上代特殊仮名遣 (Jodai Tokushu Kanazukai (ancient Japanese phonetic orthography))
上代特殊仮名遣(じょうだいとくしゅかなづかい)とは上代日本語における『古事記』・『日本書紀』・『万葉集』など上代(奈良時代頃)の万葉仮名文献に用いられた表音的仮名遣である。
定家仮名遣に先立つ古い時代の歴史的仮名遣ともされる。
名称は国語学者橋本進吉の論文「上代の文献に存する特殊の仮名遣と当時の語法」に由来する。
単に「上代仮名」とも呼ばれる。
概要
現代日本語の50音のうち、イ段のキ・ヒ・ミ、エ段のケ・へ・メ、オ段のコ・ソ・ト・ノ・(モ)・ヨ・ロ及びエの14音について奈良時代以前の上代には甲類と乙類の万葉仮名の書き分けが見られ、両者は厳格に区別されていたことがわかっている。
ただし、モの区別は『古事記』のみに見られる。
またエはア行とヤ行に分けられていた。
なお、甲乙の区別は濁音のギ・ビ・ゲ・ベ・ゴ・ゾ・ドにもある。
甲乙の差異については、例えば「き」を表す万葉仮名は支・吉・峡・来・棄などの漢字が甲類の「き」とされ、「秋」や「君」「時」「聞く」の「き」を表していた。
そして己・紀・記・忌・氣などが乙類の「き」とされ、「霧」「岸」「月」「木」などの「き」を表している。
上代の文献では全体にわたってこのように整然たる仮名の使い分けが見られ、一部の例外を除いて甲乙の混同は見られず両者は厳然と区別されていた。
こうした甲乙の区別は、上代においては母音がアイウエオの5音の他にイエオのみ甲乙の2種類に分かれ、8母音であったことから生じたという音韻による区別の説が立てられた。
すなわち、上代日本語は50音でなく87音(あるいは88音)あったと考えられたのである。
そして、平安時代以降になってそのような区別が薄れたため、一つに統合されていったと考えるのである。
ただし、実際の音価については不明な点も多く、また音素として別だったかについても異論がある。
上代特殊仮名遣が用いられていた当時はまだ「かな」が発達していなかったため、これを表現する仮名文字はヤ行のエを除いて存在しない。
そのため、文字上で甲乙の区別をする必要がある時は傍線や片仮名化、ローマ字のウムラウトなどで対応している。
特殊仮名遣の発見
本居宣長・石塚龍麿
上代特殊仮名遣はまず本居宣長によって研究の端緒が開かれた。
宣長の浩瀚な『古事記』の註釈書、『古事記伝』には、第一巻の「仮字の事」ですでに「同じ音の中でも、言葉に応じてそれぞれに当てる仮字が使い分けられている」ことが指摘されている。
ただしその指摘はまだ一部に限られており、この宣長の着想をさらに発展させたのが彼の門弟・石塚龍麿による『仮名遣奥山路』(1798年頃発表)である。
これは万葉仮名の使われた『古事記』・『日本書紀』・『万葉集』について、その用字を調査したものである。
この中で石塚は万葉仮名においてはエ・キ・ケ・コ・ソ・ト・ノ・ヒ・ヘ・ミ・メ・ヨ・ロ・チ・モの15種について用字に使い分けがあると結論づけた。
しかし、当時は本文の信憑性に関する批評が盛んでなく、調査に使われたテキストに誤記が含まれていた。
また、仮名 (文字)の使い分けが音韻の違いに結びつくという結論付けがなされていなかったこともあり、注目を集めることはなかった。
8母音説
橋本進吉
宣長・石塚によるこの研究は長く評価されずに埋もれていたが橋本進吉によって再発見され、1917年、「帝国文学」に発表された論文「国語仮名遣研究史の一発見――石塚龍麿の仮名遣奥山路について――」で学会に評価されるようになった。
なお橋本以後の研究では石塚竜麿が指摘したチの使い分けを認めていない。
エ・キ・ケ・コ・ソ・ト・ノ・ヒ・ヘ・ミ・メ・ヨ・ロ・モの14種および濁音がある場合はその濁音を古代特有の使い分けと見なしている。
この使い分けに橋本は「上代特殊仮名遣」と命名した。
なお、モの使い分けは古事記にのみ見られるものである。
橋本は甲乙の音価の違いについて、甲音は現在のものと同じ音i, e, oとし、乙音をï, ë, öと推定した。
有坂秀世と「有坂の法則」
有坂秀世は1934年の論文「古代日本語における音節結合の法則」で、上代特殊仮名遣いに関する次のような法則を発表した。
オ列甲類音とオ列乙類音とは、同一結合単位内に共存することはない。
ウ列音とオ列乙類音とは、同一結合単位内に共存することが少ない。
特に2音節の結合単位については例外がない。
ア列音とオ列乙類音とは、同一結合単位内に共存することが少ない。
実際にこの法則が発表されたのは1932年の論文「古事記におけるモの仮名の用法について」であるが、彼がこれに強い確信を持って発表したのは前述の論文である。
これは有坂の法則と呼ばれた。
母音同士が共存しやすいグループを作り、互いに同グループの母音と共存しやすく他グループの母音とは共存しにくいという傾向はトルコ語などに見られる「母音調和」現象の名残とされた。
また、有坂の法則は日本語がアルタイ語族であることの一つの証左であるとされたりした。
橋本・有坂によるこれらの研究により上代特殊仮名遣は国語学における定説となった。
