京都サンガf.c (F.C. Kyoto Sanga)
京都サンガF.C.(きょうとサンガエフシー、Kyoto Sanga FC)は、日本の京都市にホームを置く、日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)に加盟するプロサッカークラブ。
1922年-1995年(発足からジャパンフットボールリーグ時代まで)
前身は1922年設立の京都紫光クラブ(設立時の名称は紫郊クラブ)でJリーグ所属のチームとしては日本最古。
1993年に「教育研究社FC京都パープルサンガ」(翌1994年にサンガの練習生を中心に結成したチーム「FC京都BAMB1993を分離)とアマチュアの「京都紫光クラブ」に分割した。
同じく1993年には日本初のプロサッカーリーグ・Jリーグが開幕し、日本中が空前のJリーグブームに沸き上がった。
その中で「京都にもJリーグチームを」という声が高まり、「京都にJリーグを市民の会」が約25万人の署名を集めた。
それを受け、翌1994年1月に京セラ・任天堂を中心とした地元企業出資による運営会社「株式会社京セラパープルサンガ」設立、同年7月にはJリーグ準加盟制度の承認を受け、京都をホームタウンとするJリーグチーム誕生の準備が整った。
翌1995年シーズンのジャパンフットボールリーグで2位となり、1996年シーズンからのJリーグ昇格が決定した。
1996年-2000年(Jリーグ1年目から最初の降格まで)
Jリーグ参入にあたって大野俊三 (サッカー選手)や佐藤慶明といったJリーグ経験者を補強し、満を持して迎えた1996年の開幕戦。
当時黄金時代を迎えていた東京ヴェルディと対戦し1-0で敗れはしたものの、試合内容は将来への期待を抱かせるものだった。
しかしそういった期待とは逆にチームは次々と負けを重ね、ついにシーズン開幕後17連敗という不名誉な記録をつくってしまい、ジョゼ・オスカー・ベルナルディ監督もシーズン途中で解任された。
そんなチームを救うべく、5月にはラモス瑠偉がヴェルディから電撃移籍。
後を追うように移籍してきた同じヴェルディの藤吉信次や山口貴之とともにチームを活気づけた。
ラモス効果もあってか、後半戦は8勝7敗と勝ち越した。
1997年はペドロ・ローシャ監督を招聘し心機一転をはかったが、カルロス・アルベルト・デ・オリベイラ・クレーベル・エドゥアルド・アラードの両外国人選手が期待はずれに終わり、追い討ちをかけるように精神的支柱だったラモスが退団してチームは空中分解。
最下位こそまぬがれたものの順位以上に寂しさの残るシーズンとなった。
西田吉洋がサッカー日本代表候補に選ばれたことが唯一の明るいニュースだったといえる。
1998年のシーズン前、元日本代表監督のハンス・オフトを監督に迎え、さらには森保一、岩本輝雄、山田隆裕、黒崎久志といった日本代表経験者を次々と獲得し話題となった。
しかし派手な補強とは逆に、相変わらずチームは下位に低迷し、オフト監督も6月には早々と退任した。
清水秀彦監督体制で迎えた2ndステージこそ勝ち越したが、横浜フリューゲルスの消滅でようやくJ1参入決定戦をまぬがれるという有様だった。
翌1999年は1stステージこそ低迷したが、やはり元日本代表監督の加茂周を監督に迎え、クロアチア帰りの三浦知良を獲得した2ndステージは9位と、Jリーグ昇格後初の1桁順位となった。
しかし、他チームから有力選手を獲得して場当たり的にチーム強化を図っていたツケがとうとう2000年になって回ってきた。
この年に年間成績が16チーム中15位となり、ついにJ2に降格した。
2001年-2004年(1年でのJ1昇格とつかの間の黄金時代)
このことを契機に強化手法を変え、若手主体のチーム作りに転換する。
そのことが功を奏し、2001年シーズンは黒部光昭や松井大輔、朴智星といった若い力が台頭しJ2で優勝、1年でのJ1復帰を果たした。
