七夕 (Tanabata (Star Festival))

七夕(しちせき、たなばた)は、日本、中国、台湾、ベトナム、朝鮮などにおける節供、節日の一つ。
7月7日 (旧暦)の夜のことであるが、日本では明治改暦以降、お盆が7月か8月に分かれるように7月7日又は月遅れの8月7日に分かれて七夕祭りが行われる。
節句の一つにも数えられる。
古くは、「七夕」を「棚機(たなばた)」や棚幡と表記した。
そもそも七夕とはお盆行事の一環でもあり、精霊棚とその幡を安置するのが7日の夕方であった。
7日の夕で「七夕」と書いて「たなばた」と発音するようになったともいう。
元来、中国での行事であったものが奈良時代に伝わった。
元からあった日本の棚機津女(たなばたつめ)の伝説と合わさって生まれた言葉である。

中国

元来は中国の節句の一つであり、太陰太陽暦の7月7日 (旧暦)である。
中国暦において7月 (旧暦)は秋の最初の月「孟秋」であり、7日は上弦の月すなわち半月の日である。
7が重なる日であるため「双七」とも呼ばれた。
二十四節気では立秋前後の時期に相当する。

日本

日本では天保暦(旧暦)など和暦7月7日であり7月15日 (旧暦)に行われるお盆に合わせてお盆行事の一環として行う意味合いが強かった。
明治6年(1873年)の改暦後は、お盆時期が7月と8月に分かれたが、七夕もグレゴリオ暦(新暦)の7月7日(行事によっては7月6日の夜)に勤める地域と、旧暦風(月遅れ)お盆の8月7日(東日本・北海道と仙台に多い)に行われるものとに分かれた。
また、現在でも旧暦の7月7日に行う地方もある。
なお、旧暦の場合、閏月の関係で閏7月になることもあるが、閏月に年中行事は行わないため、閏7月7日は旧七夕とはならない。
最近では2006年がそうだった(7月31日が旧7月7日、8月30日が旧閏7月7日、旧七夕はあくまで新暦7月31日だけであり、年に2回あるわけではない)。

なお、お盆時期の差異については、お盆の項を参考にされたい。

グレゴリオ暦の7月7日は夏だが、旧暦の7月7日はほとんど立秋以降であるので、古来の七夕は秋の季語である。
日本の多くの地域では、グレゴリオ暦の7月7日は梅雨の最中なので雨の日が多く、旧暦のころからあった行事をグレゴリオ暦の同じ日付で行うことによる弊害の一つといわれる。

統計的には、旧暦で晴れる確率は約53%(東京)であり、晴れる確率が特別に高いというわけではない。
しかし、旧暦では毎年必ず上弦の月となることから、月が地平線に沈む時間が早く、月明かりの影響を受けにくい。
新暦では、晴れる確率は約26%(東京)と低い。
そのうえ新暦の七夕における月齢が一定しないために、晴れていても月明かりの影響により天の川が見えない年もある。
したがって、天の川が見える確率という点では、旧暦の七夕の方がかなり高いといえる。

ちなみに、七夕に降る雨を「催涙雨(さいるいう)」また、「洒涙雨(さいるいう)」といい、織姫と彦星が流す涙だと伝えられている。

起源

日本古来の豊作を祖霊に祈る祭(お盆)に、中国から伝来した女性が針仕事の上達を願う乞巧奠(きっこうでん/きこうでん)や佛教の盂蘭盆会(お盆)などが習合したものと考えられている。
そもそも七夕は棚幡とも書いたが、現在でもお盆行事の一部でもある。
笹は精霊(祖先の霊)が宿る依代である。

七夕を特別な日とすることがいつから起こったかは定かではない。
この日の行事について書かれた最も古い文献は後漢時代の崔寔が書いた『四民月令』であり、書物を虫干しにしたことが記されている。

織女と牽牛の伝説は『文選 (書物)』の中の漢の時代に編纂された「古詩十九首」が文献として初出とされているが、まだ7月7日との関わりは明らかではない。
その後、南北朝時代 (中国)の『荊楚歳時記』には7月7日、牽牛と織姫が会合する夜であると明記され、さらに夜に婦人たちが7本の針の穴に美しい彩りの糸を通し、捧げ物を庭に並べて針仕事の上達を祈ったと書かれている。
上記から、7月7日に行われた乞巧奠と織女・牽牛伝説が関連づけられていることがはっきりと分かる。
また六朝・梁 (南朝)の殷芸(いんうん)が著した『小説 (殷芸)』には、以下の一節がある。
「天の河の東に織女有り、天帝の子なり。
年々に機を動かす労役につき、雲錦の天衣を織り、容貌を整える暇なし。
天帝その独居を憐れみて、河西の牽牛郎に嫁すことを許す。
嫁してのち機織りを廃すれば、天帝怒りて、河東に帰る命をくだし、一年一度会うことを許す」(「天河之東有織女 天帝之女也 年年机杼勞役 織成云錦天衣 天帝怜其獨處 許嫁河西牽牛郎 嫁後遂廢織紉 天帝怒 責令歸河東 許一年一度相會」『月令広義』七月令にある逸文)
これが現在知られている七夕のストーリーとほぼ同じ型となった最も古い時期を考証できる史料のひとつとなっている

