雛祭り (Hina-matsuri (Doll's Festival))

雛祭り(ひなまつり)は女性の子供のすこやかな成長を祈る節句の年中行事。
ひいなあそびともいう。

概要

日本では和暦(太陰太陽暦)の3月の節句(上巳)である3月3日 (旧暦)(現在の4月頃)に行われていたが、明治6年(1873年)1月1日の改暦以後は一般的にグレゴリオ暦(新暦)の3月3日に行なう。
しかし一部(主に東北地方など積雪・寒冷地)では引き続き旧暦3月3日に祝う(新暦4月3日に祝う所もある)。
旧暦ではモモの花が咲く季節になるため桃の節句となった。

男雛と女雛を中心とする人形を飾り、桃の花を飾って、白酒 (日本酒)などの飲食を楽しむ節句祭り。
関東雛と京雛では男雛と女雛の並ぶ位置は逆。
本来「内裏雛」とは雛人形の男雛と女雛の一対を指すが、男雛を「お内裏様」、女雛を「お雛様」と呼ぶ誤りは童謡「うれしいひなまつり」の歌詞から一般化している。
三人官女以下のその他大勢の随臣、従者人形を「供揃い」という。

歴史

日本の雛祭りはいつ頃から始まったのか歴史的には判然としないが、その起源はいくつか存在する。
日本での起源は平安時代の京都で既に平安貴族の子女の雅びな「遊びごと」として行われていた記録が現存しており、もとは京都のものであったと推測される。
その当時においても、やはり小さな御所風の御殿「屋形」をしつらえ飾ったものと考えられる。
しかし、それはどこまでも「遊びごと」であり、決して儀式的なものではなく、そこに雛あそびの名称の由来がある。

これが江戸時代になり女子の「人形遊び」と節物の「節句の儀式」と結びつき、全国に広まり、飾られるようになった。
この遊びである「雛あそび」が節句としての「雛祭り」へと変わったのは天正年間以降のことであり、この時代から三月の節句の祓に雛祭りを行うようになったと推測されている。
もっとも、この時代には飾り物としての古の形式と、一生の災厄をこの人形に身代りさせるという祭礼的意味合いが強くなり、武家子女など身分の高い女性の嫁入り道具の家財のひとつに数えられるようにもなった。
その為、自然と華美になり、より贅沢なものへ流れた。

江戸時代初期は形代の名残を残す立った形の「立雛」や、坐った形の「坐り雛」(寛永雛)が作られていたが、これらは男女一対の内裏雛を飾るだけの物であった。
その後時代が下ると人形は精巧さを増し、十二単の装束を着せた「元禄雛」、大型の「享保雛」などが作られたが、これらは豪勢な金箔張りの屏風の前に内裏の人形を並べた立派なものだった。
この享保年間、人々の消費を当時の幕府によって規制するため一時的に大型の雛人形が禁止された。
しかし、この規制を逆手に取り「芥子雛」と呼ばれる精巧を極めた小さな雛人形(わずか数センチの大きさ)が流行することになる。
江戸時代後期には「有職雛」とよばれる宮中の雅びな平安装束を正確に再現したものが現れ、さらに今日の雛人形につながる「古今雛」が現れた。
この後、江戸末期から明治にかけて雛飾りは2人だけの内裏人形から、嫁入り道具や台所の再現、内裏人形につき従う従者人形たちや小道具、御殿や檀飾りなど急速にセットが増え、スケールも大きくなっていった。

雛人形のそれぞれ

雛人形は、平安貴族の装束(平安装束)を模している。

親王(男雛、女雛)はそれぞれ天皇、皇后をあらわす

官女(三人官女)は宮中に仕える女官をあらわす、内1人のみお歯黒、眉無し(既婚者を意味するが、生涯独身の女官の場合には年長者という意味であろう)

五人囃子は能の囃子を奏でる5人の楽人をあらわし、それぞれ「太鼓」「大皮」「小鼓」「笛」「謡」である(能囃子の代わりに5人、又は7人の雅楽の楽人の場合もある)