黒部はこの年に30得点を挙げ、J2得点ランキング第2位となっている。
再びJ1で戦うこととなった2002年は、開幕直後こそ4連敗するものの、ゲルト・エンゲルス監督のもと、黒部をはじめとする前述の3選手に加えて平井直人、角田誠といった下部組織出身の選手も活躍、J1残留どころか堂々のリーグ戦年間順位5位となる。
そして天皇杯全日本サッカー選手権大会では10冠を目前とした鹿島アントラーズを破り、関西チームにJリーグ発足後初のタイトルをもたらした。
若手主体のチーム作りが、ここに実を結ぶかたちとなった。
しかし、黄金時代は長くは続かなかった。
チームの攻撃の要だった朴智星を失った2003年シーズンは大黒柱黒部光昭の故障に始まり、朴智星の後釜として期待された大韓民国のファンタジスタ高宗秀は全くの期待はずれと、昨年の躍進ぶりが嘘のように勝ち星をあげられなかった。
若い松井大輔一人ではこの局面を打開できずエンゲルス監督、そして後任のピム・ファーベーク監督も早々と解任されるなどチームは迷走した。
結局年間成績で最下位となり、2度目のJ2降格が決定した。
1年でJ1昇格を目標として迎えた2004年シーズンはジェフユナイテッド市原・千葉から崔龍洙を獲得。
西村昭宏(前セレッソ大阪GM)を監督に迎え、黒部・松井も残留し昇格は間違いなしというのが大方の予想だった。
しかし、序盤戦から勝利に恵まれず、西村監督は途中で解任。
その後、地元京都出身の柱谷幸一を監督に迎えるも、黒部が怪我がちで満足に活躍できなかったこともあり5位に終わった。
2005年-2009年(昇格・降格の繰り返し)
2005年シーズンは柱谷監督が続投。
星大輔、米田兼一郎、加藤大志といったライバルチームの主力を獲得し、パウロ・アントニオ・デ・オリベイラ、カルロス・アドリアーノ・デ・ジョス・ソアレスの両外国人助っ人が得点を量産し、圧倒的な強さで序盤から首位を独走。
7試合を残して2位以内を確定させ、2シーズンぶりのJ1復帰が決定した。
第39節には通算2回目の優勝を決め、最終節に勝利すれば、2004年の川崎フロンターレに次いでシーズン勝点100以上を達成となったが、1-2でヴァンフォーレ甲府に敗れ、達成には至らなかった。
J2ダントツの得点力、J2最小失点の堅守を見せ付けただけに、3年ぶりのJ1では奮起が期待された。
だがシーズン開幕からなかなか波に乗り切れず下位に低迷。
シーズン中に角田誠、手島和希(ともに復帰)らを補強するも降格圏内を彷徨っていた。
10月にはついに柱谷幸一監督が成績不振を理由に解任され、美濃部直彦ヘッドコーチが新監督に就任した。
しかし、3バックを採用するなどのテコ入れをはかった美濃部体制でも悪い流れを変えることはできなかった。
11月26日、ガンバ大阪に敗れ18位(最下位)が決まり、J2降格が決定した。
3度J2に降格したのは史上初である。
2007年2月からはクラブの正式名称が京都パープルサンガから京都サンガF.C.に、愛称が京都サンガになる。
これに併せて新しいエンブレムも制定された。
チームカラーはこれまで通り紫である。
2006年にJ1ワーストの74失点を喫したディフェンスを立て直すため、元日本代表DF秋田豊、森岡隆三を獲得。
さらにヴァンフォーレ甲府から倉貫一毅を、アビスパ福岡から平島崇を獲得した。
主力も軒並み残留し、1年でのJ1復帰を目指すシーズンとなった。
開幕から大きな連勝はしないものの1度の連敗もなく安定して勝ち点を積み重ね、第44節終了時点で暫定3位と昇格圏内につけていた。
だが10月13日に突然美濃部監督の解任と加藤久総監督の監督就任が発表された。
その後最終節まで自動昇格の可能性を残していたものの、3位で終了。
サンフレッチェ広島とのJ1・J2入れ替え戦の結果、2008年のJ1復帰を決めた。
その昇格もあり、当初は残り7試合限定(最終的には、入れ替え戦と合わせて9試合)の暫定監督扱いとして招聘した加藤久総監督の来季留任も決定した。
