演歌 (Enka (Japanese Ballad))

演歌(えんか)とは、日本の大衆音楽のジャンルのひとつであり、日本人独特の感覚や情念にもとづく娯楽的な歌曲の分類であるとされている。
歌手独自の歌唱法や歌詞の性向から、同じ音韻である「艶歌」や「怨歌」の字を当てることもある。

特徴

演歌が用いる音階の多くは日本古来の民謡等で歌われてきた五音音階(ペンタトニック・スケール)が用いられることが多い。
すなわち、西洋音楽の7音階から第4音と第7音を外し、第5音と第6音をそれぞれ第4音と第5音にする五音音階を使用することから、4と7を抜くヨナ抜き音階と呼ばれる音階法である。
この音階法は古賀正男、後の古賀政男による古賀メロディとして定着した、以降演歌独特の音階となる。
古賀メロディーについては、初期、クラシックの正統派・東京芸大出身の藤山一郎(声楽家増永丈夫)の声楽技術を正統に解釈したクルーン唱法で一世を風靡した。
しかし、やがてそのメロディーは邦楽的技巧表現の傾向を強め、1960年代に美空ひばりを得ることによって演歌の巨匠としてその地位を確立した。
小節を利かしながら、それぞれの個性で崩しながら演歌歌手たちが古賀メロディーを個性的に歌った。

歌唱法の特徴としては、「小節(こぶし)」と呼ばれる独特の歌唱法が多用される。
又、必ずと言ってよいほど、「ビブラート」を深く、巧妙に入れる(例えば2小節以上伸ばす所では2小節目から入れる、等)。
この2つは演歌には不可欠といって良いが、本来別のものにもかかわらず、混同される場合も多い。

演歌歌手(とくに女性)は、日本的なイメージを大切にするため、歌唱時に和服を着用することが多い。

歌詞の内容は“海・酒・涙・女・雨・北国・雪・別れ”がよく取り上げられ、これらのフレーズを中心に男女間の切ない愛や悲恋などを歌ったものが多い。
美空ひばり「悲しい酒」、都はるみ「大阪しぐれ」、大川栄策「さざんかの宿」、吉幾三「雪國」など。

上記のような特徴を兼ね備えた、いかにも演歌らしい演歌に対して、「ド演歌」(ど演歌)といった呼称が使われることがある。

また、男女の情愛に特化されたジャンルで、演歌よりも都会的なムード歌謡というものがある。

とはいえ上記の特徴をもってしても、演歌とそれ以外のジャンル(歌謡曲など)を明確に分類することは難しい。
たとえばジャズピアニストの山下洋輔は、“音楽理論的に両者を分類することができない”の意で「演歌もアイドル歌謡も同じにしか聞こえない」と述べていたといわれる。

男女間の悲しい情愛を歌ったもの以外のテーマは、下記のとおりである。
幸せ夫婦物…村田英雄「夫婦春秋」、三笠優子「夫婦舟」、川中美幸「二輪草」など。

母物…菊池章子・二葉百合子「岸壁の母流行歌」、金田たつえ「花街の母」など。

その他家族物…鳥羽一郎「兄弟船」、芦屋雁之助「娘よ (シングル)」、大泉逸郎「孫 (大泉逸郎の曲)」など。

人生物、心意気物…村田英雄「人生劇場」、「花と竜」、北島三郎「山」、「川」、中村美律子「河内おとこ節」など。

股旅物…ディック・ミネ「旅姿三人男」、橋幸夫「潮来笠」、氷川きよし「箱根八里の半次郎」など。

任侠物…北島三郎「兄弟仁義」、高倉健「唐獅子牡丹」など(股旅物に近いが、股旅物は軽快、任侠物は重厚な曲調が多い)。

歌謡浪曲物…三波春夫「俵星玄蕃」、「紀伊国屋文左衛門」、など。

劇場型ドラマチック物…山口瑠美「山内一豊と妻千代」、「至高の王将」、「白虎隊」など。

:望郷物…北島三郎「帰ろかな」、千昌夫「北国の春」、「望郷酒場」など。

以上のどれにも当てはまらない物として細川たかし「北酒場」。
作詞家が見た“北の酒場通”の様子がポンと描かれただけで、演歌特有の情景が全く入っていないのが新鮮に受け取られレコード大賞を受賞した。

しばしば「演歌は日本人の心である」といったような言及がなされることがあるが、前述のヨナ抜き音階は本来の日本の伝統音楽にみられる音階ではないことに注意を要する。
またこのジャンルの発展に決定的な役割を果たした古賀政男は、少年時代を過ごした朝鮮をはじめロマなど世界各地の民族音楽や西洋音楽からの影響も作品に盛り込んでいる。
このように演歌を日本的な音楽の典型とする見方は必ずしも正しくない。