日本語「たなばた」の語源は『古事記』でアメノワカヒコが死にアヂスキタカヒコネが来た折に詠まれた歌にある「淤登多那婆多」(弟棚機)又は『日本書紀』葦原中国平定の1書第1にある「乙登多奈婆多」また、お盆の精霊棚とその幡から棚幡という。
日本では奈良時代に節気の行事として宮中にて行われていた。
また、『万葉集』卷10春雜歌2080(「織女之 今夜相奈婆 如常 明日乎阻而 年者将長」)たなばたの今夜あひなばつねのごと明日をへだてて年は長けむ など七夕に纏わる歌が存在する。

本来、宮中行事であったが、織姫が織物などの女子の手習い事などに長けていたため、江戸時代に手習い事の願掛けとして一般庶民にも広がった。

説話

こと座の1等星ベガは、中国・日本の七夕伝説では織姫星(織女星)として知られている。
織姫は天帝の娘で、機織の上手な働き者の娘であった。
夏彦星(彦星、牽牛星)は、わし座のアルタイルである。
夏彦もまた働き者であり、天帝は二人の結婚を認めた。
めでたく夫婦となったが夫婦生活が楽しく、織姫は機を織らなくなり、夏彦は牛を追わなくなった。
このため天帝は怒り、二人を天の川を隔てて引き離したが、年に1度、7月7日だけ天帝は会うことをゆるした。
二人は7月7日に、天の川にどこからかやってきたカササギが橋を架けてくれ会うことができた。
しかし7月7日に雨が降ると天の川の水かさが増し、織姫は渡ることができず夏彦も彼女に会うことができない。
星の逢引であることから、七夕には星あい(星合い、星合)という別名がある。
また、この日に降る雨は催涙雨とも呼ばれる。
催涙雨は織姫と夏彦が流す涙といわれている。

古典文学として上記のようなストーリーとなった七夕説話であるが、長い歴史の中で中国各地の民話として様々なバリエーションを生じるに至った。
それらは地方劇で上演され、戯曲 (中国)の題材となった。
その中で有名なものに京劇などで演じられる『天河配』がある。
その内容は以下のようなものである。
牛飼いの牛郎(牽牛)が水浴びをしていた天女の一人である織女の衣を盗んで夫婦となる。
やがて織女は天界に帰り、牛郎は織女を追って天界に昇るものの、織女の母である西王母によって天の川の東西に引き裂かれる。
羽衣伝説のようなストーリーすなわち白鳥処女説話となっている。

星空

織女や牽牛という星の名称は 春秋戦国時代の『詩経』が初出とされているが、どの星を指すかは定かではない。
前漢の『史記』天官書を見るとかつての牽牛は牛宿のことであり、現在の牽牛すなわちアルタイルは河鼓(天の川の太鼓)と呼ばれる星座の一星である。
七夕伝説の発展により、より説話に相応しい位置に遷されたものと思われる。

中国や日本で使われていた太陰太陽暦では、必ず上弦の月となるので、これを船に見立てることもあった。
そして夜遅くには月が沈み、月明かりにかき消されていた天の川が現れてくる。
ただし、近年の日本国内では光害の影響により、月が沈んだ後であっても天の川を見ることができる場所は限られている。

グレゴリオ暦(新暦)では、新暦の七夕における月齢ため、月明かりの影響により天の川が全く見えない年も多い。

風習

殆どの神事は、「夜明けの晩」(7月7日午前1時頃)に行うことが常であり、祭は7月6日の夜から7月7日の早朝の間に行われる。
午前1時頃には天頂付近に主要な星が上り、天の川、牽牛星、織女星の三つが最も見頃になる時間帯でもある。

全国的には、短冊に願い事を書き葉竹に飾ることが一般的に行われている。
短冊などを笹に飾る風習は、夏越の大祓に設置される茅の輪の両脇の笹竹に因んで江戸時代から始まったもので、日本以外では見られない。
「たなばたさま」の楽曲にある五色の短冊の五色は、五行説にあてはめた五色で、緑・紅・黄・白・黒をいう。
中国では五色の短冊ではなく、五色の糸をつるす。
さらに、上記乞巧奠は技芸の上達を祈る祭であるために、短冊に書いてご利益のある願い事は芸事であるとされる。