2008年のシーズンは前回の昇格時の反省を踏まえ、積極的な補強を敢行した。
柏レイソルからGK水谷雄一、ガンバ大阪から9シーズンぶりのサンガ復帰となるDFシジクレイ、FC東京からレンタル移籍でDF増嶋竜也、ジェフユナイテッド市原・千葉からMF佐藤勇人、鹿島アントラーズからFW柳沢敦と、各ポジションで実力者を獲得し、2年ぶりのJ1に臨んだ。
シーズン途中にも、ディフェンス安定のため、ガンバ大阪からDF水本裕貴、怪我で長期離脱(登録抹消)したFWパウリーニョの穴を埋めるため、清水エスパルスからFWフェルナンジーニョを獲得した。
その補強もあり、2008年11月30日の大宮アルディージャ戦に引き分け、J1残留という最低限の目標を達成した。
最終節の清水エスパルス戦には敗れたものの、14位で2008シーズンを終えた。
2009年シーズンも積極的な補強をした。
北京五輪代表の豊田陽平や東京ヴェルディのディエゴ・デ・ソウザ・ガマ・シルバ、サッカー大韓民国代表の李正秀などの実力者を獲得。
レンタル移籍だった増嶋竜也を完全移籍で獲得。
昨年怪我でシーズン途中に登録抹消されたパウリーニョも復帰した。
クラブ名の変遷
1922年-1953年 京都紫郊クラブ
1954年-1992年 京都紫光クラブ(現在もアマチュアクラブとして存続)
1993年 教育研究社FC京都パープルサンガ
1994年-2006年 京都パープルサンガ
2007年- 京都サンガF.C.
なお、サンガとはサンスクリットで「仲間・群れ」を表す(samgha)。
(ちなみに漢字では僧伽(そうぎゃ)と書き、後に現在での僧へと変化した。)
京都紫光クラブのパープルとサンガを組み合わせて京都パープルサンガというチーム名がつけられた。
今後の展望
今後の課題としては、J1での活躍は勿論の事、クラブとしてだけでなく、地元・京都との関係の再構築が挙げられる。
かつて柱谷元監督は、退任時に地元はじめ周囲の冷淡さを皮肉って「京都人は一流を好む」という談話を残して去っていった。
このような現状にクラブとしても手をこまねいていたわけではなく、サッカースクール開催、京都まつりをはじめ京都市内各行政区における区民まつり(行政区によって「ふれあいまつり」等名称が異なる)への選手の参加、京の台所・錦市場での新ユニフォーム発表会などを行うなど、地域密着への努力を続けた。
これが功を奏し、2008年シーズンでは比較的に天候にも恵まれ、また最終的にJ1に残留したことから、1試合辺りの平均観客動員数は13000人超(鴨池での主催試合を入れて)を記録。
2008年昇格以降は地元企業などとのキャンペーン企画も数多く行っている。
また西京極スタジアム場外エリアをフレンズスクエアと称して観客の再入場を可能にし、選手の撮影会やイベントを行ったり飲食屋台なども出店して、観客動員増加の為に様々な取り組みをしている。
マスコミの注目・アピール度の面では、地元紙の京都新聞が試合前日ないしは前々日に予想フォーメーションや試合予想、監督談話や選手のコメントをスポーツ欄のうち1面を使用して掲載している。
また地元独立系放送局のKBS京都がJリーグ全クラブで唯一ホーム全試合を地上派で中継または生中継しており、その充実度は他の追随を許さない。
スカパーの中継においても京都サンガに縁の深い解説者やピッチレポーターを協力として送り込み、そのアクの強いキャラでホームアドバンテージを獲得している。
以前は在阪スポーツ紙のサッカー欄での扱いがあまり良くなかったが、柳沢加入や宮吉の登場以後それもかなり改善されている。
NHK京都放送局、KBS京都、京都新聞などの地元メディアによるサポートは揺ぎ無いものがある。
ホームスタジアムの京都市西京極総合運動公園陸上競技場兼球技場は、陸上競技用トラックがフィールドと観客を隔てる構造上の問題を有し、また、敷地の狭さからこれ以上の拡張が難しいため、かねてから専用スタジアムの建設が熱望されてきた。
