茶漬け (Chazuke (a bowl of rice and tea))
茶漬け(ちゃづけ)とは、飯に茶をかけたもののこと。
近年では出汁もしくは白湯をかけたもののこともそう呼ぶ。
通常はお茶漬けと呼ばれる。
なお、白湯をかけたものは一般に、湯漬けという。
この料理・もしくは食べ方は一般に、お好みでご飯の上から熱い茶やだし汁をかける。
茶をかける場合は煎茶(緑茶)やほうじ茶であることが多い。
味の濃い食材を副菜として食をすすめることもあれば、好みで梅干や漬物、サケや海苔・佃煮・塩辛・山葵・たらこ(辛子明太子)などの具をのせることもある。
茶漬けの文化
日本と同じく米飯を主食とし、茶を嗜む中華人民共和国においては、飯に茶をかけて食べるという食習慣はなく、一般的な中国人は、茶漬けという食習慣を知ったときかなり驚くようである。
一般に茶漬けと言えば、熱い液体(熱い茶や熱いだし汁)をかけるものであるが、盛夏などには、よく冷えた麦茶などをかけて、冷たい食感を楽しみながら食べる人もいる。
世代とお茶漬け
古くから食べられていたのは、名の由来の通り、熱い白湯や茶をかけたものである。
その手軽さから軽便食としては元より、豪勢なご馳走を食べた後の後口をさっぱりさせるため、また山岳食としても長らく親しまれている。
これらでは、冷えて固くなった飯を急いで食べるために、飯だけを詰めた弁当に茶を掛ける人も見られる。
しかし、若い世代には市販のインスタント茶漬けのみを小さい頃から食べ慣れている事から、ご飯にインスタント食品の同製品でなく味のしない「お茶」をかけるのを好まない者もいる。
ただ1990年代以降に日本で発生した朝粥ブームもあって、粥の類似料理である茶漬けに凝る人も見られた。
近年では、熱いお茶や白湯の代わりに、冷たいお茶をかけた冷やし茶漬けなども見られる。
歴史
湯漬けと水飯
飯に汁をかけるという供食方法としては平安時代以前に遡ることは確実で、例えば『枕草子』や『源氏物語』にも湯漬けが登場する。
冷や飯に水をかけたものは「水飯」(すいはん)と言い、源氏物語でも光源氏が食べたという記述がある。
当時は炊いた飯は、お櫃にうつしてから食すのが一般的で、保温機能を持つ電気炊飯器や電子レンジなどはもちろん存在しないため、炊きたてからは時間がたつにつれて冷える一方であった。
冷や飯は温度も下がり、水分も減少して食感が失われる。
このため、冷や飯を美味しく食べる手段としても、熱い湯を掛けて飯を暖めたり水分を補う湯漬けは非常に有用であった。
室町幕府の将軍足利義政も、コンブや椎茸でだしをとった湯を、水で洗った飯にかける湯漬けを特に好んだという。
茶漬けの歴史
お茶漬けの始まりは、煎茶や番茶が普及し、茶が庶民の嗜好品として定着した江戸時代中期以降と言われている。
煎茶は若干のグルタミン酸ナトリウム(うまみ成分)が含まれており、独特の芳香と相まって白湯を掛けるより美味である。
今日の茶漬けの直接の始祖は、当時商家に奉公していた使用人(奉公人)らがその仕事の合間に食事を極めて迅速に済ませる為に、とった食事法であるといわれている。
当時の奉公人らは一日の殆どを労働に充てており、また食事時間も上役に管理されていたため、自然とこのような食事形態が発生した。
奉公先の質素な食事の中で「漬け物」は、奉公人にとって自由に摂れるほぼ唯一の副菜(おかず)であり、巨大なサイズの大鉢などに山のように盛られることが多かった。
そのことも、お茶漬という食形態の定着に大いに関係したと推測される。
また、元禄時代頃より、茶漬けを出す店として「茶漬屋」も出現し、庶民のファストフードとして親しまれた。
昭和初期の風俗を描いた永井荷風の名作「濹東綺譚」においては、玉の井の私娼が、配達されたお櫃入りの冷や飯とアルミ鍋に盛られた薩摩芋の煮付けを食べるにあたり、火鉢に掛けたアルミ鍋の薩摩芋、山盛りの沢庵とともに、茶漬けをさらさら掻きこむ描写が描かれている。
このような事からお茶漬けは、下層階級の食事形態とされ支配階級以上の家庭では大っぴらには食べず、やむを得ない場合の軽食とされた。
しかし、実利を尊ぶ庶民には、お茶漬けはその利便性から非常に重宝がられ普及した。
インスタント茶漬け
