志野流 (Shino School (Tea Ceremony and Traditional Incense-smelling Ceremony))

志野流(しのりゅう)は香道および茶道流派の一つ。

志野家

初代志野宗信は足利将軍家の6代足利義教から8代足利義政まで仕えた近臣であった。
3代志野省巴は千利休を含む多くの門人を抱えたが、隠棲するにあたってその一切を建部隆勝に預け、建部隆勝の推により志野流は蜂谷宗悟に受け継がれたと伝えられる。
一方で米川流の祖米川常伯のように蜂谷家とは独立に建部隆勝の流れを汲むものもいて、これらを建部流と称することがある。

志野家歴代

蜂谷家

前述の通り志野流は蜂谷宗悟に受け継がれたが、建部流と対比させて蜂谷流と称することもある。
9世宗先は元禄期の時流に沿って家元制度を確立させ、志野流の中興と称せられる。
藤野専斎昌章(1701年 - 1783年)は宗先の高弟で、宗先の没した後4代に渡って後見を務め、40年に及ぶ宗家継承の難局を乗り切った。
15世宗意の時、元治元年(1864年)の禁門の変の兵火により家屋を焼失、尾張家の庇護により名古屋に移った。
それまで香道・茶道一体として受け継がれていたが、この時期に蜂谷家における元来の志野流茶道は絶えている。
香道は諸芸能と同様維新後に衰退したが、戦後に盛り返して現在は御家流と共に大きく二分している。
明治以降改めて茶道の教授も行われるようになったが、これは元の志野流とは異なるものとされる。

蜂谷家歴代

志野流茶道

一方で鳥取藩の支藩鳥取東館の池田仲雅が志野流の茶道を好み、流祖像を作り大谷平奉弘を茶頭として志野流茶道を指導させたことから、志野流の元来の茶道が因幡地方に伝来することになった。
因幡においては合議にて流祖像の継承者を決めている。

志野流茶道歴代

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