しかし、当初検討された、京都市横大路運動公園の敷地利用計画は、交通アクセスや建設予算他の問題から、2006年6月26日、「サッカースタジアム検討委員会」(委員長=松山靖史・京商京都スポーツ振興特別委員長)が「整備は困難」と最終報告書を公表。
今後は西京極陸上競技場の改修を軸に検討が進むこととなった。
2006年、2007年にはJリーグクラブの収支報告によって、収入の広告費依存が非常に大きいことが明らかになり、スポンサー各社に支えられて高給選手を維持できているのが現状といえる。
(2006年の全収入中63%を広告費に依存しているというのは川崎と並んでJリーグの中で突出しており、1観客数あたりの広告費は川崎をも大きく超えている。)
この改善の為クラブは2009年シーズンにチケットの値上げを敢行した。
賛否両論あったが、クラブの収入構造を変えていく為にはやむを得ないという説明が、シーズン前のサポーターカンファレンスの中でなされた。
下部組織(育成組織)としては、中学年代のU-15、高校年代のU-18が存在しており、共に過去に全国優勝を果たし、数多くの選手を輩出している。
以前は専用練習場も照明設備も無く、選手は近隣の太陽が丘などを使用していたので、柱谷元監督がサンフレッチェ広島のユースチームと地元高校の連携を例に挙げて育成組織の改善をクラブ幹部に熱意を持って訴えた。
その結果、スカラーアスリートプロジェクトという日本で他に類を見ない、産の京セラ、学の学校法人立命館、民の京都サンガF.C.が手を組み世界に通用する優れた人材を育成する計画が実現されることとなった。
これは、高校年代の生徒が勉学は立命館宇治高校で、サッカーの練習はサンガタウン城陽の育成組織専用の人工芝グラウンド(照明完備)で行い、京都サンガF.C.が建設した寮で生活するというもの。
学費は立命館が、寮費食費は京都サンガF.C.が全面的に負担する。
2006年度からそのプロジェクトが始まり、初めてスカラー生が3年生になった2008年度は残念ながらトップ昇格はなかったが、全員が立命館大学に進学した。
2009年度は東京ヴェルディや名古屋グランパスの下部組織で実績を積んだ菅澤大我をU-18の新監督に迎え育成組織により力を入れていくものと思われる。
ホームスタジアム
1996年のJリーグ昇格以降、ホームゲームはほぼすべて西京極陸上競技場で行われている。
鹿児島県立鴨池運動公園陸上競技場でも、年間2~3試合ホームゲームを行うのが毎年恒例となっている(これは京セラの国分工場が霧島市=旧国分市に所在しているためで、国分市陸上競技場でもキャンプやプレシーズンマッチを開催している)。
かつては石川県西部緑地公園陸上競技場や富山県総合運動公園陸上競技場、鳥取市営サッカー場、岡山県総合グラウンド陸上競技場、高知県立春野総合運動公園陸上競技場、熊本市水前寺競技場でホームゲームを開催したこともある。
2007年はテクノポート福井スタジアムでもホームゲームを開催した。
1996年、本来ガンバ大阪のホームスタジアムである万博記念競技場で1試合ホームゲームを行っている(詳細はエピソード及びJリーグの試合中止例を参照)。
ジャパンフットボールリーグ時代は西京極以外に京都市宝が池公園運動施設球技場や京都府立山城総合運動公園、皇子山陸上競技場でもホームゲームを行っていた。
練習場
1998年にオープンした専用練習場サンガタウン城陽が京都府城陽市にある。
3面のフットサルコートもあり、一般でも予約してコートを借りることができる。
1997年までは滋賀県東近江市(当時は八日市市)にある京セラ八日市総合グラウンドを練習場としていた。
マスコットキャラクター
パーサくんとコトノちゃん。
共に鳳凰と不死鳥をモチーフとしている。
エピソード
Jリーグ初の試合中止