演歌は日本の大衆に受け容れられ、流行音楽の一つの潮流を作り出してきたが、一方でその独自の音楽表現に嫌悪を示す者も少なくないのもまた事実である。
日本の歌謡界に大きな影響力のあった歌手の淡谷のり子は演歌嫌いを公言し、「演歌撲滅運動」なるものまで提唱したほどだった。
作曲家のすぎやまこういちも「日本の音楽文化に暗黒時代を築いた」と自著に記している。

歴史

創生期
もともと「演歌」と称される歌は、演説歌の略語であり、自由民権運動の産物だった。
藩閥政治への批判を歌に託した政治主張・宣伝の手段である。
つまり、政治を風刺する歌で、演説に関する取締りが厳しくなった19世紀末に、演説の代わりに歌を歌うようになったのが「演歌」という名称のはじまりといわれる。
この頃流行ったのが「オッペケペー節」を筆頭に「ヤッツケロー節」「ゲンコツ節」等である。
他にも政治を風刺する歌はあったが、これ以後、「演歌」という名称が定着する。
明治後半から、心情を主題にした社会風刺的な歌が演歌師によって歌われるようにもなり、次第に演説代用から音楽分野へとシフトするようになった。

大正になると演歌師の中から洋楽の手法を使って作曲する者も現われた。
鳥取春陽の登場である。
彼の作曲である『籠の鳥』は一世を風靡した。
ただしこのような歌は「はやり唄」と呼ばれ、通常「演歌」には入れない。

流行歌の時代へ
昭和に入ると、外資系レコード会社が日本に製造会社を作り、電気吹込みという新録音システムも導入され新しい時代を迎えた。
しかし、昭和3(1928)年の佐藤千夜子や二村定一、昭和6年の藤山一郎の登場により「流行歌」と呼ばれる一大分野が大衆音楽の世界をほぼ独占し、しばらく「演歌」は音楽界から退場することになる。

なおこの時期の大衆音楽をも「演歌」扱いすることがあるが、本来的には演歌・歌謡曲・声楽曲全ての音楽性が渾然一体となった独特の音楽性を持っており、同一視出来ない。
ただし上述した古賀政男の作品「吉良の仁吉」、あるいは「こぶし」を利かせた唱法を使った人気歌手上原敏などは、広沢虎造ら浪曲師の影響を受けている。
これらの例からも、作者や歌手が一部重複しているのは事実であり、この「流行歌」時代に育まれた音楽性や技巧を基にして現在の「演歌」が生まれているので、演歌を語る上で無視は出来ない時代である。

1950年代(復興期)
戦後も日本の大衆音楽は「流行歌」によっていたが、新世代の台頭と1953年の藤山一郎の引退により音楽性が揺らぎ始め、次第に今の演歌に近い曲が出現し始めた。
この時期既にブギウギで流行歌歌手としてデビューしていた美空ひばりも音楽性をシフトさせ、キングレコードから望郷歌謡の春日八郎、三橋美智也、ビクターレコードから任侠路線のスター鶴田浩二、テイチクレコードから浪曲出身の三波春夫、戦後の大スター石原裕次郎、コロムビアレコードからは三波と同じく浪曲界より村田英雄がデビュー。
更に泣き節の島倉千代子、マイトガイ小林旭らが登場。
民謡や浪曲などをベースにし、それまでの「流行歌」とはかなり質の異なる現在の演歌に近い作風となった。
この時期のヒット曲に「お富さん」「別れの一本杉」「哀愁列車」「おんな船頭歌」「古城」「チャンチキおけさ」「船方さんよ」「からたち日記」「人生劇場」など。

1960年代
1963年、演歌専門のレコード会社・日本クラウンの独立とさまざまな音楽の流入により「流行歌」が消滅し、多数の音楽分野が成立した。
その中で、ヨナ抜き音階や小節を用いたものが「演歌」と呼称されるようになったのである。
昭和戦前に途絶した「演歌」分野の再来であるが、演説歌を起源とする旧来の演歌は、フォークソングに引き継がれ、社会風刺的要素は全くなく、名称だけの復活となる。
(演説歌が「フォーク」と呼称されるようになり、演歌と呼ばれなくなったことで、ヨナ抜き音階や小節を用いた歌謡曲が「演歌」と呼称されるようになったとの見方もある。)

この時期映画スターの高倉健も歌手デビュー、北島三郎、橋幸夫、都はるみ、青江三奈、水前寺清子、千昌夫、森進一、藤圭子、小林幸子(わずか10歳でデビュー)コミックバンド派生の宮史郎とぴんからトリオ、殿さまキングスなどが登場した。

