宣明暦 (Senmyo Calendar (a variation of the lunar calendar that was created in ancient China))

宣明暦(せんみょうれき)とは中国暦の一つである。
かつて中国・日本などで使われていた太陰太陽暦の暦法である。
正式には長慶宣明暦(ちょうけいせんみょうれき)と言う。

和暦の日付は、旧暦表示。
西暦の日付は、1582年10月4日まではユリウス暦表示。1582年10月15日以降はグレゴリオ暦表示。

中国

唐の長慶2年(822年)から景福 (唐)元年(892年)までの71年間使用された。

日本

貞観 (日本)4年1月1日 (旧暦)(862年2月3日)に大衍暦・五紀暦から改暦され、貞享元年12月30日 (旧暦)(1685年2月3日)まで、823年間使用された。

貞享2年1月1日(1685年2月4日)、貞享暦に改暦される

中国

唐の徐昴が編纂したもので、当時としては優れた暦法であった。
特に日食や月食の予報に進歩が見られた。

日本

天安 (日本)3年(859年)に渤海使がもたらした。
それまでの大衍暦・五紀暦に代わり用いられる。
暦博士大春日真野麻呂の強い推挙によるものとされている。

その後、朝廷の衰退や暦学の停滞などにより改暦が行われなかった。
長期にわたり使用されたために誤差が蓄積することになる。

また、暦の編纂は本来は朝廷が独占して行うものであり、暦の算出法に関する書物は陰陽寮以外には秘書とされていた。
しかし、宣明暦があまりにも長く使用されていたために、次第に民間に流布するようになり、さらには出版されるようになった。
さらに、鎌倉時代以降は朝廷の力が弱まり、京で作られた暦が地方へ伝達しにくくなったことから、各地で独自に宣明暦の暦法によった暦(民間暦)が作られるようになった。

ところが、戦国時代 (日本)に朝廷において暦道を担当していた勘解由小路家が断絶した影響などで京における暦の編纂に混乱が生じた。
京と地方の民間暦との間で置閏法などに違いが生じるなどの混乱が発生した。
例えば、天正11年(1583年)1月に京暦で行われる予定の閏月が、民間の三島暦を採用していた後北条氏・上杉氏・里見氏などの領内では前年の天正10年12月に閏月が行われた。
特に信濃国では同じ国内であるにも関わらず、真田氏・蘆田氏は三島暦、諏訪氏・小笠原氏は京暦に従って閏月を実施するなどの混乱が生じた。

更に江戸時代初期には、二十四節気や朔などが実際よりも2日早く記載されるようになっていた(もっとも、9世紀に作成された暦が800年で2日間しかずれなかったと見ることも可能である)。
このために渋川春海によって貞享暦が編纂され改暦が行われる。

[English Translation]