東遊 (Azuma-asobi (ancient Japanese dance suite that originated in eastern Japan))
東遊(あずまあそび)は、雅楽の国風歌舞に類される、演奏時間は30分程度かかる、かなり長い組曲である。
東国の風俗歌にあわせて舞う。
舞人6人あるいは4人、歌方は拍子、和琴、琴持、東遊笛(中管)、篳篥、付歌で奏する。
ただし現代においては宮内庁式部職楽部を除いて東遊笛の代わりに高麗笛が用いられる事が殆どである。
もっぱら神事舞として奏し、明治時代以後は皇霊祭その他にもちいられている。
安閑天皇の御世、駿河国の宇土浜に天女が降って舞ったものを模したという。
駿河舞、求子の2曲を舞うのを諸舞、駿河舞のみを舞うのを片舞という。
平安時代には、舞曲は近衛の官人が仕えるのを例として、細纓冠緌にサクラを冠の右側に挿し、袍は小忌衣、太刀を帯びた舞人6人ないし10人、歌人4人(笏拍子、狛笛・篳篥・和琴それそれ1人)で奏した。
舞楽を奏するときは、右4人舞ないし6人舞。
催馬楽よりもふるく、もと東国でおこなわれたものであるが、外来楽の隆盛とともに都会にはいった。
すでに絶滅傾向にあった貞観3年3月14日に東大寺大仏供養のとき、唐楽、高麗楽、林邑楽とともに東遊がおこなわれたことは注目される。
寛平元年11月から賀茂祭で東遊がおこなわれ、東国の民間歌舞が都の祭祀の歌舞となったことになる。
天慶5年4月、石清水の臨幸祭がはじめられたとき、東遊がおこなわれた。
一条天皇が神楽が散逸するのを心配して保存につくしたとき、東遊も5曲制定された。
それが今につたわる一歌、二歌、駿河歌、求女子歌および加太於呂之(大広歌とも)の5であるといわれるが、天治本の古譜には延喜20年11月10日勅定のことがみえる。
歌詞の伝来がすくないのは東遊が祭祀に採られたためにもともとのうたいぶりがなくされたからであるともいう。
明治維新ののちは神武天皇祭、春秋の皇霊祭の日に雅楽部員が皇霊殿のまえで奏した。