九十九髪茄子 (Tsukumo Nasu (tea caddy from China))

九十九髪茄子(つくもなす)は、室町幕府の三代将軍の足利義満の秘蔵の唐物茶入。
その後、松永久秀に渡った。
そして、現在は東京の静嘉堂文庫美術館に保存されている。
松永茄子、九十九髪、九十九茄子、作物茄子、付藻茄子などとも呼ばれている。
また天下三茄子の一つに入り、その中でも最も高い評価を得ている。

由来

伊勢物語には、「百年(ももとせ)に一とせ足らぬ九十九髪 我を恋ふらし俤(おもかげ)にみゆ」と記録されている。
なぜ、「九十九」という文字を当てるのかというのかというと、本当は、「つくも」と読むのではなく「つつも」というべきものを誤ったもの。
「つつも」は、ものの満ち足らないことを言い、百に一満たないから「九十九」とかく。
ちなみに「白」の字は「百」から一を減らしたものであるから、九十九髪と書けば白髪という意味になる。

松永久秀までの経路

九十九髪茄子は足利義満の唐物茶入れである。
そして、義満は戦場に行くときも携えていたと言われる。
高さ二寸二分 (数)(約6cm)、胴の幅二寸四分五厘(約7cm)廻り七寸六分(約23cm)。
抹茶の茶入れとしてはやや大きい。
その後、代々足利将軍家に伝わって愛用された。
八代将軍の足利義政の時、寵臣の山名政豊に与えられた。
しかし、15世紀末になって義政の茶道の師である村田珠光の手に渡る
このとき珠光が九十九貫で買ったことから、「つくも」という名前になった。
その後持ち主は転々と変わり、同時に値も上がっていった。
朝倉宗滴が入手したときは五百貫の値がついている。
朝倉はその後京都の豪商の袋屋に預けた。
これは越前国の戦乱を避けるためという説と、仕覆を作らせるためという説の二つがある。
ところが天文 (元号)5年3月、京都で天文法華の乱が起こり、京都法華宗二十一本山は壊滅してしまう。
天文16年頃、やっと法華宗徒が京都へ出入り出来るようになった。
しかし、その時にはすでに本圀寺の有力壇越の松永久秀の手に渡っていた。
詳しい経路は不明だが、一千貫を費やして買ったとされる。

名器九十九髪茄子

久秀が所持した頃は、当時の茶道の垂涎の的となっていた。
ルイス・フロイスの記録にも登場している。
だが、足利義昭を擁して来た織田信長に要求されるとなす術もなく九十九髪茄子を献上た。
そして、久秀は信長の配下になった。
九十九髪茄子は信長のお気に入りにもなった。
そして、天正10年5月に供を連れて上洛した時も携えている。
本能寺の変のときも信長の側にあり、この時に灰燼に帰したという説がある。
また焼け跡から発見されて豊臣秀吉が入手し、子の豊臣秀頼に渡って大坂城で保管されていたという説もある。
しかし、大坂の役で再び戦火にさらさた。
徳川家康の命令によって焼け跡から探し出されたが、かなり破損していた。
そのため、藤重藤厳という漆塗りの名工に修理のため預けられた。
そして、そのまま東照大権宮拝領の家宝として藤重家が伝えた。
明治になって三菱財閥、岩崎弥之助の所有となった。
この時、弥之助は兄から借金をしてまで買ったという。
現在は東京の美術館で展示されている。
釉と見られる景色等の表面を覆う部分はほぼ漆による修復であると、X線調査で判明している。

[English Translation]