随身(ずいじん)の人形は随臣右大臣と左大臣と同時に衛士(えじ)でもある

仕丁は従者をあらわし、通常3人1組である

※メーカーによっては、以下の追加がある
三歌人(柿本人麻呂、小野小町、菅原道真)
能の鶴亀
稚児2名

内裏雛の左右

内裏雛や人形の並べ方に決まりごとはない。
しかし壇上の内裏雛は内裏の宮中の並び方を人形で模すことがある。
中国の唐や日本では古来は「左」が上の位であった。
人形では左大臣(雛では髭のある年配の方)が一番の上位で天皇から見ての左側(我々の向かって右)にいる。
ちなみに飾り物の「左近の桜、右近の橘」での桜は天皇の左側になり、これは宮中の紫宸殿の敷地に実際に植えてある樹木の並びでもある。
明治天皇の時代までは左が高位というそのような伝統があったため天皇である帝は左に立った。
しかし明治の文明開化で日本も洋化し、その後に最初の即位式を挙げた大正天皇は西洋式に倣い右に立った。
それが以降から皇室の伝統になり、近代になってからは昭和天皇は何時も右に立ち香淳皇后が左に並んだ。

上記について補足すると、即位礼では天皇は正殿真中に立ち、皇后は向って右に立つ。
左右どちらが上位であるか以前に真中が上位である。
天皇が皇后の右に立つ理由は、少なくとも即位の礼においては西洋に倣ったわけではなく、真中・向って右に並ぶのであって、左・右に並んでいるわけではない。
中国では西太后・皇帝・東太后と並ぶが、日本では西太后に当る地位がないので、言ってみれば、(空席)・天皇・皇后となるのである。
つまり、関東雛の雛の位置は真中を考えずに、左右の現象だけで判断された結果と推察される。

それを真似て東京では、男雛を右(向かって左)に配置する家庭が多くなった。
永い歴史のある京都を含む畿内や西日本では、旧くからの伝統を重んじ、現代でも男雛を向かって右に置く家庭が多い。
社団法人日本人形協会では昭和天皇の即位以来、男雛を向かって左に置くのを「現代式」、右に置くのを「古式」とするが、どちらでも構わないとしている。

雛人形の飾り方

飾り方にも全国各地で色々あるが、多くはこの三種の飾り方である。
しかし、特に飾り方に決まりごとはない。

御殿を模しての全部の飾り方(段飾りなどを含む)

御殿の内の一室を拝しての飾り方

屏風を用いて御座所の有り様を拝しての飾り方

さらにはお囃子に使う楽器や、家財道具と牛車などの道具を一緒に飾ることもある。
上段の写真にあるような五段、七段(七段飾りは高度経済成長期以降、八段飾りはバブル期以降)の檀飾りが多かったが、最近では部屋の大きさに合わせたり雛人形を出し入れしやすいように段数を減らしたものが主流となっている。
戦前までの上方・京都や関西の一部では天皇の御所を模した御殿式の屋形の中に男雛・女雛を飾り、その前の階段や庭に三人官女や五人囃子らを並べ、横に鏡台や茶道具、重箱などの精巧なミニチュアなどを飾っていた。

祭りの日が終わった後も雛人形を片付けずにいると結婚が遅れるという俗説は昭和初期に作られた迷信である。
旧暦の場合、梅雨が間近であるため、早く片付けないと人形や絹製の細工物に虫喰いやカビが生えるから、というのが理由だとされる。

この行事に食べられる食品に菱餅、雛あられ、鯛やハマグリの料理(吸い物等)、ちらし寿司があり、地方によっては飲み物として白酒 (日本酒)、生菓子の引千切がある。

雛祭りが祝日でない理由

江戸時代雛祭りは『五節句』のひとつとして「祝日として存在した」とされる。
しかし、明治6年の新暦採用が『五節句(=雛祭り)』の祝日廃止となって、さらに「国民の祝日」より「皇室の祝日」色が濃くなった。
このため、戦後になって新たに祝日を作ろうとする動きが見られるようになる。
祝日制定にあたり3月3日の案や、年度の4月1日の案も出ていたが、最終的には5月5日の端午の節句を祝日(こどもの日)とする案が採用された。
北海道・東北をはじめ寒冷で気候の悪い地域の多い時期を避け、全国的に温暖な時期の5月にしたというのが大きな理由のひとつとされる。

特色ある雛祭り

各地で、大量に雛人形飾りを公開したり、特色ある飾りを飾ったり、少年少女、又は成人の男女が雛人形に扮したりする祭り等が、この期間中に開催される。

[English Translation]