いわゆる古史古伝の竹内文書などに使用されている神代文字も「上代には8母音あったはずなのに、なぜか5母音のままで上代の仮名遣いに配慮していない」ということから、そうした仮名遣いの区別がなくなった後世の偽書として否定した。
これに関連し橋本は1942年、竹内文書第二次天津教弾圧事件裁判の際検察側の証人として出廷した。
8母音説への反論
松本克己
古代日本語8母音説は広く受け入れられ半ば定説となっていたが、昭和50年代に入りこれに異を唱える学説が相次いで登場する。
その端緒が松本克己の「古代日本語母音組織考 -内的再建の試み-」である。
内的再構とは、一つの言語の言語史を他言語との比較からのみ考えるのではなく、その言語内の共時態の研究を通じて求めていこうとするアプローチである。
松本は有坂の音節結合の法則について、「同一結合単位」という概念の曖昧さを指摘した上で甲乙2種の使い分けがある母音だけではなく全ての母音について結合の法則性を追求すべきだとした。
そして、1965年の福田良輔の研究をもとに母音を3グループに分けて検証を行なった。
その結果、従来甲乙2種の使い分けがあるとされてきた母音は相補的な分布を示すなどしており、母音の使い分けを行なっていたわけではなく音韻的には同一であったとした。
松本はギリシア語での/k/の表記を引き合いに出し、/k/についてkとqの二種類の文字が使われていたからと言ってそれがギリシア語で2種の子音が意図的に使い分けられていたという事実を示すわけではないことを挙げた。
同様に上代特殊仮名遣いについても使い分けがそのまま当時の母音体系を正確に表したものではないことを指摘した。
その上で松本は日本語の母音の変遷について、下記のような変遷を辿ったとした。
i, a, u の3母音
i, a ~ o, u の4母音
i, e, Ï, a, o, u の6母音
現在の5母音
そして、上代日本語の母音体系は現代と同じ5母音であったと結論づけた。
森重敏
松本克己の論文の発表は1975年3月であるが、それと時を同じくして同年9月、森重敏は「上代特殊仮名遣とは何か」を発表し、松本とは別の観点から上代特殊仮名遣の8母音説に異議を唱えた。
発表は9月であるがこれが執筆されたのは同年2月であり、「定説」であった8母音説に対する反論がほぼ同じ時期に執筆されたことになる。
まず森重は、体言において感嘆の際にいかなる助詞も付けないで単語がそのままで使われる時、助詞の代わりのような役目で単語の音韻そのものを「イ」音を加重させることがあると説いた。
すなわち、「花」であればそれが「花よ」という形を取るのではなく「ハナィ」あるいは「ハィナ」「ハィナィ」と、母音そのものに「イ」を付け加えることによって表現することがあるというのである。
ここからア段音にイを加重させたものがエに、ウ段音にイを加重させたものがイに、オ段音にイを加重させたものがオになり、それぞれ乙類と呼ばれる音になったというのが森重説の要旨である。
森重説でも最終的に日本語の母音体系は5母音であったとしている。
すなわち、万葉仮名に見られる用字の使い分けは渡来人が日本語にとって不必要であった音声の違いを音韻として読み取ってしまったものだとするものである。
森重はそれをあたかもヘボン式ローマ字が日本語にとって必ずしも必要な聞き分けでないsh, ch, ts, fなどを聞き取ったことになぞらえた。
また、上代特殊仮名遣い中「コ」音のみが平安初期にまで残ったにもかかわらず、ひらがなにその使い分けが存在しなかったことなどを傍証として挙げている。
新説を巡る論争
この時期を同じくした新しい論に対しては多数の反論が展開され、1970年(?)12月から翌年1月にかけては毎日新聞紙上においてこの説を巡って4回にわたって議論が繰り広げられた。
中でも激しい論争が繰り広げられたのは『言語』誌上である。
1976年の6号の特集「母音調和を探る」には六母音説を主張する服部四郎の「上代日本語の母音体系と母音調和」と松本の「日本語の母音組織」が並んで掲載され、互いの説を批判し合うという体裁が採られた。
さらに8月号では大野晋が「上代日本語の母音体系」で両論を紹介し、持論を展開した他、11月号では松本が「万葉仮名のオ列甲乙について」で、12月には服部が「上代日本語の母音音素は六つであって八つではない」で互いに再反論した。
1981年には森博達が「唐代北方音と上代日本語の母音評価」でエ段以外の甲乙に差があることを認める7母音説を発表するとともに、唐代北方音と切韻を利用した具体的音価の推定を試みた。
これに対しては『国語学』誌上で平山久雄との間で「森博達氏の日本書紀α群原音依拠説について」「平山久雄氏に答え再び日本書紀α群原音依拠説を論証す」「森博達氏の日本書紀α群原音依拠説について、再論」という論争が行われている。
最近は従来の説を根本から覆すような論は発表されていないが、だからといって上代母音についての結論が出たわけではない。
上代にはいくつの母音が実際に存在したのか、その具体的な音価は何か、なぜイ段・エ段・オ段の一部のみに使い分けが見られるのかなどについて、今後も様々な分野からのアプローチが待たれている。