有楽流 (Uraku school)
有楽流(うらくりゅう)は、織田信長の実弟織田長益(有楽斎)に始まる茶道の流派の一つ。
4男織田長政 (大名)の系統の大和芝村藩、5男織田尚長の系統の大和柳本藩の家中で嗜まれた。
現在は長政の末裔を宗家としている。
また長益の次男織田頼長、その長男織田長好、信長の孫織田貞置と継承され、貞置以降のものを貞置流ともいう。
さらに貞置の甥織田貞幹を召し抱えた尾張名古屋藩の家中に伝えられ現在まで続く流派として、尾州有楽流(びしゅう-)がある。
歴史
流祖織田長益は織田信長の弟で、本能寺の変の後まず信長の次男織田信雄に仕えて小牧・長久手の戦いの和議を成立させ、信雄改易後は豊臣秀吉に、秀吉没後は徳川家康に仕えた。
大坂冬の陣では大坂城方について和議交渉にあたり、これが成立すると京都に隠居した。
茶人としては武野紹鴎を師として仰いだという伝承があり、本能寺の変の前後から活動が知られている。
有楽斎と号したのは秀吉に仕えてからと考えられている。
利休七哲の一人に加えることもあるが、七哲は秀吉から台子の相伝を受けたのに対して、有楽斎は秀吉面前で利休から相伝を受けるという別格に遇されている。
茶風としてはなにより「客を饗なす」ことを重んじ、ついで古人に倣って研鑽する中から創意工夫を生むことを良しとした。
その集大成ともいえるのが、隠居所として復興した京都建仁寺正伝院に設けた茶室、如庵である。
有楽斎の茶は次男織田頼長、4男織田長政 (大名)、5男織田尚長などに受け継がれた。
家康から与えられた大和国3万石の領地は、長政と尚長に1万石ずつ分与して残りを有楽斎の隠居料とした。
おそらく頼長へ引き継ぐつもりだったと考えられるが、しかし頼長は元和6年(1621年)に先立ち、その長男織田長好を引き取るものの相続はかなわなかった。
長好は茶人として名を成すが子女ともになかった。
慶安4年(1651年)に没することでその血脈は絶えた。
織田貞置は織田信長の9男織田信貞の次男で1000石の旗本であったが、織田長好の没後に有楽流を継承し高家として多くの門弟を抱えた。
貞置による系譜を特に貞置流と称することがある。
貞置家は高家旗本として幕末に至る。
貞置の甥織田貞幹は尾張名古屋藩に仕えて有楽流を伝え、歴代平尾数也(すうや)や粕谷家といった茶頭たちによって幕末まで伝えられた。
現在でも尾州有楽流として伝えられている。
一方長政と尚長は大和芝村藩・柳本藩それぞれ1万石の大名となり、代々御流として伝えて幕末に至り、維新後も子爵家として存続していた。
維新後は有楽流も他の武家茶道の諸流派同様凋落したが、昭和になってから芝村織田家を有楽流の宗家として再興した。