夏祭浪花鑑 (Natsumatsuri Naniwa-kagami (Naniwa's mirror in a summer festival))

夏祭浪花鑑(なつまつり なにわ かがみ)は、人形浄瑠璃および歌舞伎狂言の題名。
延享2年7月(1745年8月)に大坂竹本座で初演。
作者並木千柳・三好松洛・竹田小出雲。
初演後間もなく歌舞伎化され、人気演目となった。

物語は元禄11年 (1698) 冬、大坂長町裏(現在の大阪市中央区 (大阪市)日本橋 (大阪府))で起きた魚屋による殺人事件を題材にしている。

全九段。
通し狂言としての通称は『夏祭』。
ただし今日では三段目「住吉鳥居前」(通称: 鳥居前)・六段目「釣船三婦内」(通称: 三婦内)・七段目「長町裏」(通称: 泥場)がよく上演されるので、これらが通称として用いられることが多い。

背景

団七は、幼い時浮浪児だったのを三河屋義平次に拾われ、娘のお梶と所帯を持ち一子をもうけ泉州堺で棒手振り(行商)の魚屋となっている。
元来義侠心が強く、名も団七九郎兵衛と名乗り老侠客釣船三婦らとつきあっている。
団七は恩人である泉州浜田家家臣玉島兵太夫の息子磯之丞の危難を救うため、悪人大鳥佐賀右衛門の中間を誤って死なせてしまい入牢する。
だが、兵太夫の尽力で釈放され、罪一等を減じられ堺からの所払いとなる。

一段目:お鯛茶屋
磯之丞の放蕩と琴浦に横恋慕する佐賀右衛門の悪事に、乞食の徳兵衛に自身の落魄ぶりを述べさせ磯之丞を諭すお梶の智略などを描く。

二段目:玉島兵太夫内
磯之丞の放逐。
お梶による夫への除命嘆願により兵太夫が団七の放免を決める。

三段目:住吉鳥居前(通称:鳥居前)

住吉大社鳥居前にはお梶と息子の長松、三婦らが出迎えに来ている。
お梶親子は早速主人の放免に社へお礼詣り。
三婦はたまたま通りかかった磯之丞が駕籠代のことで、悪党のこっぱの権となまの八に絡まれているのを救い、磯之丞を近所の茶屋に行かせる。
そこへ、月代と髭の伸びた団七が役人に伴われて、縄を解かれる。
「これも信心いたす、お不動様のおかげじゃ、また、兵太夫様、おありがとうございます、磯之丞様は私が命に賭けてお守り申します」と喜ぶ団七に、三婦が呼びかけ再会を喜んだあと、新しい着物を与える。
団七は言われるままに床屋に入る。
三婦は茶屋へ向かう。

入れ違いに磯之丞の愛人琴浦が佐賀右衛門に言い寄れらるが、床から現れすっきりした侠客姿となった団七に救われる。
琴浦を茶屋に逃がす間もなく、佐賀右衛門の子分の侠客一寸徳兵衛が現れ争いとなる。
二人の争いをお梶が止めに入り、徳兵衛はお梶が以前、自身の難儀を救ってくれた恩人とわかり謝罪する。
また、徳兵衛の女房のお辰が玉島家の家臣であったこともわかり、団七と徳兵衛は互いの浴衣の片袖を交わして義兄弟の契りを結ぶ。

見どころ

前半部のむさくるしい姿から、「ずっと出でたる剃立ての、糸鬢頭青月代」の竹本の言葉どおり、後半部のすっきりした侠客姿への団七の変わり具合が見ものである。

三婦が下帯を床の若い衆に解かせる場面においては、東京では地味に、又床の店に入るが、上方では三婦が床の者に下帯を持たせ「それ、引いたりしょ。」の掛け声から下座音楽に「かんから太鼓」を交える派手な演出となり、いかにも上方らしいサービス満点さが楽しい。
花道の引っ込みの際浴衣のすそを捲り上げようとして下帯のないのに気づき慌てて扇子で前を隠すユーモラスな演技がある。
このあと、扇子で日をかざし内股で小走りに引っ込むのが上方の、「どっこいしょ」と前を押さえながらゆっくりとひっこむのが江戸の演出である。

団七と徳兵衛の立ち回りは、双方同じ見得をする古風なやり方である。
団七がどことなくもっさりした脂ぎった役柄なのに対して、徳兵衛はすらりと小粋な役柄である。
ただし、以前は物乞いであったので、どことなく虚勢を張る感じが求められ、お梶に責められると「面目ない。面目ない。」
と頭を抱える弱さがあり、はじめの格好良さと対比する。
守田勘弥 (14代目)、片岡仁左衛門 (15代目)、松本幸四郎 (9代目)、中村橋之助などが持ち役である。

