流派日本空手協会(松濤館流)が結成され、1957年(昭和32年)4月10日、日本空手協会を社団法人として文部省が認可した。
しかし1958年(昭和33年)には早くも空手の試合化を否定する廣西元信たちが戦前からの松濤会を復活させ、独立していった。
分裂、独立については他の流派も事情は似たり寄ったりであった。
遠山寛賢のように無流派主義を標榜する空手家もいたが、多数にはなり得なかった。

また、全空連の試合規則、いわゆる「寸止め(極め)」ルールに対する不満などから、大山倍達の極真会館に代表されるような、フルコンタクト空手という、直接打撃制スタイル(顔面攻撃を除く)を採用する流派もあらわれ、一大勢力を形成するようになった。
しかし、大山倍達が存命中は一枚岩と言われていた極真会館もまた、大山の死後、極真を名乗る複数の団体に分裂したり独自会派を立ち上げる者が多数出現することになる。
そして、極真出身の大道塾空道に代表されるような、打撃技に特化された現在の空手へのアンチ・テーゼとして、空手に関節技や投げ技を取り入れて、かつての空手がそうであった総合武道の姿へと復元を目指す流派などもあらわれた。

型と組手

型(形とも)と組手は、空手の基本構成であり、昔からこの二つを練習することが基本となっている。
しかし、いずれが主であるかは、時代と共に変化してきている。
かつては型の修行に最も価値がおかれていたが、近年では試合制の導入などにより組手重視の傾向にある。
またそれゆえ、両者の乖離(かいり)が問題ともなっている。

型(形)とは、一人で演武する空手の練習形式である。
各種の技を決まった順序で演武し、演武時間は型によって数十秒から数分間続く。
修行者は型の練習を通じて、空手の基本的な技や姿勢を身につけるだけでなく、組手などへの実践応用に必要な空手独特の身体動作を身につけることができるとされる。
空手の型の数はすべて数えれば数十にもなり、すでに失伝した型もあれば、明治以降新たに創作された型(ピンアン等)もある。
首里手、泊手、那覇手の各系統によって、習う型の種類には相違があり、また流派によっても相違がある。
同じ型でも流派によって、また沖縄と本土によっても、相違が存在する。
首里手の型には、ナイファンチ、バッサイ、クーサンクーなどがある。
泊手の型には、ナイファンチ(古式)、ワンシュー、ローハイなどがある。
那覇手の型には、サンチン、セイサン、セイショウ、スーパーリンペイなどがある。
今日では、型の試合も実施され、型の演武それ自体が一つの競技とされるに至っている。
試合化によって、型の完成度が高まると期待される。

那覇手系・その他の型一覧

組手
組手は、主に二人で相対しておこなう練習形式である。

決められた手順に従って技を掛け合う「約束組手」、自由に技を掛け合う「自由組手」、さらには勝敗を目的とした「組手試合」が存在する。

歴史
組手は琉球王国時代から行われていたが、制式化されてなお現存するのは本部朝基が大正時代に発表した十二本の約束組手が最古で、それ以前のものは現存していない。

尚泰王の冊封式典のために訪れた清の使節の前で、「交手(こうしゅ)」という名で組手を披露したという記述があるが、その内容については不明である。
上述の本部朝基や屋部憲通などを例外とすれば、戦前は型が稽古の中心で、組手は型の簡単な分解を行うくらいであった。
さらに自由組手にいたっては、掛け試しと呼ばれる一種の野試合が存在するだけであった。
また、今日行われてる約束組手は、主に昭和以降に本土の学生達が中心となって考案したものである。
さらに本格的に組手試合が整備されたのは戦後であり、その歴史は浅い。

