蹴鞠 (Kemari (a type of football played by courtiers in ancient Japan))

蹴鞠(けまり)とは、平安時代に流行した競技のひとつ。
鹿皮製の蹴鞠鞠を一定の高さで蹴り続け、その回数の多寡を競う競技である。

なお、日本語でサッカーのことを「蹴球(しゅうきゅう)」と呼ぶのは、明治時代にヨーロッパから来た外国人が外国人居留地でその競技に興ずる姿を見て、日本人が「異人さんの蹴鞠」と呼んだことからきているといわれる。

歴史
中国
中国の蹴鞠の歴史は紀元前300年以上前の田斉(戦国時代 (中国))での軍事訓練にさかのぼる
とされ、漢代には12人のチームが対抗して鞠を争奪し「球門」に入れた数を競う遊戯として確立し、宮廷内で大規模な競技が行われた。
唐代にはルールは多様化し、球門は両チームの間の網の上に設けられたり競技場の真ん中に一個設けられるなどの形になった。
この時期、鞠は羽根を詰めたものから動物の膀胱に空気を入れたよく弾むものへと変わっている。
またモンゴル帝国の遠征にともなって東欧や東南アジアにも伝来したと言われている。
東南アジアでは現在でも蹴鞠が起源といわれているセパタクロー(蹴る鞠という意味)が盛んである。

蹴鞠競技はその後、中国本土では次第に廃れていき、宋 (王朝)代にはチーム対抗の競技としての側面が薄れて一人または集団で地面に落とさないようにボールを蹴る技を披露する遊びとなった。
やがて貴族や官僚が蹴鞠に熱中して仕事をおろそかにしたり、娼妓が男たちの好きな蹴鞠をおぼえて客たちを店に誘う口実にしたりすることが目立ったため、明初期には蹴鞠の禁止令が出され、さらに清における禁止令で中国からはほぼ完全に姿を消した。

日本

蹴鞠は600年代、仏教などと共に中国より日本へ渡来した。
天智天皇と藤原鎌足が、蹴鞠をきっかけに親しくなり、これがきっかけで645年に大化の改新が興ったことは広く知られている。

蹴鞠は日本で独自の発達を遂げ、数多の蹴鞠の達人を輩出した(下記蹴鞠蹴鞠の達人の章にて紹介)。
平安時代には蹴鞠は宮廷競技として貴族の間で広く親しまれるようになり、貴族達は自身の屋敷に鞠場と呼ばれる専用の練習場を設け、日々練習に明け暮れたという。
辛口の評論で知られる清少納言でさえ、著書「枕草子」のなかで「蹴鞠は面白い」と謳っているほどであった。

蹴鞠は貴族だけに止まらず、天皇、公家、将軍、武士、神官はては一般民衆に至るまで老若男女の差別無く親しまれた。
蹴鞠に関する種々の制度が完成したのは鎌倉時代で、以降近代に至るまでその流行は衰えることは無かった。

しかし室町時代の末期に織田信長が相撲を奨励したことで、蹴鞠の人気は次第に収束していったといわれる。
しかし蹴鞠の文化が消失した中国とは異なり、現代でも伝統行事として各地で蹴鞠が行われている。

ルール

蹴鞠は、懸(かかり)または鞠壺(まりつぼ)と呼ばれる、四隅を元木(鞠を蹴り上げる高さの基準となる木。
)で囲まれた三間程の広場の中で実施される。
1チーム4人、6人または8人で構成され、その中で径7~8寸の鞠をいくたび「くつ」をはいた足で蹴り続けられるかを競った団体戦と、鞠を落とした人が負けという個人戦があった。

用語

懸 蹴鞠を行う競技場

元木 懸の四方に植えられたヤナギ(東南)、サクラ(東北)、マツ(西北)、カエデ(西南)などの植木。
高さは一丈五尺以下で、鞠を蹴り上げる為の基準となった。
「きりたて」ともいう。