最後の花道の引っ込みでは、お梶が団七の髷についた化粧紙をとって仲むつまじさを表す演出がある。

初夏のさわやかな雰囲気が、男同士の友情を際立たせている。
団七赦免を告げる役人が扇を上にかざして退場する優れた型が伝わっている。
2006(平成18)年7月大阪松竹座での現坂田藤十郎の所演では、原作どおりの春に季節を変え、登場人物も浴衣から袷を着用していた。

四段目:内本町道具屋
手代となった磯之丞に義平次が侍を騙り金子を詐取しようとする。
団七の活躍で悪事は食いとめられるが、磯之丞による殺人がおこる。

五段目:安居の森「道行妹背の走書」
磯之丞と道具屋の娘お仲による心中騒動。
三婦の機転で悪手代の伝八を身代わりに死なせ、下手人に仕立てる。

六段目:釣船三婦内(通称:三婦内)

七月の暑い盛り、高津神社の祭礼の宵宮である。
磯之丞は、団七の紹介で内本町の道具屋の手代となったが義平次らに金を騙し取られそうになり、共犯の仲買の弥市を殺し、琴浦とともに三婦の家に匿われている。
そこへ、徳兵衛女房お辰が尋ねてくる。
夫婦そろって国許に帰るための暇乞いである。
三婦の女房おつぎは、早速磯之丞を一緒につれて帰ってほしいと頼む。
二つ返事で快諾するお辰だが、三婦が承知しない、「こんたの顔に色気があるのじゃ」とうのが理由で、万が一お辰と磯之丞との間に関係ができてしまうのを恐れているのである。
「それでは、妾の顔が立たぬぞえ、立ててくだんせ、もし、三婦さん」と憤るお辰だが、三婦はうんといわない。
思い余ったお辰は傍にあった焼き鏝を己の頬にあて、「これでも思案のほかという字の色気がありんすか」と自身の美貌を醜くしてまでの心意気を示す。
感心した三婦は承諾する。

そこへ、権と八がきて琴浦を拉致しようとする。
信心のため喧嘩を止めていた三婦は我慢ならず、おつぎと、「こりゃ!嬶、どうでも、切らなあかんなあ」「ほんなら、こちの人、切らしゃんすのかい。」
「おお、切らいでどうする。」
と相談する。
権と八は老人と思って舐めてかかり「おお、おもろいなあ、切るんかい」「切ってもらおうかい」「さあ切れ!」「ええ、キリキリと切りさらせ!」とすごむ。
三婦は、耳につけていた数珠を引きちぎり「じゃかましいわい、わいが切るのはこの数珠じゃ、切ったからには元の釣船、うぬらに遠慮がいるものかい」とあべこべに権と八をけり倒して「お前らそこで待ってけつかれ」と、着替えたあと、長ドスをひっさげ佐賀右衛門を斬りに行く。
お辰はおつぎに見送られ、磯之丞とともに家を去る。

入れ違いに義平次が駕籠を連れて門口に現れ、「年取って子供に使われてます、団七に頼まれて琴浦を引き取りにきましたのでな」とおつぎに訳を話し、そそくさと琴浦を駕籠に乗せて連れて行く。
そのあと、三婦、徳兵衛とともにやってきた団七はお辰から事情を聞かれるが自身が言った覚えがない。
どうやら佐賀右衛門が欲深い義平次を使って琴浦を攫う算段のようである。
団七は急いで駕籠のあとを追う。

見どころ

この場面では東京は「聖天」。
上方は「だんじり」の下座が使用される。

この場は三婦が主役である。
人生の辛酸を知り尽くした老侠客の心意気が求められ、柔軟取り混ぜた演じ方が難しい。
片岡仁左衛門 (13代目)がその意味で最高の演技を見せた。
ほかには、市川左團次 (3代目)、市川團蔵 (8代目)、嵐吉三郎 (7代目)、尾上菊次郎 (4代目)など腕達者な脇役が印象に残る。
近年は市川段四郎 (4代目)、坂東彌十郎が得意としている。
また、数珠を切り刀を引っさげての入りでは雲竜の墨絵模様の帷子を着るが、これは団七の刺青を引き立てるための演出である。