組手試合の形式には、下に示す三形式が主流であり、ルールの細かい点は流派・会派毎に特色が見られる。

スタイル
打撃による怪我を防ぐため、原則相手の皮一枚で止める「寸止め」もしくは「極め」と呼ばれる試合形式。
主に全空連に加盟する伝統派空手の各流派で行われている。
試合によっては防具着用を義務付ける場合もあるが、それでも直接打撃は認めていない。
しかし全空連を含む多くの試合では事実上当てることが認められており、直後の引き手でダメージの軽減を計っている。
このことはルール記載上の文言とは馴染まないが黙認されている。

この場合、試合に支障を来たすようなダメージが与えられた場合や引き手の程度により初めて「当てた」と審判にも認知されるのが通例である。
フルコンタクトと呼ばれる直接打撃を認める試合形式。
防具などを一切着用せず素手、素足で試合をする。
ただし、顔面への拳による攻め、金的への蹴り、膝への関節蹴りなど急所攻撃は禁じている。
狭義のフルコンタクト空手。

極真会館など。
防具着用の上での直接打撃を行う試合形式。
防具付き空手、硬式空手の各流派で行われている。

空手の流派

歴史
講道館に統一されている柔道とは異なり、空手には多数の流派が存在し、流派によって教える型や訓練法、試合規則も大きく異なる。

大別すると、空手の流派は伝統派空手とフルコンタクト空手の二つに分類することができる。
糸洲安恒によれば、空手はもと昭林流と昭霊流の二派が中国から伝来したものが起源とされる。

前者は首里手となり、後者は那覇手となったとするのが一般的な解釈であるが、上記二派は中国でもその存在が確認されておらず、どの程度歴史的事実であったのかは、疑問の残るところである。
今日の空手流派は本土に伝来して以降のものである。
最古の空手流派は、本部朝基が大正時代に命名した日本伝流兵法本部拳法(本部流)が、文献上確認できるものとしては最も古い。
船越義珍の松濤館流も実質的には同程度古いが、この流派名は戦後の通称であり、船越自身は生涯流派名を名乗らなかった。
昭和に入ってからは、宮城長順が昭和6年(1931年)に剛柔流を名乗っている。

その後は、知花朝信(小林流 (空手道)・1933年)、摩文仁賢和(糸東流・1934年)、小西良助(神道自然流・1937年)、大塚博紀(神州和道流空手術・1938年)、保勇(少林寺流空手道・1955年)、菊地和雄(清心流空手道・1957年)と、流派の命名が続いた。

伝統派空手
広義には、文字通り伝統的な空手の流派、すなわち、古流空手、全空連加盟等の本土空手、沖縄空手を含む。
防具空手をこちらに分類することもある。
伝統空手とも言う。
狭義には、「寸止め」ルールを採用する全空連の空手およびその参加流派を指す場合が多い。
下記の分類はあくまで概略的なものであり、それぞれにまたがる流派も多い。

詳しくは、伝統派空手を参照。

古流空手(古伝空手)
伝統派空手のうち、競技化、スポーツ化を志向せず、古流の空手スタイルを重視する。
特徴としては、伝統的な型稽古や組手稽古、沖縄古来からの鍛錬法の重視、武器術の併伝などを挙げることができる。

古流空手の流派には、湖城流、本部流、心道流などがある。

狭義の伝統派空手(全空連空手、寸止め空手)
一般には本土空手を指す場合が多い。
全空連に加盟し、空手の競技化、スポーツ化に力点をおいている。
全空連が寸止めルールを採用していることから、寸止め空手と呼ばれることも多い。
競技空手、スポーツ空手とも呼ばれる。
本土空手は、剛柔流、松濤館流、和道流、糸東流が規模の上から一般に四大流派と呼ばれ、よく知られている。
近年では、勝負の判定を従来よりスポーツライクなものとしたポイント制や、拳サポーターの色分け(青と赤、従来は両者が白で、赤と白の区別は赤帯を用いていた)、細かなものでは審判の人数や立ち位置など、ルールにかなりの見直しが施されている。

これらはオリンピック種目化を目指しての革新と見られるが、スポーツ化したとき見た目にはさほど違いのないテコンドーが既にオリンピック種目となっている為、実現は容易ではないと考えられる。

