大倉流 (Okura school)
大倉流(おおくら-りゅう)は能楽囃子方の一流儀。
大鼓方と小鼓方がある。
小鼓方
小鼓方大倉流は金春流座付きとして活躍した小鼓方の流儀。
大蔵権右衛門道意が家祖とされるが、実質的に流儀の基礎を築いたのは大鼓方三世二助虎家(道知)の養子となった二世長右衛門宣安と思われる。
宣安は大鼓方から出て、一流を築き、当時の立会能で活躍した名人であった。
江戸時代には金春流の座付きとして活躍し、大鼓方大倉流をアシライ鼓とした。
東京、大阪などが主要な地盤で、能楽協会に登録された役者は20名余。
調緒のかけかたがゆるく、やわらかい音を特色とするため、ポ・プの音は聞きわけにくい。
また打つ指を変えて音色に変化を持たせるのも特色の一つ。
近代の名人に北村一郎、鵜沢寿、北村治など。
現宗家は十六世大倉源次郎。
大鼓方
大鼓方大倉流は金春流座付きとして活躍した大鼓方の流儀。
金春禅竹の三男大蔵道加が分家し、子の二世九郎能氏が観世信光に師事して一流を興した。
三世二助虎家(道知)は織田信長の贔屓を受け、四世平蔵正氏、五世源右衛門正幸は紫の調緒を許された。
しかし、正幸に後嗣がなかったために、小鼓方二世大倉宣安の孫仁右衛門宣充が六世を相続した。
以後は小鼓方のアシライ鼓として終始し、江戸時代中期以降は奈良に在住して尾張藩の扶持を受けた。
維新後、十五世七左衛門が囃子方の申合せを破って梅若流に参加したため、家元の座を追われた。
以降小鼓方の家元が大鼓方を預っている。
東京、大阪などが主要な地盤で、能楽協会に登録された役者は10名余。
手組みの数そのものが少なく、掛け声などにも古風を残す。
長らく小鼓方大倉流のアシライ鼓であったため、手組みはもっとも同流に適する。