宇治採茶使 (Uji saicha shi)
宇治採茶使(うじさいちゃし)は、京都府宇治市の名産品である宇治茶を徳川将軍家に献上するための茶壷を運ぶ行列のこと。
俗に御茶壷道中という。
歴史
起源は慶長18年(1613年)、江戸幕府が宇治茶の献上を命じる宇治採茶師を派遣したのが始まりである。
元和 (日本)年間、使番が使者に任命され宇治茶を運んでいた。
徳川家光の時代の寛永9年に制度化され、寛永10年(1633年)から、幕末の慶応2年(1866年)まで続けられた。
行列はないが最後に江戸に茶壷を送ったのは慶応3年(1867年)である。
この時は徳川慶喜が二条城に在洛中であった。
随行していた元数寄屋組頭の鈴木春碩が宇治に来て、必要なだけ御茶壺のみを宿次人足に委ねて江戸城に運んでいる。
平成6年(1994年)、平安建都1200年記念事業で、有志により京都から東京まで徒歩で御茶壺道中が再現された。
また、茶壷蔵のあった都留市でも毎年この行列を再現している。
手順
4月下旬から5月上旬に行われた。
責任者たる徒歩頭(かちがしら)が輪番でその任を務めた。
茶道頭や茶道衆(茶坊主)のほか茶壷の警備の役人など、徳川吉宗の倹約令が出るまで膨れ上がり、多い時には1000人を超える大行列となった。
道中の総責任者は、宇治の代官の上林家が代々務めた。
100以上の将軍家伝来の茶壷に最高級の碾茶を詰めて、往路は東海道を復路は中山道・甲州街道を通った。
甲州街道を通った行列は甲斐国谷村(現・都留市)の勝山城の茶壷蔵に納められた。
富士山の冷気にあてて熟成してから、江戸に運んだ。
この御茶壷道中は、将軍が飲み徳川家祖廟に献ずるものであるから自ずからたいへん権威があった。
摂関家や門跡並で、御三家の行列であっても、駕籠から降りて、馬上の家臣はおりて、道を譲らねばならなかった。
行列が通る街道は、前もって入念な道普請が命ぜられ、農繁期であっても田植えは禁止された。
子供の戸口の出入り、たこ揚げ、屋根の置き石、煮炊きの煙も上げることは許されなかった。
葬式の列さえ禁止された。
権威のあるこの行列を恐れていた沿道の庶民は、茶壷の行列が来たら、戸を閉めて閉じこもった。
この様子は沿道の民は非常にこれを恐れていた。
お茶壺が来たら、戸をぴしゃんと閉めて閉じこもった。
また、道で出くわしたら、土下座で行列を遣り過すしかなかった。
茶壺の行列の様子は、現代でも童歌のずいずいずっころばしに良く表現されて歌い継がれている。