沖縄空手
沖縄に本拠をおく空手流派である。
スポーツ化の傾向にある本土空手と距離をおく意味で、近年は「沖縄空手」が一つのブランドとして用いられる場合も多い。
本土の流派が主導する全空連が指定形から沖縄の形を排除したことに反発して、沖縄は本土と距離を置くようになった。
しかし、劉衛流のように全空連に加盟している流派もある。
沖縄空手の特徴としては、古流空手同様、伝統的な型稽古や鍛錬法の重視、また武器術や取手術の併伝などを挙げることができる。

沖縄空手の流派には、沖縄剛柔流、上地流、小林流 (空手道)、少林流、少林寺流、松林流、本部御殿手、沖縄松源流、劉衛流、金硬流などがある。

フルコンタクト空手
いわゆる寸止めではなく、直接打撃制ルールを採用する流派のことで、実戦空手ともいう。
開祖となった極真会館がもっとも有名であるが、広義には以下のものも含まれる。
そもそも直接打撃制ルール自体は寸止めルールよりもはるかに歴史は古い。

詳しくは、フルコンタクト空手を参照。

狭義のフルコンタクト空手(極真空手)
狭義では、極真会館とその分派の多くに代表される「手技による顔面攻撃以外」の直接打撃制ルールを採用する流派のことをさす。
しかし、近年では国際FSA拳真館や極真館など一部の試合で手技による顔面への直接打撃を認める流派も増えている。
また、近年は幼年部・少年部・壮年部の人口が増加しているため、上級者以外ではヘッドギアやサポーターをつけることが多くなっている。

極真会館の分派以外には伝統派空手の分派や、少林寺拳法の分派である白蓮会館、国際FSA拳真館などがある。

防具付き空手(硬式空手)
防具付き空手とは、防具をつけて試合をする空手競技のことである。
組手競技ルールとしては元々寸止め空手やフルコンタクト空手よりも歴史が古く、空手界で最初の全国大会である全国空手道選手権大会も防具付きルールで行われていた。
フルコンタクト空手や実戦空手との交流もある一方で、伝統派空手に分類される会派も多い。
防具はストロングマンのほか、スーパーセーフが多く使われている。
当然ながら顔面に対しての手技による攻撃が許される。
なお、防具付き空手のうち、技が決まっても「止め」がかかるまでに時間をとり、その間決まった連続技も加算する加点方式を採用するものを硬式空手という。
現在では防具の種類、ポイントとなる打撃の強度などの意見の相違から、会派の分裂が進行、細分化されてしまっている。
その一方で、道場が複数の会派に属し、複数のルールをこなす選手が多いのも特徴である。
代表的な会派は全日本空手道連盟錬武会、全日本硬式空手道連盟、全日本少林寺流空手道連盟錬心舘、千唐会、清心流、全日本格斗打撃連盟、日本防具空手道連盟、全国防具空手道連盟など。

詳しくは防具付き空手の項参照。

アメリカのフルコンタクト空手
フルコンタクト空手のもともとの意味は、アメリカで始められたキックボクシング的なプロ空手のことである。
道着を着用せず、上半身裸で行う。
2分1ラウンドで、プロの世界王座決定戦では12ラウンドを争う。
ボクシングとの差異を計るため、1ラウンドにつき腰より上への蹴りを8本以上蹴らなくてはならないルールが特徴的。
参加選手の出身流派は、沖縄や日本の空手諸流派だけでなく、韓国のテコンドーやタンスドーやアメリカなど欧米諸国で誕生した独自の流派の出身者も多い。

現在はキックボクシングの一種として”フルコンタクト・キックボクシング”という呼び名で知れ渡っており、競技として成熟しつつあるせいか、かつてのように必ずしも伝統的な空手のバックグラウンドは必要で無くなった。