また、お盆や施餓鬼法要で用いる佛教の五色の施餓鬼幡からも短冊は影響を強く受けている。

イモの葉の露で墨をすると習字が上達するといい、7枚のカジ(梶)の葉に歌を書いてたむける。
藤原俊成女の歌に「たなばたのとわたるふねの梶の葉にいくあきかきつ露のたまづさ」とある。

このようにして作られた笹を7月6日に飾り、さらに海岸地域では翌7日未明に海に流すことが一般的な風習である。
しかし、近年では飾り付けにプラスチック製の物を使用することがあり海に流すことは少なくなった。
地区によっては川を跨ぐ橋の上に飾り付けを行っているところもある。

地域によっては雨乞いや虫送りの行事と融合したものが見られる。

北海道では七夕の日に「ローソクもらい(ローソク出せ)」という子供たちの行事が行われる。

仙台市などでは七夕の日に素麺を食べる。
食べる理由については、中国の故事に由来する説のほか、そうめんの麺を糸に見立て、織姫のように裁縫が上手くなることを願うという説もある。

近年の台湾では、バレンタインデーと同様に男女がプレゼントを交換する日とされている。

他方、商店街などのイベントとしての「七夕まつり」は、一般的に昼間に華麗な七夕飾りを通りに並べ、観光客や買い物客を呼び込む装置として利用されている。
従って、上記のような夜間の風習や神事などをあまり重視していないことが多い。
イベントとしての「七夕まつり」については次の項を参照。

日本の七夕祭り

神宮司庁発行の『古事類苑』歳時部・七夕によると、延喜式の織女祭を起源とする。
のち、七夕祭りと表される。

平安時代には宮中や貴族の間で乞巧奠の祭りが盛んに行われていた。
当時の様式は、現在でも冷泉家において継承されている。

貞享4年(1687年)刊行の藤田理兵衛の『江戸鹿子』(えどかのこ)には、「七夕祭、江戸中子供、短冊七夕ニ奉ル」とある。
その他、喜多川守貞の『守貞謾稿』にも、「七月七日、今夜を七夕という、今世、大坂ニテハ、・・・太鼓など打ちて終日遊ぶこと也。江戸ニテハ、・・・・青竹ニ短冊色紙ヲ付ケ、高ク屋上ニ建ルコト。」とある。
上記から、江戸時代中期には既に江戸で七夕祭りが始まっており、江戸時代末期には大坂でも盛んになっている様子が窺える。

その他、喜多村筠庭の『喜遊笑覧』には「江戸にて近ごろ文政十二年の頃より」、『諸事留』には「天保十二年六月、例年七月七夕祭と唱」とある。
さらに、斎藤月岑の『東都歳時記』には「七月六日、今朝未明より」、屋代弘賢の『古今要覧稿』には「たなばた祭、延喜式、七月七日織女祭と見えたるを初とせり」とある。

各地の「七夕祭り」のうち、戦後に始まったものの多くは仙台七夕をモデルとしている。
しかし、1873年(明治6年)の太陽暦採用を境にして年々この風習は廃れ、第一次世界大戦後の不景気以降はそれに拍車がかかった。
このような事態を憂えた商店街の有志により、1927年に大規模に飾りつけが行われた。
すると、大勢の見物客で商店街は賑わった。
これ以降、「七夕祭り」が集客力のある商店街イベントとして認知され、現在では都市イベントとなるまで発展している。
飾りつけに見られるくす玉も、仙台七夕が発祥である。

「七夕祭り」は、神輿や山車を用いる祭りと異なり、、商店街との親和性が高いイベントである。
それは、飾り付けを前日までに終えれば祭り当日に人的に借り出しがなされず、商店前の通行規制も少ないため、商店街の機能を低下させることなく買物客を集められるからである。
そのため成功例の仙台七夕を模範に、戦後の復興期以降、商店街イベントとしての「七夕祭り」が東日本を中心に日本各地で開催されるようになった。
現在では都市イベントにまで発展している例も多い。

七夕飾りによる昼間の商店街イベントと夜の花火という組み合わせがよく見受けられる。
2001年から始まった松坂七夕まつりのように、商店街イベントではなく、河畔で行われるステージと花火による地域イベントを「七夕祭り」とする例もある。

旧暦・月遅れに行う地域

秋田県湯沢市(七夕絵どうろうまつり)浮世絵美人が描かれた数百の絵どうろうを特色とする、約300年の伝統をもつ七夕。

宮城県仙台市(仙台七夕は東北三大祭りの1つで、全国的に最も有名な七夕祭である)

福島県いわき市(平七夕祭)旧平 (いわき市)地域

茨城県水戸市(黄門祭)

茨城県土浦市(キララ祭)

群馬県桐生市(桐生八木節まつり)

