京焼 (Kyo-yaki (Kyoto pottery))
京焼(きょうやき)は日本の陶磁器の一種。
粟田口焼、御室焼など京都で作られる作品の総称となっている。
一度焼成した後に上絵付けを施す上絵付けの技法を用いた陶器が多く、作家ごとの個性が強いのが特徴。
京焼の始まり
近年の研究では、慶長初頭の1590年代末には京焼の生産が始まっていたと考えられている。
この頃の作品については不明な点が多いが、低温で焼成し、鉛を含む釉薬が使用されていて、技法やデザインが多様なことが特徴である。
この時期以前の京都は三条付近に陶磁器の問屋が集中していたものの、本格的な生産は行われていない。
ただし、天正以前の16世紀中頃には三彩や交趾焼などの技術を持った中国人陶工およびその後継者達が製陶を開始していた。
緑、紫、紺、黄など寒色系の釉薬が特徴で、押小路焼のルーツとなったと考えられている。
色絵陶器の成立
17世紀に入ると、茶道の興隆に伴って茶碗、茶入など茶陶の製造が盛んになった。
具体的には、瀬戸焼、美濃焼や唐津焼の職人とその技法をベースとして高麗茶碗の写しなどが作られている。
また、この頃に黒谷土と呼ばれる製陶に適した原料土が地元の山城国で発見されたことも陶磁器の生産の助けとなった。
京焼の中で最古の部類に入る粟田口焼(粟田焼)は、寛永には粟田口で生産を行なっていた。
ここでは中国の茶器の写しや天目茶碗が作られた。
同時期では、八坂焼は1640年、清水焼は1643年までには存在が確認されている。
これに続いて御室焼、御菩薩池焼、修学院焼なども作られた。
このような中、慶安3年(1650年)5月25日_(旧暦)に金森宗和が参加した茶会に関する記述の中で、絵付を施した御室焼の登場が確認されている。
さらに翌年か翌々年には赤色系の上絵付を施した御室焼が野々村仁清によって初めて作られた。
調合・焼成の困難な赤色系の絵付を17世紀に成功させたのは、磁器を国内で初めて製作した有田焼以外ではこれが唯一の例であり、かつ陶器では国内初であった。
18世紀以降
野々村仁清の死後、跡を継いだ息子は技量が及ばず製陶から手を引いた。
しかし仁清から直接技法を学んだ尾形乾山は優れた作品を多く残した。
また、永樂了全より後の永樂家は永樂保全、永樂和全など優れた陶工を輩出し、千家に作品を納めて今日に至る。
技術的にも重要な存在としては奥田頴川が挙げられる。
頴川は京焼として初めて磁器を製作し、この後を受けて青木木米や仁阿弥道八らも磁器の作品を多く残した。
明治維新後は体制や文化の変化に伴って茶陶の需要が激減し、廃業した者も多い。
また、陶工の一部は日本陶器(現・ノリタケカンパニーリミテド)のような企業組織に入っていき、その技術を支えた。