総合空手(格闘空手、バーリトゥード空手)
突き・蹴りのみならず、投げ技・組技・寝技なども取り入れ、いわゆる総合格闘技に近い形での試合を行う流派を指す。

代表的な流派は、一切の防具着用をせず、また一部で素手の拳による顔面攻撃を認めた試合を行うため、もっとも過激なルールと言われる真武館などや、スーパーセーフを使用する極真会館分派の大道塾空道(現在は空手道ではなく大道塾空道と名乗っている)とその分派である和術慧舟會、空手道禅道会などがある。

POINTKOルール空手
極真空手に代表されるフルコンタクトスタイルに加えて、相手が防御できない状態で正確な蹴りが入った場合、ダメージの大きさに関わらず技術点としてポイントを与え、技術的優劣を明確にするPOINTKOルールで試合をする流派である。
胸部への突きとローキックを主体とするスタイルを改め、伝統空手のスピードとフルコンタクト空手の破壊力を取り入れている。

主な流派としては極真空手を源流とする佐藤塾や安藤昇の小説『東海の殺人拳』のモデルとして知られる空手家・水谷征夫とアントニオ猪木が創設した寛水流空手などがある。

段級位・色帯・称号
空手の段級位制や色帯制は、柔道を参考にして導入された。

段位は大正13年(1924年)に船越義珍が発行したのが、空手史上、初めてと言われている。
帯はまず黒帯、白帯が導入された。
黒帯は有段者、白帯は入門者の帯である。
黒帯と白帯の中間(1~3級)には、多くの流派で茶帯を設けている。
さらに、茶帯の下に、当初子供用に緑・黄・青等の色帯が導入され、今日では一般化している。

段級位や色帯の詳細は流派ごとに異なるが、伝統派空手の場合、段位については全日本空手道連盟が「公認段位」を設けている。
称号は、大日本武徳会が授与するものであったが、降伏後、占領していた連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)の命令によって解散させられると、その後は流派、会派ごとによって、独自に授与するようになった。
称号には、範士、教士(達士)、錬士がある。

称号を授与しない流派もある。

上記はあくまで一例であり、流派、会派によって詳細は異なる。

空手衣
琉球王国時代の唐手には道衣が無かった、というのが定説になっている。
かつては、空手の稽古は上半身裸で行われた。
これは、戦前の空手写真などを見れば明らかである。
『拳法概説』(昭和4年)に紹介されている喜屋武朝徳の説明によれば、裸で稽古する理由は「皮膚を強靱に鍛へると共に力の配合を明確に意識せん」がためであるとされる。

喜屋武は、これは幼少の頃からの習慣であると述べているので、少なくとも明治初期から、おそらくは琉球王国時代からの習慣であったと考えられる。

この習慣は首里手に限らず、上掲の写真で宮城長順と許田重発が上半身裸で稽古していることからも、那覇手も含めた沖縄一般の習慣であったのだろう。
今日の空手衣は、1922年、嘉納治五郎のプロデュースで船越義珍が講道館で演武、指導した時に、義珍が柔道衣を借用したことがその起源である。
すなわち、空手衣の元は柔道衣である。
このように一般には別々と思われている柔道と空手道ではあるが、道衣において共通点が存在しているのである。
柔道衣と空手衣がいつ分かれたかは明確ではないが、昭和31年(1956年)の『月刊空手道』創刊号に、すでに空手衣の広告が掲載されているので、戦後しばらくしてか、あるいはすでに戦前から空手衣は誕生していた可能性がある。

動作も稽古内容も柔道とは違うため、柔道衣に徐々に改良がなされ、今のような空手衣が誕生した。
空手衣の構造は今日、伝統派空手とフルコンタクト空手において、おおむね次のような相違が見られる。

(詳細は流派・会派により異なる)

