帷子辻 (Katabiragatsuji)

帷子辻(かたびらがつじ)は京都市北西部にあったとされる場所。
現在の帷子ノ辻(かたびらのつじ)付近と言われる。

由来
平安時代初期、嵯峨天皇の皇后であった橘嘉智子(たちばなの かちこ 786年-850年)は仏教の信仰が厚く、壇林寺を建立したことから「壇林皇后」と呼ばれた。
また貴族の子弟教育のために学習院を設けるなど、多くの功績があった。

伝説によると、壇林皇后はすばらしい美貌の持ち主でもあり、恋慕する人々が後を絶たなかった。
修行中の若い僧侶たちでさえ心を動かされるほどであった。
深く仏教に帰依していた皇后はこうした状況を憂いた。
そして、この世は無常であり、すべてのものは移り変わって、永遠なるものは一つも無い、という事を自ら示しそうとした。
皇后は仏心を呼び起こすために、死に臨み、自分の亡骸は埋葬せず、どこかの辻に打ち棄てよと遺言した。

遺言は守られ、皇后の遺体は辻に遺棄されたが、日に日に腐りっていった。
やがて、犬やカラスの餌食となって醜く無残な姿で横たわり、白骨となって朽ち果てた。
人々は世の無常を心に刻み、僧たちも妄念を捨てて修業に打ち込んだという。
皇后の遺体が置かれた場所が、以後「帷子辻」と呼ばれた場所である。

一説には皇后の経帷子(死装束)に因んだ名とされる。
「九相図」(九相詩絵巻)は壇林皇后(または小野小町等)の遺体が朽ち果てる様を九つの絵で描いたものとされる。

もともと帷子辻は、こうして自らをなげうって人々の魂を救済しようとした壇林皇后のありがたい遺志の源であったはずである。
しかし、その後この辻を通りかかると、犬やカラスに食い荒らされる女の死体の幻影が見えると恐れられるようになったと伝えられている。
また、現在の帷子ノ辻から西北西(嵯峨野の北西、奥嵯峨)に位置する化野(あだしの)は鳥辺野、蓮台野とともに古来の風葬の地、葬送の地として知られる。

[English Translation]