鷹狩 (Taka-gari)
鷹狩(たかがり)とは、鷹などの鳥を使った狩猟の一種。
タカ科のオオタカ、ハイタカ、及びハヤブサ科のハヤブサ等を訓練し、鳥類やウサギなどの小動物を捕らえさせ、餌とすりかえる。
あるじの元に運んでくるというのは俗信である。
こうして鷹を扱う人間は、鷹匠(たかじょう)と呼ばれる。
古語においては鳥狩/鷹田(とがり)、放鷹、鷹野などとも称する。
中央アジアないしモンゴル高原起源と考えられているが、発祥地と年代について定説はない。
近代以前は、東は日本、西はアイルランド、モロッコ、北はモンゴル、スカンディナヴィア、南はインドに至るユーラシア/北アフリカ全域で各地方独特の鷹狩文化が開花した。
現代では、かつて盛行したインドやイランで絶滅しかけている反面、南北アメリカ及び南アフリカでも行われている。
古代
日本では支配者の狩猟活動は権威の象徴的な意味を持ち、古墳時代の埴輪には手に鷹を乗せたものも存在する。
日本書紀には仁徳天皇の時代(仁徳紀43年)には鷹狩が行われ、タカを調教する鷹甘部(たかかいべ:鷹飼部)が置かれたという記録がある。
古代には鷹場が禁野として一般の出入りが制限され、天皇の鷹狩をつかさどる放鷹司(大宝令)/主鷹司(養老令)が置かれた。
正倉院に放鷹司関係文書が残っており、長屋王邸跡から鷹狩に関連する木簡が出土している。
平安時代には主鷹司が廃止され、蔵人所が鷹狩を管掌する。
奈良時代の愛好者としては大伴家持が知られる。
平安時代においては、初期の桓武天皇、嵯峨天皇、光孝天皇、宇多天皇、醍醐天皇らとその子孫は鷹狩を好んだ。
嵯峨天皇は鷹狩に関する漢詩を残しているほか、技術書として「新修鷹経」を編纂させている(818年)。
現存する鷹狩技術のテキストとしては世界で二番目に古い。
中期以降においても、一条天皇、白河天皇などの愛好者が現れたが、天皇自身よりも貴族層による鷹狩が主流となる。
坂上田村麻呂、在原行平、在原業平は鷹狩の名手としても知られた。
鷹狩は文学の題材ともなり、伊勢物語、源氏物語、今昔物語等に鷹狩にまつわるエピソードがある。
和歌の世界においては、鷹狩は「大鷹狩」と「小鷹狩」に分けられ、中世にいたるまで歌題の一つであった。
「大鷹狩」は冬の歌語であり、「小鷹狩」は秋の歌語である。
中世
中世には武家の間でも行われ始め、一遍上人絵伝や聖衆来迎寺六道絵の描写や吾妻鏡・曾我物語の記述に鎌倉時代の有様をうかがうことができる。
室町時代の様子は洛中洛外図屏風各本に描かれている。
安土桃山時代には織田信長が大の鷹好きとして知られる。
東山 (京都府)で鷹狩を行ったこと、諸国の武将がこぞって信長に鷹を献上したことが『信長公記』に記載されている。
また、朝倉宗滴(宗滴)は、オオタカの飼育下繁殖に成功しており、現在判明している限りでは世界最古の成功記録である。
公家及び公家随身による鷹狩も徳川家康による禁止まで引き続き行われ、公卿の持明院家、西園寺家、地下の下毛野家などが鷹狩を家業とし、和歌あるいは散文形式の技術書(「鷹書」)が著されている。
近衛前久は鷹狩の権威者として織田信長と交わり、また豊臣秀吉と徳川家康に解説書「龍山公鷹百首」を与えている。
一方、武家においても、諏訪大社や二荒山神社への贄鷹儀礼と結びついて、禰津流、小笠原流、宇都宮流等の鷹術流派が現れ、禰津信直門下からは、屋代流、荒井流、吉田流などが分派した。
近世
