楼門五三桐 (Sanmon Gosan-no-kiri)

『楼門五三桐』(さんもん ごさんのきり)は、安永7 (1778年) 年4月大阪角の芝居で初演された、初代並木五瓶作の歌舞伎の演目。
二段目返し「南禅寺山門の場」は特に『山門』(さんもん)と通称される。
初演時の歌舞伎外題は『金門五山桐』(きんもん ごさんのきり)、のちに改称されて現在の歌舞伎外題となった。

あらすじ

南禅寺の南禅寺伽藍の屋上、天下をねらう大盗賊石川五右衛門は煙管を吹かして、「絶景かな、絶景かな、春の宵は値千両とは、小せえ、小せえ、この五右衛門の目からは、値万両、万々両」という名台詞を吐き、夕暮れ時の満開の桜を悠然と眺めている。
そこへ片袖を加えた鷹が飛んでくる。
そこに書かれたのは明国の遺臣宋蘇卿の遺言であった。
読むうちに五右衛門は、自身が宋蘇卿の子で、かねてから養父武智光秀の仇としてつけ狙っていた真柴久吉が実父の仇でもあることを知る。
怒りと復讐に震える五右衛門に捕り手が絡む。
そこに巡礼姿の久吉が現れ、五右衛門の句を詠み上げる: 久吉「石川や浜の真砂は尽きるとも」、五右衛門「や、何と」、久吉「世に盗人の種は尽きまじ」。
驚いた五右衛門が手裏剣を打つと久吉は柄杓でそれを受け止め、「巡礼にご報謝」と双方にらみ合って再会を期す。

概説

『楼門五三桐』は、文禄・慶長の役の復讐に日本支配を企てる明高官・宋蘇卿の遺児・石川五右衛門と日本の支配者・真柴久吉との対立を描く、スケールの大きい五幕の長編である。
しかし史実を踏まえた架空の登場人物の設定は極めて複雑かつ矛盾に満ちたものになっており、そのため初演以来これが通しで演じられることは稀で、通常は二段目返しの「南禅寺山門の場」のみが上演される。

その『山門』は上演時間15分足らずの短いもの。
浄瑠璃古浄瑠璃の独唱のあと幕浅黄幕が切って落とされると、極彩色の華麗な山門の屋根がそこにあり、金爛丹前に大百日鬘という出で立ちの五右衛門がその上で悠然と煙管を吹かしている。
巨大な山門の大道具が一気にせり上がるとそこには真柴久吉がいる。
幕切れの見得は、五右衛門が刀を抜きかけて欄干に片足をかけて下をにらみ、久吉が柄杓で手裏剣を受けて上をにらみ返す「天地の見得」と呼ばれるもので、絢爛豪華な舞台にふさわしい立体感あふれる幕切れである。

歌舞伎の様式美と豪快さのエキスが凝縮されたような一幕。
「動く錦絵」と呼ばれる所以である。
この『山門』は、『楼門詠千本』の「南禅寺山門の場」や、『青砥稿花紅彩画』大詰の「極楽寺山門の場」・「滑川土橋の場」など、『楼門五三桐』以後に書かれた石川五右衛門や五右衛門をモデルとした大盗賊を主役とする数々の演目にほぼそのままのかたちで取り入れられており、誰もが一度は見たがった人気の一幕であったことが窺える。

五右衛門

安永7年に『金門五山桐』が大阪で初演されたときに五右衛門を演じたのは嵐小六 (3代目)である。
初代は所作に優れた上方歌舞伎の名優で、肥満体でみせる上品な芸は公家悪や天下をねらう謀反人を演じたら右に出る者はいないと言われた。

その長男の嵐雛助は、寛政12 (1800) 年に『楼門五三桐』が江戸で初演された時に五右衛門を演じている。
父とは打って変わって二代目は立役を得意とした立役で、その豪快な五右衛門は一躍彼の当たり役となり、『山門』以外の演目でも五右衛門を何度も演じている。
この二代目の演技が後々まで歌舞伎の石川五右衛門のあり方に大きな影響を与ることになった。

五右衛門は演じる役者の技量もさることながら、役者の人間の大きさも必要な役どころといわれる。
その意味で、明治期に「劇聖」と呼ばれた市川團十郎 (9代目)の五右衛門よりも、同時期の中村芝翫 (4代目)の五右衛門の方が見ごたえがあると評した歌舞伎通も多かった。

近年では昭和25 (1950) 年5月に實川延若 (2代目)が東京劇場で演じた五右衛門が後世に語り継がれるほどの名舞台で、映画にも記録された。
すでに延若は脚が不自由になっており、動くことすら困難を伴う状態だったが、その五右衛門の迫力は圧巻で、記録映画では観客が感嘆のどよめきを漏らすのを聞き取ることができる。
延若の五右衛門は歌舞伎史に残る名演として、鍋井克之の画によりタペストリーに織られ、歌舞伎座のロビーに飾られている。

なお他の歌舞伎の演目がどれもそうであるように、『山門』も大看板の組み合わせで上演されるとその魅力は倍増する。
昭和6 (1931) 年に中村歌右衛門 (5代目)の五右衛門と中村鴈治郎 (初代)の久吉で行った公演では、連日大向こうから「二人で二千両!」という掛け声がかかったという。

逸話
『山門』はその通称が語るように南禅寺山門がせり上がるところが大きな見所だが、そもそもこのせり上げができないと久吉が舞台上に登場できないので話にならない。
ところが東の歌舞伎座と並び称される西の京都南座には、役者を上げ下げする「小迫り」はあっても大道具を上げ下げできる「大迫り」がなかったので、歌舞伎の代表作の一つであるこの演目を上演することが長らく出来なかった。
大規模な改修工事の末大迫りが装備され、山門が舞台上にその姿を初めて現したのは平成3 (1991) 年の顔見世、十三代目片岡仁左衛門の五右衛門、七代目尾上梅幸の久吉で演じられた時だった。

冒頭の五右衛門の台詞は、初演当初は「春の眺めは値千両とは小さい譬(たと)え。この五右衛門の目からは値万両」という簡略なものだった。
これがいつしが誇張されて「小せえ、小せえ」「値万両、万々両」のリフレインになり、なかには「万両、万両、万々両」と言ったものまであった。
このように金額がどんどん膨らんでゆくさまを坂東三津五郎 (8代目)は「いかにも商都らしいね」と評したことがある。

[English Translation]