模刻 (Mokoku)

模刻(もこく)とは、書道において、書蹟を石や木に模写して彫りつけ、保存・鑑賞・学書用の書蹟「法帖」を制作すること。
「摹刻」(「摹」は「募」の「力」を「手」に換えた字)とも書く。

概要
模刻は紙に書かれた書蹟を保存する時に行われるもので、石や木に原本の文字を精巧に模写し、これをたがねやのみによって彫りつける。
この際字は鏡文字にはせず、原本そのままの向きで彫る。
つまり、紙から石や木への媒体変換を行い、保存と鑑賞に供するのがこの方法である。
ただし刻まれた石や木そのものが用いられることはなく、拓本を適宜採って用いる。
書道の書蹟で、時折元が碑でもないのに拓本になっているものがあるのはこのためである。

このような保存・鑑賞・学書に適した形に仕立て上げられた、多く模写や複製による書蹟を「法帖」というが、特に模刻によるものを「刻帖」、対して紙に直接筆記・模写したものを「墨帖」と呼ぶこともある。

中国独自の書蹟保存・享受法であり、同じ書道文化を持つ日本などではほとんど見られない。
これには中国で、記録保存には金石文を用いるのが最適と考えられていたことがある。
他の国ではあくまで石や木は一媒体に過ぎなかったが、中国ではそのように考えず特に保存性に優れたものとして認識していたのである。

元々中国は朝廷が碑の建立を禁じる命令まで出すほど、碑を建てることが日常的・一般的な国であった。
このため紙と違って、保存体制さえしっかりしておけば半恒常的に完全な形で残すことが可能であるという石や木の性質を経験的に知っていたと考えられる。

歴史
背景と前史
中国で発明された紙が、自国内で一般にも浸透して筆記媒体として用いられるようになったのは魏晋南北朝時代の比較的初期の頃である。
つまり同時代の書家たちは、ほとんどの場合紙に書をしたためていたと考えられる。

この時代の政治的混乱をすり抜けて、書道界ではその後の書を大きく変える書家が登場した。
東晋の王羲之・王献之親子である。
彼らは隷書の走り書きにすぎなかった行書と、それを整えただけの楷書を芸術的に完成させ、中国書道界に衝撃と一大変革をもたらしたのである。

このため「書聖」とまで呼ばれた彼らやその流儀を受け継いだ人々の書を学びたいと思う書家は多く、その複写・複製である法帖の制作が強く求められた。
しかし写真もコピーもない当時、紙にしたためられている文字を写し取るには原本を見ながらの模写しか方法がない上、文献と違って書蹟は「文字の形」が重要なため、写すからにはそれ相応の技巧が必要になり、とても誰にでも出来るというような仕業ではなかった。

この問題を解決するために生まれたのが、「搨模」(とうも)と呼ばれる方法である。
これは「双鉤填墨」という方法を用いるもので、まず写したい作品の上に紙をかぶせ、文字の輪郭だけを細く写し取り、その上で中を黒く塗りつぶすという一種のなぞり書きであった。
この技術の開発により、あまり技術のない人でもやり方さえ覚えれば模写が出来るようになり、技法を極めれば真筆と見まがうような模写を行うことも可能になったのである。

しかしこの方法も手で写していることには変わりないため、やがてもっと効率のよい方法が求められるようになった。
そこに登場したのが、石や木に媒体変換を行う模刻であった。

発生と流行
模刻が発生したのは唐代後期のことであり、五代十国の文化王朝として知られる南唐ではこの手法を用いて『集帖昇元帖』や『集帖澄清堂帖』という集帖を作ったと言われている。
この手法が次代の北宋にも受け継がれ、広く行われるようになった。

北宋代は書作よりも昔の書の研究や蒐集・鑑定が広く行われ、書に対して学問的アプローチの行われた時代であった。
朝廷でも皇帝の趙匡胤や太宗 (宋)自らが書の研究や蒐集を愛好し、淳化3年(992年)には翰林侍書の中国の書家一覧王著に命じて、王羲之を中心とする古今の書蹟を集めた書蹟集『淳化閣帖』全10巻を編纂させた。
この際に用いられたのが、模刻の手法だったのである。

