南方録 (Nanboroku)
南方録(なんぽうろく)は、博多の立花氏に千利休の秘伝書として伝わった古伝書である。
研究者の間で高い評価を得ていたことから、重要資料として現在の「わび茶」の概念の形成に大きな影響を与えた。
概要
書名については二説ある。
『茶経』の「茶者南方嘉木」を典拠とする場合は「なんぽうろく」となるが、著者である南坊宗啓の名であるとする場合は「なんぼうろく」と濁音になる。
なお、立花家本、円覚寺本とも題箋は「南方録」である。
現代では用字にかかわらず「なんぼうろく」と読むのが一般的である。
本書に登場する「茶道」、「露地」、「懐石料理」といった用語は、通常利休時代には用いられていなかったとされる言葉であり、これらを根拠に本書を偽書とする説もある。
著者とされている南坊宗啓は、堺市の南宗寺集雲庵の僧侶であり、利休の弟子とされているが、他の史料には登場しないことから、架空の人物である可能性も指摘されている。
現在流布している『南方録』諸本の原本である立花家本を筆写したのは立花重根であるが、現在の研究では『南方録』は実山が博多や堺で収集した資料を編纂したものであるという見解もある。
なお、この立花家本が実山により筆写されたのは元禄3年(1690年)のことであり、これは利休没後100年に当たる。
この100年という数字に作為性を読み取る研究者もいる。
全7巻の内、「覚書」から「台子」までの5巻は、貞享3年(1687年)に千家(南方録・奥書)あるいは「利休秘伝茶湯書五巻所持の人」(岐路弁疑・牒)が秘蔵していたものを書写、その後元禄3年に堺の「宗啓肉族、納屋宗雪」所持の2巻「墨引」「滅後」を書写したという。
このことにより前5巻と後2巻の成立事情が違うことが察せられ、取り扱いに際して留意すべきである。
構成と特色
全7巻であり、その構成は以下の通り。
覚書 南坊宗啓が書き留めた、利休の談話の聞書
会 利休の茶会記
棚 紹鴎棚や中央卓などの棚飾りの規則
書院 室礼の規則
台子 後述するカネワリ法(曲尺割法)による台子飾りの図集
墨引 カネワリ法を中心とした理論書であり、章題は秘伝として墨を引いて消したという意味
滅後 利休自刃後に南坊が記録した回想録
現存しない原本である南坊自筆本は、体裁としては南坊宗啓が書いた後に、利休に証明として在判(「墨引」のみは焼却するようにとの注意書き)をもらっていることになっているが(利休没後に書き足された「滅後」は除く)、実山創作説を採ると全ては実山による演出となる。
本書の特性は「わび」を強調して、これを「清浄無垢の仏世界」と規定する仏教(禅宗)中心主義の立場を明確にとっている点である。
禅宗を強調する点は利休時代の確実な秘伝書である『山上宗二記』にも見られるものの、同時代の茶書に較べると精神論の比重が際立って高く、用いている用語に関しても『禅茶録』のような江戸時代の茶書に近い。
しかし他方で「台子」や「墨引」では、書院で用いる台子の飾りに関して、「カネワリ法」と呼ばれる煩雑な規則を詳述している。
この「カネワリ法」は中国の陰陽論を基にした理論先行の体系であるが、本来は大工や工芸家が寸法の比例関係に用いていたものである。
茶の湯における「カネワリ法」の資料はこの『南方録』のほかに類例が少ない。
その発生時期からして不明であり、西山松之助によればこれが芸事に応用されるようになるのは江戸時代初期からとされている。
要するに本書には、「わび茶」と「書院の茶」という二種類の別個に自立性を持った喫茶文化が並存しているのである。
このため理論的には主張が一貫していないのである。
これはかつて利休が北向道陳から学んだ書院の茶と、武野紹鴎から学んだわび茶を止揚したという主張の根拠となっていた部分であるが、その思想の明確な違いは後述するように複数の秘伝書から編纂された痕跡と捉えることもできる。
偽書説について
偽書の可能性は最初に小宮豊隆によって提示され、堀口捨己、桑田忠親などが追随した。
その根拠は、例えば茶入が重視されていた利休時代に「掛物ほど第一の道具はなし」と記すような、当時のものとは考えられない記述が目立つ点であった。
また「会」の中にも、記録の時代には死亡している人物が登場しているなどの矛盾点が指摘されていた。
大きな転機となったのは、熊倉功夫によって「会」の分析が行われ、これが『利休茶湯書』(1680)の6巻に収録された「利休百会記」を下敷きにして脚色をほどこされた創作物であるという論証が行われたことである(熊倉功夫「『南方録』成立とその背景」/『茶湯』11号所収)。
ただし現在でも筒井紘一などが、『南方録』の正当性に関して意見を保留している。
これは『利休茶湯書』の他にも、『堺鑑』(1684)などから引用が行われた事実が確認されているためであり、その編纂に用いられたであろう資料に、現存しない利休関係の資料が含まれていた可能性は否定しきれないからである。
実際にこれらの資料は、博多にいた実山が堺や京都に立ち寄った際に収集したものであろうと容易に推測される。
南坊宗啓は集雲庵二世を名乗っている。
集雲庵開創岐翁紹禎(一休宗純の実子にして弟子)は、正長元年(1428年)の生まれというから(岩波文庫「南方録」補注)、利休誕生の大永2年(1522年)には94歳になっていたことになる。
仮にこの頃宗啓が二世を継いだとすれば、宗啓は利休より少なくとも30歳は年長だろうから、利休自刃時には百歳を優に超えていたことになる。
2年後には「滅後」を著しているから恐るべき老僧ということになる。
これほどの僧が他の記録に現れない事実は、その存在に疑問を持たざるを得ない。
また、岐翁は武野紹鴎と親しく交わり「茶話を楽」しんだというが、紹鴎誕生時(文亀2年・1502年)岐翁は既に74歳。
30歳を超えて茶を志したという紹鴎と茶話を交わしたとすればこれまた百歳翁ということになり、不自然さは否めない。
いずれも宗啓を集雲庵庵主に付会したことにより生じた疑点である。
現代における『南方録』の位置づけ
本書は現代の研究者からは、江戸時代に利休回帰が求められるなかで、「茶道」が複雑に理論化した実態を示す資料として用いられている。
いっぽう「茶道」の立場からは、茶道の精神論が到達した一つの頂点として捉えられる(但し『南方録』に見られるような秘伝によって複雑化した茶道体系と、利休の茶はかならずしも同一の物ではない)。
また利休への回帰を目指した際に、理論基盤として禅宗が強調されすぎた点は重要である。
(禅宗に偏っていないのが南方録の特色の一つとする意見もある。)
この結果茶道史において、村田珠光が浄土宗信徒であり、また北向道陳が日蓮宗信徒である点などが恣意的に無視されてきたという歴史は反省しなければならないだろう。
(なお近年では利休の師が紹鴎ではなく、日蓮宗徒の辻玄哉であったという興味深い説も提示されている。)
(神津朝夫『千利休の「わび」とはなにか』/角川書店)