伝統派空手
上衣の袖は、手首までの長さ。
夏の猛暑であっても、「袖まくり」は認められない。

ただし、道場師範の裁量で、稽古に限り黙認される場合もある。

裾に紐が縫い付けられており、襟を合わせた後これを結ぶことで、裾の乱れを防ぐ。

下穿き(ズボン)の長さは、くるぶしの位置に合わせる。

所属流派・会派をあらわすワッペン等を後から空手衣に縫い付けるスタイルが多く、道場を通さなくても独自に空手衣の購入が可能である。

フルコンタクト空手

上衣の袖は、肘が出るか隠れる程度の長さが多く、さらにノースリーブに近いものもある。

下穿き(ズボン)の長さは、床に付く程度にゆったりしている。

空手衣には、団体名をあらわすオリジナルのロゴマークがプリントされており、道場を通じて購入する。

教授法の変遷
琉球王国時代には、空手の教授は秘密裏に行われた。
人目につかないよう夜に教えたり、場所も人里離れた墓地などで教えた。
こういった秘密主義は、薩摩の在番役人を警戒する必要があったためであり、また「掛け試し」などの挑戦を避けるためでもあった。

当時は道場などはなく、師匠がとる弟子の数も少数であった。
日本武術とは異なり、空手には伝書はなく、口伝と実技のみで技が伝授された。
稽古は型の稽古が中心で、一つの型の習得に3年を費やしたと言われる。

組手は一種の約束組手が存在したが、制度化された自由組手や試合などはなかった。
覚えた技を試したい者は、掛け試しなどの実戦を行う必要があった。
明治以降、空手の教授法も急速な変化を遂げた。
沖縄の中学校や師範学校の体育に採用されるなどして、空手ははじめて一般に公開された。

師弟との一対一の練習から、師範の号令と共に、多数の生徒が同じ動作や型の練習をするようになった。
糸洲安恒が学校で子供達が学びやすいようにと、ピンアン(平安)の型を創作したのも、この時期である。
大正時代に入ると、那覇に「沖縄唐手倶楽部」などが結成され、当時の沖縄の大家たちがこれに参加して、はじめての共同研究や共同修練の試みもなされた。
また船越義珍や本部朝基によって、空手史上、初めて空手書が出版されたのも大正時代であった。
昭和に入ると、技に名称をつけたり、伝書の作成、組手の研究、さらには試合の導入などが試みられた。

段級位制や色帯制が導入されると同時に、練習体系の合理化も進んだ。
自前で道場をもつ空手家も現れ、多人数を相手に教えるようになった。

しかし、空手の近代化が進むにつれて、西洋の身体動作や運動理論の導入に対する反省も起こっている。

かつて韓国では、空手道を「コンスドー」(空手道)「タンスドー」(唐手道)と呼んでいたが、韓国流に変化・発展させ、新たな格闘技とし、蹴り技に特化をし、名称もテコンドーとなった。
近代、松涛館流の空手に他武術を取り入れ合理的に発展してきたのがテコンドーである。
14オンスのグローブ着用で顔面有りルールの新空手もK-1人気で最近急激に競技人口が増えてきている。
青涛館創立者の李元国(イ・ウォングク)翁など1940年代中後半にテコンドーを広めるのに先頭に立った多くの元老たちが日本でカラテ(主に松涛館流、これは青涛館の命名にもその影響が見て取れる)を修練した人々である。
いまは故人になった青涛館出身のウ・ジョンニム将軍は記者との対話で、「私は空手道(コンスド)をしていて、のちに崔泓煕(チェ・ホンヒ)将軍などが主軸になって名前を変えただけだ」とも言った。

トリアスは第二次世界大戦中、ソロモン諸島で本部朝基の弟子の中国人より空手を習ったとされ、1942年、アリゾナ州フェニックス (アリゾナ州)に空手道場を開設した。

ヨーロッパの空手は、1960年代以降、日本から空手指導員が派遣されるという形で広まった。
ドイツやイギリスで指導に当たった金澤弘和(松涛館流)やポルトガルで指導に当たった東恩納盛男(剛柔流)などの活躍が知られている。
ソビエト連邦では、1960年代半ば、モスクワの大学にはじめて空手部が設立された。

[English Translation]