1952年には、画期的な商品であるインスタント食品のお茶漬け、永谷園の「お茶づけ海苔」が考案、発売された(ただし永谷園の会社設立は翌年である)。
これらは乾燥させた具(かやく)と茶(抹茶)や出し汁の粉末を混ぜたもので、ご飯の上にかけて湯を注ぐとそのまま茶漬けになるという簡便な製品である。
1990年代以降、このインスタントお茶漬けでは、実験的にバラエティーに富んだ具材のものが開発・発売されている。
「ラーメン茶漬け」、「中華料理茶漬け」、「烏龍茶茶漬け」などである。
元より茶漬けが気取らない喫食方法であるがために、それらも含めてコンビニエンスストアやスーパーマーケットの定番商品の一つになっている。
インスタント茶漬けに入っているあられであるが、この原型は京都のぶぶづけに求める事ができる。
ぶぶづけでは、米粉から作られたあられや餅を揚げたおかきが加えられ、香ばしさを添えている。
永谷園の創業者でインスタントお茶漬けのパイオニアである永谷嘉男が、父親の助言により、インスタント茶漬けにあられを取り入れたという。
美味しさもさる事ながら、保管中の湿気を取るという意味でも好都合であり、他のメーカーも追随した。
茶漬けにまつわる儀礼
茶漬けは京都弁でぶぶづけとも呼ばれるが、京都で他人の家を訪問したときに「ぶぶづけでもいかがどすか」と勧められたり出されたりした場合、それはたいていの場合において暗に帰宅を催促しているものである。
勧められた場合は丁重に断って帰宅するか、実際に出された場合には食べ終わったら退散することが好ましいとされている。
この場合はお代わりを要求したりはしないのが無難であり、また常識とされる。
なお、これは、食事のしめの一つである茶漬けを出すことで、終わり(長居の終わりや会話の終わり)を指しているとされている。
日本では一般に(洋風の物を除き)麺類などを食事ですする際は、音を立てても無作法とはされない。
同じく汁物(味噌汁など)も、音を立てても問題とされない。
しかし粥と茶漬けは、音を立ててすするとマナーに反する場合もあるので注意が必要である。
汁と固形物の比率が、他の汁物料理と比較して、固形物の割合が高いためであろうと考えられる。
これらでは椀を傾け、箸の先端で大きくあけた口の中に適量を流し込んで咀嚼、飲み下す。
なお作法にうるさい向きでは、箸は余り汁に深く浸す事も無作法だと云うことである。
古来、茶漬けの美しい食べかたは「さらさらと掻き込む」ことだとされている。
ただ、あまり気取らない食べ方である場合も多い。
食品メーカーの永谷園は1990年代末より、お茶漬けを豪快に食べるコマーシャルメッセージを展開。
美男の広告代理店社員や公募された一般の消費者等による「フーフー、ジュルジュル、ハフハフ、モシャモシャ」と音を強調したシリーズをテレビ放送放映、ラジオ放送でも音のみの広告を展開した。
同シリーズは、音が汚らしいという不評も聞かれはしたが、それ以上にシズルともいわれる。
この辺りは賛否両論が激しく、意見が分かれる所でもある。
茶漬けの影響を受けた料理
室町時代末期頃には芳飯(法飯とも書く)という料理が出現した。
これは白飯もしくは混ぜご飯に七種類の具(野菜類が多い)を乗せ、その上から湯桶に入ったお焦げに出汁を加えたものを掛けた料理である。
正式な本膳料理や精進料理にも供され、おかわりする事も可能な料理であった。
現在でも長野県善光寺等で精進料理の一種として供されたり、沖縄県には菜飯(セーファン)という芳飯に類似した料理が残されている。
明治時代の名古屋市では、「ひつまぶし」という鰻料理が生まれた。
最後はお茶漬けにして食べる事とされている。
茶漬けにまつわる話題
戦国時代の武将織田信長などは出陣の前に湯漬けを食べたという話がある。
江戸時代の高級料亭八百善では一杯一両二分という高額なお茶漬けを客に出したことがある。
茶漬けに合う水を飛脚でわざわざ取り寄せたためこの値段になったという。
明治の文豪、森鴎外は、饅頭茶漬けが好物だった。
理由は、大の甘党の上に、ドイツ留学中に細菌を顕微鏡で見て以来潔癖症になってしまったため。
饅頭を四つにわけてご飯の上に載せ、煮えたぎった煎茶を掛けて食べたという。
新宿「すずや」の「とんかつ茶漬け」は特異な茶漬けの例として有名である。