1996年8月14日、ナビスコカップ・対柏レイソル戦(大分市営陸上競技場=サンガのホームゲーム)が台風のため中止となった。
雨天でも原則として試合が行われるJリーグにおいて、公式戦が中止となった初めてのケースである。
Jリーグの試合中止例も参照のこと。
他クラブのホームスタジアムでホームゲーム
そのレイソル戦の代替試合は同年8月24日に開催されたが、本来ガンバ大阪のホームスタジアムである万博記念競技場を使用した。
当時は本来のホームスタジアムである西京極が芝生の張替え工事のために使用できなかったため、やむを得ずガンバの許可を得て万博で開催することになったものである。
同様の事例に1994年6月11日の横浜F・マリノス-横浜フリューゲルス戦の横浜ダービー(平塚競技場=湘南ベルマーレのホームスタジアム)がある。
横浜フリューゲルスとの縁
1998年に横浜フリューゲルスが消滅した際、選手6人・コーチ1人・スタッフ1人がサンガに移籍している。
それ以前からフリューゲルス出身選手が3人いたため、1999年開幕時点のサンガには実に11人ものフリューゲルス出身コーチ・選手・スタッフが所属していた。
同時期にフリューゲルスから本来の合併相手である横浜F・マリノスに移籍した選手は6人であり、「どっちが『F』なのか分からない」とからかう向きもあった。
こういった背景も手伝い、サンガサポーターには元フリューゲルスサポーターも少なからずいる.
ちなみに、フリューゲルスは1998年10月にマリノスとの合併が公になった後、その後の公式戦で全勝し、最後の公式戦である天皇杯決勝にも勝利して有終の美を飾った。
ただし、合併が発表される直前のリーグ戦ではサンガと対戦しており、2-3のスコアで敗れている(1998年10月24日・鹿児島県立鴨池運動公園陸上競技場)。
つまり、フリューゲルスが公式戦で最後に負けた相手がサンガである。
それから4年が経過した2003年の元日、サンガは天皇杯全日本サッカー選手権大会優勝という初めてのタイトルを手にした。
その時に監督を務めていたのはフリューゲルス最後の監督であり、フリューゲルスにとって最後の公式戦だった1999年元日の天皇杯決勝でチームを勝利に導き、天皇杯優勝という有終の美を飾ったゲルト・エンゲルスだった。
アビスパ福岡との縁
アビスパ福岡とは4度同時に昇格、降格を経験している。
1992年 JFL2部 → 旧JFL1部
1995年 JFL → Jリーグ
2005年 J2 → J1
2006年 J1 → J2
ちなみにJ2降格が決定した時の相手が3回中2回ガンバ大阪である。
また、J2在籍時、前年度にアビスパ福岡に所属していた選手を獲得した年に昇格をしている。
2001年 石丸清隆、上野優作
2005年 米田兼一郎
2007年 平島崇
1年間同じメンバー
初めてのJ2となった2001年、3月10日の開幕から11月18日の最終戦まで選手の途中入団・退団が一切なかった。
ただ、この年に入団した元サッカーポーランド代表・ピオトル・ソーヴィシュは選手登録抹消こそされていないもののシーズン途中に帰国しており、実質的には「途中退団」はあった。
五山送り火との兼ね合い
毎年8月16日には京都の夏の風物詩・大文字五山送り火が行われる。
当日はネオンや照明灯などの灯火を自粛するよう京都市から呼びかけが行われるため、8月16日とサンガのホームゲームが重複する際は以下のような対応がとられた。
1997年のJリーグの場合
Jリーグ2ndステージ・第5節の日程が8月16日土曜日に組まれたが、サンガ-横浜マリノス戦に限っては1日早く8月15日金曜日(西京極・19時キックオフ)に開催された。
先制するも、(京都1-4横浜)逆転され敗戦。
2007年のJリーグの場合
Jリーグディビジョン2・第34節が8月16日木曜日に開催されたが、サンガ-コンサドーレ札幌戦(西京極)に限っては17時20分キックオフの薄暮開催となった。
結果、京都2-3札幌とまたも逆転され敗戦。