作曲家は流行歌から転身した古賀政男にくわえ、吉田正、猪俣公章、船村徹、市川昭介、流しから転身した遠藤実、ロカビリーから転身した平尾昌晃が登場、作詞家ではなかにし礼、星野哲郎、岩谷時子、山口洋子、川内康範らが登場。
「王将 (楽曲)」「皆の衆」「潮来笠」「三百六十五歩のマーチ」「北帰行」「港町ブルース」「池袋の夜」「柔 (楽曲)」「悲しい酒」「函館の女」「兄弟仁義」「帰ろかな」「柳ヶ瀬ブルース」「伊勢佐木町ブルース」「星影のワルツ」などがヒットし、老若男女から支持され演歌は空前の全盛期を迎える。
(ワタナベエンターテインメント所属の歌手に代表される)洋楽指向の歌謡曲と人気を二分した。

ただし演歌と歌謡曲との間に明確な分岐ラインが存在するわけではなく、むしろ歌手(およびレコード会社など)が「自分は演歌歌手」と称するかどうかが分かれ目と見る向きもある。
例えばグループサウンズ時代、ど演歌節の旅がらすロックを歌った井上宗孝とシャープファイブは演歌歌手には含まれないと見る向きが多い。

1970年代
1970年代に入ると五木ひろし、八代亜紀、森昌子、石川さゆり、細川たかしなどが登場。
「なみだの操」「夫婦鏡」「女のみち」「女のねがい」「おやじの海」「よこはま・たそがれ」「傷だらけの人生」「くちなしの花」「ふるさと (五木ひろし)」「喝采 (ちあきなおみ)」「せんせい」「心のこり」「与作」「舟唄」「昔の名前で出ています」「北の宿から」「津軽海峡・冬景色」「おもいで酒」「北国の春」「夢追い酒」など多くのヒット曲が生まれ、フォーク、ニューミュージック、アイドル歌謡などと競い合いながら安定した発展を見せていた。
一方で1974年には森進一がフォーク歌手の吉田拓郎作の「襟裳岬 (森進一)」でレコード大賞を受賞するなど演歌と他のジャンルとのコラボレーションがはじまった。
以後演歌かその他の音楽ジャンルか分別の難しい曲も登場することとなる。

1980年代〜1990年代
1970年代後半から80年代にかけて中高年の間でカラオケブームが起こり、細川たかしのようにカラオケの歌いやすさを意識した演歌歌手が台頭した。
カラオケ向けの楽曲作りとマーケティングが始まる。
若者のポップス志向がより強くなり演歌離れが進む。

1980年代半ば以降、若者と中高年の聞く歌がさらに乖離していく傾向が強まっていった。
テレビの歌番組も中高年向けと若者向けが別々になり、年代を問わず誰もが知っている流行歌が生まれにくい時代となった。
若者もカラオケに夢中になる様になり、日本のポップスもカラオケ向けの楽曲作りとマーケティングが始まる。
演歌が中高年のみの支持に限定されてきたことや、素人がカラオケで歌いやすいことが尊ばれ、北島三郎のように圧倒的な声量や歌唱力を誇る歌手や、森進一のように独特な声質と歌唱法をもつ個性的な歌手が実力を発揮しにくくなり、テレビへの露出が減少した。
そのため緩やかな保守化と衰退が始まった。

1980年代から1990年代前半にかけて伍代夏子、坂本冬美、香西かおり、藤あや子など、この時期にデビューしヒットを出した中堅歌手も存在する。
また島倉千代子の「人生いろいろ」、美空ひばり「川の流れのように」など大御所歌手も健在ぶりをアピールしている。

吉幾三や長山洋子など他ジャンルからの演歌転向者や、ニューミュージックから演歌に転向した堀内孝雄や、ポップス寄りの演歌を歌う桂銀淑のように独自のスタイルでヒットを出す歌手も現れ、「ニューアダルトミュージック」という新しいジャンル名も生まれた。

主なヒット曲には「雨の慕情」「おまえとふたり」「大阪しぐれ」「みちのくひとり旅」「奥飛騨慕情」「さざんかの宿」「兄弟船」「氷雨」「娘よ」「北酒場」「矢切の渡し (細川たかし)」「長良川艶歌」「つぐない」「時の流れに身をまかせ」「すずめの涙」「夢おんな」「雪國」「酒よ」「雪椿」「命くれない」「恋歌綴り」「むらさき雨情」「こころ酒」「夜桜お七」「蜩」「珍島物語」など。

緩やかな衰退の中で分化し、演歌の中に新ジャンルが発展しつつあった。
しかし1990年代も半ばを過ぎると演歌の衰退は激化し、1990年代末には演歌の新曲CDが数十万枚単位でヒットする例は極めて少なくなってしまった。