これにより、模刻は搨模に代わって模写の主流となった。
一度彫ってしまえば保存が利く上、いくらでも拓本を採って複製を作ることが可能な模刻は、学書者にとっても研究家や蒐集家にとっても最適であったのである。

これ以降、昔の書蹟を模写し法帖化するには、模刻が必ず用いられるというほどに普及することになる。

欠点の露呈と終焉
だが、模刻が広まるにつれ、段々とその欠点が露呈して信頼性が下がってきた。

模刻は確かに保存性にも複製性にも優れている。
しかし、その石や木自体を製作する過程で、一度原本から文字を模写する必要があるし、さらにその文字を彫らなければならない。
このことは字を模写する人間や彫る職人の腕に、直接模刻の出来がかかっていることを意味している。
このため、同じ書蹟を模刻しても出来にばらつきが生じて来るのである。
それに複数人の手を経て記録を伝写すること自体が、途中で誤りを生む要因にもなる。

またいくら紙よりは保存性がよいといっても、石や木は永遠不滅のものではない。
それに人気のある書蹟ならば、1回模刻しただけではどうしても足りない。
かくして時代を越えて模刻の拓本から模刻が行われ、そこからさらに模刻が行われるという模刻の乱発と法帖の乱造が発生した。
そして、写本と同様に誤りが累積する結果になった。

そしてさらに模刻の信頼性を下げたのが、偽物の横行である。
本格的に模刻の始まった『淳化閣帖』からして既に大量の偽物が紛れ込んでいた。
いかに書蹟の贋作が広く行われていたかが分かる。
これは「模刻」という手法自体に責任のある話ではないが、模刻の乱発で書蹟が無批判のままに引き写される行為が日常化したことにより、偽物が混じりこむ隙を作った責任はやはり免れ得ない。

このような欠点を強く指摘したのが、清代に起こった考証学である。
考証学の基本姿勢は「実証的にものごとを分析すること」であり、そういう態度からすれば過去の模刻の姿勢はあまりにいい加減なものであり、批判すべき対象であった。

さらにこのような模刻に対する批判は、それを用いて伝承されて来た法帖自体に対する疑惑と碑への傾倒に発展した。
つまり模刻を何度も経ている法帖は信用がならないが、風雪にさらされるなどしてもある程度までそのままの姿を留めている碑の方が信頼出来ると考えたのである。

なかんずく阮元は、南北朝時代 (中国)に北朝で彫られた碑である北碑と南朝の法帖・南帖を比較して「北碑南帖論」を著し、先述の論理から北碑を南帖よりも優れたものとして断じ、包世臣など多くの学者がこれに賛同した。
この他にも篆書や金文など碑しかなかった時代の書の研究が盛んになったこともあり、完全に清の書道界は碑を学ぶ「碑学」主体となった。

このような流れの中で模刻は結果的に法帖の価値を損ね、学界の主流を法帖から外してしまった戦犯ということになった。
また、技術面でも印刷術の発展によって模刻という手法自体が時代遅れとなり、自然消滅せざるを得なくなったのであった。

評価
上述のように模刻はさまざまな欠点をはらみ、結果的に一時とはいえ法帖の信頼性を失わせるところまで追い込んでしまった問題のある伝写法であるが、一方でこの模刻によって現在散逸した書蹟が伝わっているという事実があることも忘れてはならない。

たとえば王羲之・王献之の親子、いわゆる「二王」には真筆が遺されていない。
自然に散逸した結果である。
しかし、代表作「蘭亭序」だけはせっかく真筆が残っていながら、唐の太宗 (唐)の過剰な独占欲のために陵墓に埋められ、残る機会を失うという不幸に見舞われた。
我々がそんな「二王」の書蹟を知ることが出来るのは、この模刻によって累々と書蹟が伝写されて来たからに他ならない。
またこの親子のものだけでなく、もし模刻が存在しなければ伝わることがなかったと思われる書蹟も数多い。

このようなことを考えると、書道界における模刻の功績は決して軽くはなく、むしろその存在に負うところが多いことが分かる。
このため模刻本と対することは書道研究の上で避けられない事態であり、そのような時は「模刻」という行為の特性とその行為がはらんでいるリスクを理解した上で、よく考えて使用する必要がある。

[English Translation]