鞠足 蹴鞠を行うプレイヤー。
名プレイヤーを名足、下手な人を非足と呼んだ。

野伏 外に出た鞠を中へ蹴り返す補助役。

見証 審判。

上鞠 サッカーでいえばキックオフのこと。
基本的に上鞠を行うことは非常に名誉なことであった。

請鞠 日暮や天候変化などにより、やむなく試合を中断すること。


蹴鞠の鞠は革製で、中空である。

シカの滑革(ぬめかわ)2枚をつなぎあわせ、そのかさなる部分を、腰革、また「くくり」という。

また取革といって、べつに紫革の細いのをさしとおす。

種類は、白鞠、生地鞠、燻鞠、唐鞠がある。
白鞠は鞠を白粉で塗ったもの。

生地鞠は生地のままのもので、白鞠に対する。

燻鞠は燻革で製したもの。

唐鞠は五色の革を縫いあわせて製し、中国から伝来したときの鞠のかたちであるという。

「今川大草紙」によれば、「鞠皮は、春二毛の大女鹿の中にも、皮の色白で、爪にて押せば、しわのよる皮を上品とする也」という。

革の縫いかた、取革については、「遊庭秘抄」に、「洛中に、河原院、又あまべとて、此の二ヶ条ならでは鞠くくりなし。
河原院のまり、いかにもまさり、かた穴二つある鞠也。
あまべの鞠は、かた穴二つある鞠也。
縫ふ様は、針目も、又革も、五見え侍る様に、縫ふべし。
或は七にも縫ふ也。
韈の革の同色ならん革を、二分計に細く切つて、強くのして、かた穴の頭に穴をあけて、穴の中より革を引出して(革の先を結ぶべし)、かた穴の左の方に穴二つ、右の方に穴二をあけて、穴より入て小穴より出引て、はこの方を結で、かた穴の中(ままこひたひのそばなり)へさし入べし(両方如(レ)此)、取革といふ五分許の革を取、革の座敷に入とをして、両方の革のはたに穴をあけて、一方をさし入侍れば、革かいさまになるを、続飯にてつけて、さきをそとば頭に切也。
取革付けぬ鞠は、今に忌中の鞠に取革付侍ぬ也。
可(レ)得(二)其意(一)」((一)、(二)、(レ)は、返り点。)という。

蹴鞠の達人

各時代において多数の名足を生み出したが、平安後期の藤原成通は特に希代の名人と言われ、後世の蹴鞠書でも「蹴聖」と呼ばれている。

成通が蹴鞠の上達のために千日にわたって毎日蹴鞠の練習を行うという誓いを立てた。
その誓いを成就した日の夜のこと、彼の夢に3匹の猿の姿をした鞠の精霊が現れ、その名前(夏安林(アリ)、春陽花(ヤウ)、桃園(オウ))が鞠を蹴る際の掛声になったと言われている。
この3匹の猿は蹴鞠の守護神として現在、大津の平野神社と京都の白峯神宮内に祭られている。
また、その名前から猿田彦を守護神とする伝承もあった事が『節用集』に書かれている。

蹴鞠を家業とする家

難波家(難波流)

藤原頼輔 - 難波宗長と飛鳥井雅経の祖父
難波宗長 - 難波流祖

飛鳥井家(飛鳥井流)

飛鳥井雅経 - 飛鳥井流祖
飛鳥井雅庸

御子左家・冷泉家(御子左流)

藤原為家 - 御子左流祖

公家の流派のうち難波流・御子左流は近世までに衰退したが、飛鳥井流だけはその後まで受け継がれていった。
飛鳥井家屋敷の跡にあたる白峯神宮の精大明神は蹴鞠の守護神であり、現在ではサッカーを中心としたスポーツ・芸能の神とされている。
毎年4月14日と7月7日には蹴鞠奉納が行われる。

賀茂氏・賀茂神社(社家流)

賀茂成平 - 社家流祖

賀茂御祖神社では現在でも毎年1月4日に「蹴鞠はじめ」が行われている。
なお下鴨神社は日本サッカー協会のシンボルマークのモチーフでもある「八咫烏」を祭っている。

[English Translation]