お辰は三婦役の役者に対抗できるだけの芸力が求められる。
今日では澤村源之助 (4代目)のやり方が主流である。
とくに引っ込みの際、おつぎに声をかけられたあと、「こちの人が好くのはここやない。」
と顔を指し「ここでござんす。ごめんやす。」
と胸をたたく爽快な演出は源之助の考案したものである。
中村勘三郎 (17代目)と中村勘三郎 (18代目)は、団七との早替わり二役で演じている。
また、衣装も黒帷子に黒繻子の帯、浅黄の綿帽子、それに日傘を差して出る美しい夏のいでたちである。
顔のやけどを盆に移移し見て、その盆を畳について三婦を見上げる形がある。

三婦女房おつぎは、ごく普通の市井の一女房だが、反面、老侠客の連れ合いの味を出すことも求められ、脇を固める重要な役柄である。
片岡我童 (13代目)のおつぎは上方風の色気を漂わせて絶品であった。
三婦が権と八を追い立てて花道を去るときは「ようよう○○屋!」と三婦役の役者の屋号を呼びたて、客席を沸かせる演出となっている。

前半部のおつぎと三婦のやりとりを中心とする重苦しさから、後半部の三婦の数珠の件からは一転して人物の出入りがめまぐるしい快速の運びとなる。
幕切れ近く団七が一散に花道に入る時は上方では「だんじり囃子」をクレシェンドでもりあげ、団七の焦る心中を上手く表している。

七段目:長町裏(通称:泥場)

堺筋の東側にある長町裏。
団七は駕籠に追いつき義平次をなじるが、「おれはお前の愛想尽かしを待っていたのじゃ」と反省の色もない。
団七はとっさに石を懐に入れ、入牢中に友人が頼母子講で三十両集めてくれて今ここにある。
と嘘を言う。
義平次は金を貰えると聞いて駕籠を返すが、「アニよ、その金は?」「さあ、その金は・・・」「その金は?」「その金、ここにはござりませぬわい」と金子に見せかけた石を出す。
怒った義平次は団七を打ち据え、「ようもようも、この仏のような親をだましくさったなあ」とついには団七の雪駄で額を打ち傷を負わせる。
「ああ痛タ・・・おやっさん~、何ぼ何でもこないにドクショウに打たいでもええやろが」とぼやきながら団七は額に手を当て、血がついていてびっくり。
「こりゃこれ男の生き面を・・・」と憤る団七「打った、はたいた、打ったがどうした、なんとした」とにらみ付ける義平次。
思わず刀に手をかける団七。
「何じゃい、何じゃい、われはわしを切りさらすのか」「あ、いやおやっさん、さようなことができまっかいな・・・」舅といえば親も同然。
我慢に我慢を重ねる団七であった。
義平次は図に乗り、「これよく聞け、舅は親じゃぞよ、親を切ればな、一寸切れば一尺の竹鋸で引き回し、三寸切れば三尺高い木の空で、逆磔じゃぞよ、さあ切れ、これで切れ」と刀をつかんで挑発する。
「おやっさん、やめとくんなはれ、危ないがな」「さあ、殺せ、殺しさらせ」と言い合ううち、ついには刀を取り合う揉みあいとなる。

刀の鞘が走って団七は義平次の肩先を斬ってしまう。
「うわあ、切りやがった、親ごろし〜」「親父どん、何いうんじゃい、ええ加減にだだけさんすな」と義平次の口を押さえたときに、団七は血糊に気づきもはやこれまでと、だんじり囃子の聞こえる中、義平次を惨殺する。
屍骸を池に捨て、井戸水で身体を洗った後「悪い人でも舅は親、親父どん、堪忍してくだんせ」とだんじりの群集にまぎれて去っていく。

見どころ

凄惨な殺人劇だが、暗い舞台と祭りのだんじりの灯りの対比、鮮やかな刺青と真紅の下帯の色、本水、本泥の使用など夏の季節感と見事な色彩に彩られた名場面である。
そして、様々な美しい殺陣の見得は、この狂言一番の見せ場でもある。

舞台前の切り穴に泥を張った「泥舟」が池の役割となる。
義平次はここに飛び込み、団七にからみ蛙の見得をしたりするので「泥場」と呼ばれる。
幕が終わると、義平次役の役者は全身泥だらけで、洗い落とすのに一苦労する。