埼玉県狭山市(狭山入間川七夕まつり)

埼玉県小川町(小川町七夕まつり)

埼玉県ふじみ野市(上福岡七夕まつり)旧上福岡市地域。
8月第1週末の土日

千葉県茂原市(茂原七夕まつり)7月最終日曜日を最終日とする3日間

東京都杉並区()阿佐谷地域

東京都福生市(福生七夕まつり)

神奈川県相模原市()

富山県高岡市(高岡七夕まつり)中心市街地

石川県珠洲市(宝立七夕キリコ祭り)

愛知県安城市(安城七夕まつり)8月第1週末の金曜・土曜・日曜の3日間

愛知県一宮市(おりもの感謝祭一宮七夕まつり)7月最終日曜日を最終日とする4日間

三重県松阪市(松阪七夕まつり)

山口県山口市(山口七夕ちょうちんまつり)

香川県木田郡三木町(三木町いけのべ七夕まつり)

大分県大分市(大分七夕まつり)

新暦に行う地域

北海道函館市(七夕祭り)
子供たちが「竹に短冊七夕祭り、多いはいやよ、蝋燭一本頂戴な」と歌いながら蝋燭やお菓子をもらいに近くの家を訪ね歩くハロウィンのような特徴がある。

神奈川県平塚市(湘南ひらつか七夕まつり)

富山県高岡市(戸出七夕まつり)旧戸出町(戸出地区)地域 7月3日~7月7日

富山県入善町(舟見七夕まつり)

静岡県静岡市(清水七夕まつり)旧清水市(現清水区)地域

徳島県徳島市(七夕バルーンリリース)新町橋東公園(現中心市街地)地域。
7時7分7秒に、願い事を書いたバルーンを天の川へ向けてリリースする。

大阪府交野市(七夕祭)市内の神社等複数箇所で祭が行われる。
古式ゆかしい神事から、七夕の夜をろうそくの灯火で彩るイベントまで多様な内容である。

全国七夕サミット

七夕に関連したイベントを開いている自治体の代表が集まって情報交換し、課題などを討議する会。
商業的七夕祭りの他に、伝統的七夕の習慣がある都市も参加している。
開催都市は以下の通り。

第1回(1996年8月)宮城県仙台市

第2回(1997年7月)愛知県一宮市

第3回(1998年8月)富山県高岡市

第4回(2000年7月)神奈川県平塚市

第5回(2001年)石川県根上町(現能美市)

第6回(2003年8月)愛知県安城市

第7回(2004年7月)千葉県茂原市

第8回(2005年7月)愛知県一宮市

第9回(2006年8月)富山県高岡市

第10回(2007年7月)大阪府枚方市・交野市

旧暦の七夕

国立天文台では2001年から、「新暦7月7日はたいてい梅雨のさなかでなかなか星も見られない」という理由で、旧暦7月7日を「伝統的七夕」と呼び、その日の新暦での日付を広く報じている。
ただ、「旧暦」は現在は公には使われていないのに国の機関が「旧暦」で定義することはできない。
このため、「伝統的七夕」の日は、旧暦7月7日に近い日として、「24節気の処暑(しょしょ=黄道が150度になる瞬間)を含む日かそれよりも前で、処暑に最も近い朔(さく=新月)の瞬間を含む日から数えて7日目」と定義している。

国立天文台が公表している「伝統的七夕」(旧七夕)の日は次のとおり。
(日付はすべて日本中央標準時)

2006/07/31

2007/08/19

2008-08-07

2009-08-26

2010-08-16

2011-08-06

2012-08-24

以下、国立天文台では未発表だが、計算により求めた旧七夕の日付は次のとおり。

2013-08-13

2014-08-02

2015-08-20

2016-08-09

2017-08-28

2018-08-17

2019-08-07

2020-08-25

新暦の七夕における月齢

今後10年間の、グレゴリオ暦7月7日の月月齢と呼び名と天の川の見やすさを示す。
天の川の輝きは淡いため、月明かりや光害の影響があると見ることが難しい。
月齢は0が新月、7.5が上弦の月、14が満月、22.5が下弦の月である。
上弦や下弦の前後では天の川が見える時間は限られ、満月前後ではほとんど見えなくなる。

2007-07-07 月齢22 (天の川 ○)

2008-07-07 月齢4 (天の川 ◎)

2009-07-07 月齢15 (天の川 ×)

2010-07-07 月齢25 (天の川 ◎)

2011-07-07 月齢6 (天の川 ○)

2012-07-07 月齢18 (天の川 ×)

2013-07-07 月齢29 (天の川 ◎)

2014-07-07 月齢10 (天の川 △)

2015-07-07 月齢21 (天の川 △)

2016-07-07 月齢3 (天の川 ◎)

[English Translation]