2000年代
2000年に大泉逸郎の「孫」や氷川きよしの「箱根八里の半次郎」が大ヒットし、一時的ではあったが、久しぶりの大ブームが起こった。
ただし「孫」は大泉と同年代かそれ以上の中高年層の間でのヒットであり、10代、20代にも人気を博した氷川きよしの場合は演歌歌手としては規格外のルックスにより若者受けした部分が大きく、歌そのものへの評価は以前とそれほど変わらなかった。

一方で前川清の「ひまわり」(2002年ヒット;福山雅治プロデュース)のように演歌歌手がポップスを意識した楽曲を発表するような動きも増えている。
そのため、これまでのジャンルとしての演歌の枠に納まらない楽曲も多くなり、ジャンル名としての呼び名が演歌から演歌・歌謡曲と呼ぶようにもなりつつある。

一時期1人、または2~3人だった大型新人演歌歌手のデビューも毎年4~5人まで増えている。
また、ランキング上位を占めていたJ-POP全体の売り上げが停滞するにつれ、相対的にランキングでも上位に顔を出すことが多くなっている。

また、2008年にデビュー曲「海雪」がヒットしたジェロは初の黒人演歌歌手として注目され、日本のヒップホップ2008年スタイルのファッションでの演歌歌唱も話題となりヒットとなっている。

更に、鼠先輩、美月優の様な異色スタイルの歌手が出現。
ジェロの活躍ぶりに感化され、かつてインド人演歌歌手として活躍していたチャダも再来日し、音楽活動を再開した。

現在の浸透性

現在、50~60代以上の高年齢層限定のジャンルという認識が強いのは否めず、若い世代のファンが圧倒的に少ない。
個性と実力を兼ね備え、演歌という新ジャンルの土台を築いた、春日八郎・三橋美智也・三波春夫・村田英雄らの男性歌手や、演歌の女王と称された美空ひばり(「歌謡界の女王」とも呼ばれる)等がすでに亡くなっており、その後に続いた北島三郎や五木ひろし、森進一などの大御所歌手も実力を発揮し切れていない状況である。
大泉逸郎『孫』、氷川きよし『箱根八里の半次郎』以来大ヒットはなく、全体的な低迷が続いている。
また、1960年代以降に洋楽のロックや日本製のフォークやニューミュージック、アイドル歌謡などを聴いていた戦後生まれの世代が中年層になっても演歌に移行せず、ロック・フォークなどを聴き続けている者が多い。
このことから、演歌ファンの高齢化が顕著になっている。

カラオケブームの時期に少年、思春期から青年期を過ごした30代~50代の中、壮年層の中では親の影響も手伝い比較的認知度は高い。
しかし、認知はしているが、聴く或いは唄う対象にはされず、敬遠される傾向が強い。

10代、20代の若者の中には代表的なヒット曲や、歌手の存在自体をも認知していない者も少なくない。
ただし、一部ではあるが趣味、余興として激烈なファンが存在することも事実である。
(テレビ番組に出演し話題を呼び、北島三郎のもとに弟子入りし、プロデビューを果たした大江裕はこの典型といえる。)

2007年、ブラジルのサンパウロにて行われた、日本人の移民100周年を記念したイベントでは日本の音楽としてJポップ等ではなく演歌が流された。
(大城バネサや南かなこのような南米出身の日系演歌歌手もいる。)
海外では『日本の歌といえば演歌』というイメージが強い一例とも言えよう。

そのほかの演歌の他国における受容を見てみると、アフリカのエチオピアにおける国歌やポップスがヨナ抜き音階や歌唱法などの点で日本の演歌に酷似しているという事実があげられる。
これは朝鮮戦争時に日本にやってきたエチオピア兵が演歌に感動してその特徴を研究し、それを自らの音楽に取り入れたためである。
エチオピアでは細川たかし、都はるみなどの日本の演歌歌手も広く受け入れられている。

これらの例は、演歌がすでに日本だけのものではなく、また、グローバルな広がりを持った歌であるという傍証となる事実だろう。

韓国の演歌(トロット)

大韓民国にも日本の演歌の影響を強く受けたトロットと呼ばれる(昭和に入って民衆歌謡に変節して以降の)大衆歌謡分野が存在する。
戦後朴正煕政権時代までは、トロットを指す言葉として「演歌」の韓国語読みである「ヨンガ」が用いられることも少なくなかったが、後の倭色追放運動によって日本語由来である演歌(ヨンガ)という呼称は使えなくなり、もっぱらトロットと呼ばれるようになった。

演歌の曲想
演歌のテーマは、別れや失恋など、悲しさや遣瀬なさといったものが多いため、ほとんどが短調である。
長調でかかれているものは、ヨナ抜き音階のものが多い。

[English Translation]