富籤 (Tomikuji (lottery in the Edo period))
富籤・富くじ(とみくじ)は、富突きともいい普請の為の資金収集の方法であり、宝くじの起源といわれるくじ引の一種であり、賭博でもある。
現在でも富会としての富くじを行っている寺社や商店街の福引として残っている。
概要
富札を売り出し、木札を錐で突いて当たりを決め、当たった者に褒美金すなわち当額を給する。
富札の売上額から褒美金と興業入費とを差し引いた残高が興業主の収入となる仕組みである。
享保時代以後、富籤興行を許されたのは主に社寺で、収入の他にも当金額の多い者から冥加(みょうが)として若干を奉納させた。
寺社普請のための富くじが大勢だが、戦時中は勝札と言う名目で、戦時資金を募った。
また現在でも宝くじとして公共の普請のための資金調達にもなっている。
方法
抽せん方法
始めに、大きな箱に、札の数と同数の、番号を記入した木札を入れる。
続いて箱を回転し、側面の穴から錐を入れて木札を突き刺し、当せん番号を決める。
そして当せんした富札の所有者に、あらかじめ定めた金額を交付する。
配当方法
当せんにはいくつか方法があり、次第に複雑化していった。
当には、本当(ほんあたり)が1から100まである。
つまり100たび錐で札を突くのであり、たとえば第1番に突き刺したのが300両、以下5回目ごとに10両、10回目ごとに20両、50回目は200両、100回目(突留(つきとめ))には1000両、という様に褒美金がもらえる。
これらの21回数を節(ふし)という。
節を除いた残り(平(ひら)という)に、何回目ということをあらかじめ定め、間々(あいあい)といって、少額金を与えることがあった。
節の番号数の前後の番号にいくばくかの金額を与えたが、これを両袖といった。
袖といって、両袖のかたわらの番号に、少額のものをくれることがあった。
札数が大多数に上る時は、番号には松竹梅、春夏秋冬、花鳥風月、または一富士、二鷹、三茄子、五節句、七福神、十二支という様に大分類を行い、そのそれぞれに番号を付け、たとえば松の2353番が当せんした時は竹、梅の同番号の札にもいくぶんかの金額を与えることがあった。
これを印違合番(しるしちがいあいばん)といった。
この場合、両袖が付けてあると、各印ごとに300枚ずつ金額の多少にかかわらず当たるわけで、本当の他は花といった。
元返(もとがえし)といって、札代だけを返すものもあった。
たとえば、頭合番999人に渡すとあれば、当たった3300という番号だけを除き、3000代の番号どれにも元金だけを返してくれる。
突留の頭合番に渡すという方法もあった。
当せんした者は褒美金全部を入手したのではなく、突留1000両を得たものはその100両を修理料として興行主に贈り、100両を札屋に礼として与え、その他諸費と称して4、50両取られたから、実際に得るところはおよそ700余両であった。
これは平(ひら)の当(あたり)まで同じである。
販売・購入方法
興行主において数千または数万のくじ札(富札)を作り、それに番号を付ける。
日を定めて抽せんされる。
仮に興行主から富札店(札屋)が富札1枚を銀12匁で買い入れたとすると、札屋はこれに手数料を取って13、14匁で売り出す。
売り出す時は当局に申告するため定価があったが、札屋から庶民に売るものは、その時の人気で上下した。
1人で数枚を買うこともできたし、1枚を数人で買うこともできた。
後者は割札といい、本札は取次人の手に留めて仮札をもらう。
半割札を買った場合、褒美金はもちろん2分の1になる。
4つに分けたものを4人割といった。
歴史
起源
起源はすでに寛永ころ京都でおこなわれていたらしく、元禄5年5月の町触にはその禁止があるから当時流行していたらしい。
流行の頂点は文化 (日本)、文政ころであった。
富籤は頼母子(無尽)、とくに取退無尽(とりのきむじん)が変じたもので、頼母子は出資者数が少なく獲得額に限度があり、射幸心を充分には満足させられないなどの理由があった。
そのため、債権債務関係が1回限りで、配分額の多い富籤という方法が案出された。
富会といわれ新年の縁起物としての行事であった。
自身の名前を書いた木札を納めその中から「きり」で突いて抽せんしたのが始まりと言われる。
当せん者はお守りが貰えただけであったが、次第に金銭が副賞となり賭博としての資金収集の手段となった。
幕府の対応
この方法が時勢にあったのか大いに流行し、幕府はしばしば禁令を発した。
享保以後、富籤は主に寺社の修理費用に充てるために興行され、寺社奉行に出願し、その許可をうけた。
富籤は松平定信によって江戸・京都・大阪の3箇所に限られ、あるいは毎月興行の分を1年3回とするなど、抑制された。
しかし、文化・文政の最盛期に再び手広く興行を許され、幕府は9年、三府以外にもこれを許可し、1年4回の興行とし、口数を増やし、1ヶ月15口、総口数45口までは許可する方針をとった。
その後、水野忠邦によって天保13年、突富興行は一切差止を命じられた。
関西地方の特色
京阪では当富(あたりとみ)の番号を大幟にしるして、札屋の軒前に立てかけるものもあり、たとえ当札のない店でもこれを模造して立てた。
富籤興行の当日、「御はなし御はなし」と声高く叫びながら市中を駆け回り、番号を書いた紙片を売り歩く者もあったが、これは当の番号に対して賭をするもので、これを第付(だいづけ)というと『守貞漫稿』にはある。
町触にある蔭富(かげとみ)は、これをさす。
興行元
享保15年、仁和寺の門跡がその館宅の修理のために幕府に請うて始めて江戸護国寺において3箇年富籤興行を許されて以来、多くの社寺で行われた。
文化年間、江戸だけで2、30箇所あったという。
その中で、谷中感応寺・目黒不動・湯島天神は江戸の三富と称し、有名であった。
文化・文政時代が興行の最盛期であったとされる。
突富興行御免を受けた寺社は毎月または1年数回興行したので、好都合な財源であった。
法律と賭博
現代では刑法第187条の「富くじ」にみられるように法律用語として残っている。
賭博や株式、宝くじや景品法などに係わる法律の概念や成り立ちにおいて富くじが根幹にある。
落語
富籤が主題の落語
御慶
富久
水屋の富
宿屋の富