義平次は、欲に目がくらんだ醜悪な老人である。
いかに生々しく憎く演じるかで、団七が引き立ち観客も団七の苦渋と殺人に至る経過が理解できる。
戦前の大谷友右衛門 (6代目)、近年では實川延若 (3代目)、浅尾奥山 (4代目)、中村源左衛門、四代目市川段四郎など腕のいい役者が印象に残るが、最近は、十八代目中村勘三郎が「平成中村座」で演じた時の笹野高史が好評であった。
この場面では忠臣蔵の三段目「喧嘩場(刃傷)」の気持ちで演じることという口伝が伝わっている。
實川延若 (2代目)の団七は、義平次との口論で上下を眺めて「これ、何もおまへんで。何もないさかいに・・」
との捨て台詞を吐いて周囲に気を使いながら演じたが、その呼吸が絶品であった。

幕切れは、祭囃子のだんじりを登場させ、団七が一人の腰から手ぬぐいを抜き取ったのを頬被りして、みんなが去った後、「ちょうさや。ようさ。」
と囃子言葉を震えながら言って引っ込む形が普通であるが、二代目實川延若は、引っ込みの際、若い者が不振そうに義平次の沈んだ池を覗き込むのを、団七が「ちょうさや。ようさ。」
と囃子言葉で遮り二人で踊りながら花道を入る演出であった。
これは平成18年 (2006) 7月大阪松竹座において、坂田藤十郎 (4代目)が復活させた。

なお原作では、徳兵衛が通りかかり、団七の雪駄をひらうところで幕となっていた。
義平次と徳兵衛が二役早替わりの演出もあるが、これは無残な死に方をした役の俳優が、幕切れに美しい姿で出る歌舞伎特有の演出である。

八段目:田島町団七内(通称:蚤とり場)
三婦と徳兵衛の情けでお梶と長松は備中へ。
捕り手の乱入後徳兵衛は縄をかける代わりに逃亡資金として金子を団七に渡す。

九段目:玉島徳兵衛内
佐賀右衛門の悪事露見と磯之丞の勘当が解け、三婦とお梶に伴われた長松が団七に縄をかけるが、兵太夫により団七の減刑が約束される。

概説

初夏のさわやかな季節感漂う鳥居前。
夏祭りの風情と義理人情の哀歓を描いた三婦内、そして歌舞伎狂言中屈指の殺し場である長町裏。
と、それぞれ見どころがあるが、大坂を舞台としており、上方歌舞伎の濃厚な風情が要求される。
団七は、かつては二代目實川延若、戦後は三代目實川延若、十三代目片岡仁左衛門が得意とした。
東京でも、市川團十郎 (9代目)、中村吉右衛門 (初代)、市村羽左衛門 (15代目)、十七代目中村勘三郎、尾上松緑 (2代目)などが江戸に上方式を融合した演出を取っていた。
現在では十八代目中村勘三郎、中村吉右衛門 (2代目)、四代目坂田藤十郎、市川猿之助 (3代目)などが得意としている。

もともと、元禄11年 (1698) に片岡仁左衛門 (初代)の初演した『宿無団七』が原作で、同じ系統に「宿無団七時雨傘」があり、現藤十郎らによってたまに上演されている。
また、書き換え狂言としては「女団七」や鶴屋南北 (4代目)の傑作「謎帯一寸徳兵衛」などがある。

上方の雰囲気がこの狂言の生命とされ、戦後は東京も上方の演出を重視する。
かつて十三代目片岡仁左衛門は、上方色の乏しい東京の某歌舞伎役者の団七を観て激怒し、坂田藤十郎(当時は中村扇雀)に、「これは、上方歌舞伎への冒とくや、あんさん、手本に団七をやっておくれやす」と頼み込んだという。

名優の芸談

「団七の役は夏芝居らしくサッパリとしている中に、上方の芝居らしい粘りと曲な動きの面白みを見せなければならず・・・住吉前(鳥居前)の牢払いのむさくるしい姿から、二度目の床屋から出る浴衣姿との対照が。
お客様をアッと云わせる様にガラリと変わらなければ面白くありません。
と云って、その二つが別人の様であってもいけず、これも厄介です。」
(初代中村吉右衛門)

「(長町裏の殺陣は)すべて極まった形が手綺麗に行かぬと、この場の団七になりません。
それと義平次を演じていただく方とイキの合うこと。
イキが合わねば形が崩れてしまいます。
・・・・それから・・・・この立ち回りの間、とかく義平次の手先きや着物に塗った泥が団七の顔や着物に付着がちですので、なるべくそれをつけぬよう気を配りながら形をつけねばなりませんが、これも、この場の団七の苦心の一つでございます。」
(二代目實川延若)

[English Translation]