戦国武将の間で鷹狩が広まったが、特に徳川家康が鷹狩を好んだのは有名である。
家康には鷹匠組なる技術者が側近として付いていた。
鷹匠組頭に伊部勘右衛門という人が大御所時代までいた。
東照宮御影として知られる家康の礼拝用肖像画にも白鷹が書き込まれる場合が多い。
江戸時代には代々の徳川将軍は鷹狩を好んだ。
三代将軍徳川家光は特に好み、将軍在位中に数百回も鷹狩を行った。
家光は将軍専用の鷹場を整備して鳥見を設置したり、江戸城二の丸に鷹を飼う「鷹坊」を設置したことで知られている。
家光時代の鷹狩については江戸図屏風でその様子をうかがうことができる。
五代将軍徳川綱吉は動物愛護の法令である「生類憐れみの令」によって鷹狩を段階的に廃止したが、八代将軍徳川吉宗の時代に復活した。
徳川吉宗は古今の鷹書を収集・研究し、自らも鶴狩の著作を残している。
累代の江戸幕府の鷹書は内閣文庫等に収蔵されている。
江戸時代の大名では、伊達重村、島津重豪、松平斉貴などが鷹狩愛好家として特に著名であり、特に松平斉貴が研究用に収集した文献は、今日東京国立博物館や島根県立図書館等に収蔵されている。
近代
明治維新後、鷹狩は大名特権から自由化され、明治25年の「狩猟規則」及び明治28年の「狩猟法」で9年間免許制の下に置かれたが、明治34年の改正「狩猟法」以後、狩猟対象鳥獣種・数と狩猟期間・場所の一般規制のみを受ける自由猟法として今日に至る。
明治天皇の意により、宮内省式部職の下で鷹匠の雇用・育成も図られたが、第二次世界大戦後、宮内庁による実猟は中断している。
幕府・宮内省鷹匠の技術は、村越仙太郎(1857?-1937)・花見薫(1910-2002)ら、退職した宮内省/宮内庁鷹匠により民間有志に伝えられ、現在活動している鷹狩従事者(松原英俊を除く)は、特定流派名を名乗るか否かに関わらず、そのいずれかの技術的系譜を引く。
早期の民間団体としては、中西悟堂も発起人に名を連ねた日本放鷹倶楽部(1936)があったが中断した。
村越仙太郎に師事した丹羽有得(1901-1993)の門下からは日本鷹狩文化保存会、森覚之丞研究会、吉田流鷹狩協会など、花見薫の門下からは日本放鷹協会、諏訪流放鷹術保存会などが結成されている。
大原総一郎が丹羽有得を招聘して設立した日本鷹狩クラブは、その早世後、ある時期に鷹狩の伝統の保存・公開普及という目的から外れ、改組・改名されたらしい。
現在同一地所にある日本ワシタカ研究センターなる施設は公開されておらず、組織・活動実態と財産状況は不明であるが、年間予算2200万円とされ、所用の封筒には中部電力総務部が本部事務局として表記されている。
明治以降(東北)
一方、明治以降、東北地方において、当初士族層・一定の資力のある農民・マタギの間でクマタカによる雪山の鷹狩が広がりを見せた。
クマタカの飼育自体は鎌倉時代から見られ(古今著聞集)、中世の鷹書においても「角鷹」への言及が見られる。
東北地方の「鷹使い」の起源は明らかでなく、幕末以前に遡る見方もあるが、用具とその名称に共通・類似するものがあることから、武士の鷹狩が土着化したものと見られる。
名手として知られた三浦恒吉(1863-1938)は、院内の伝助なる人物の流れを汲むが、旧新庄藩鷹匠家の佐々木甚助とも親交があった。
東北地方の「鷹使い」は生業鷹匠として発展したが、第二次世界大戦後の経済状況の変化で急速に衰亡し、現在では沓澤朝治(1896-1983)の下で1年間学んだ松原英俊1人が残っているにすぎない。