火縄銃 (Hinawaju (matchlock gun))
火縄銃(ひなわじゅう、英語:matchlock gun)は、初期の鉄砲の形態のひとつ。
先込め式で、黒色火薬を使用する。
火縄銃は、15世紀末にヨーロッパで発明されたと考えられ、マッチロック式銃とも言う。
引き金を引くと火をつけた火縄が火皿と呼ばれる部品に落ちる。
火はそこから口薬(くちぐすり)と呼ばれる微粉末黒色火薬に引火し(胴薬)(どうぐすり)または玉薬(たまぐすり)と呼ばれる装薬に伝わり、そこで一気に燃焼(爆燃)、弾丸を射出する仕組みになっていた。
方式としては瞬発式火縄銃と緩発式火縄銃とがある。
銃刀法の規制対象となっている。
概説
それ以前の銃器は、火種(火縄など)を手で押し付ける方式(タッチホール式)であった(宋 (王朝)の「突火槍」、明の「火竜槍」、1300年頃のロシアの「マドファ」など)ことから、扱いが難しく命中精度も低かった。
この欠点を補うため、火縄をS字型金具(サーペンタイン)ではさんで操作するサーペンタインロック式が考案され、さらに銃床など構造面の整備が進み、火縄銃が完成した。
日本には1543年に種子島に鉄砲伝来したことから、種子島銃あるいは単に種子島と呼ばれた。
(後述、但し厳密にはすべての火縄銃を「種子島」と云わず、比較的に太く短いものをさすことが多い)
マッチロック式は命中精度と射程距離の向上など銃の性能を大きく向上させた。
その一方で、火種・火縄を常に持ち歩く携帯性の悪さや失火の危険、夜戦で敵にこちらの位置を教えることになる、雨天に極端に弱い等、改善すべき弱点はまだ数多かった。
これらを克服するため、ヨーロッパでは回転する鋼輪(ホイール)に黄鉄鉱片を擦り付けて着火する方式(ホイールロック式)や、燧石(火打ち石:フリント)を鉄片にぶつけて着火する方式(フリントロック式)が発明された。
博物館の中の火縄銃と、現代のライフル銃などを比較すると、グリップ付近の形状が大きく異なる。
これは、火縄銃は火薬の大きな反動を受け止める必要がなかったクロスボウの影響を受け、その弓部分を取り払った形態にデザインされていた為と言われる。
そのため、現代のいわゆるライフル銃のように台尻を肩に当てて、脇を締めて発射することはできず、弓を番えるように肘を外に張って射撃するスタイルで使用されていた(但しヨーロッパの火縄銃は肩当ストック型のものの方が多く短床型の方が少数派)。
なお、日本における火縄銃が頬付け形に終始し、肩付け形の銃床にならなかった。
その理由として、戦国期においては鎧武者による射撃に適さないことや鉄砲狭間からの射掛けにおいて邪魔であるという用兵上の事情、泰平期においては流儀による形態・射法の継承による硬直化等が指摘されている。
日本での火縄銃史
従来、『鉄炮記』の記述により日本への鉄砲伝来は1543年の種子島より始まるとされてきた。
しかし、近年では、東南アジアに広まっていた火器が1543年前後に倭寇勢力により日本の複数の地域に持ち込まれ、伝来当初は猟銃として用いられていたとする説も提示されている(宇田川武久説)。
だが、欧米の研究家の間では、欧州の瞬発式火縄銃が日本に伝えられて改良発展したものが、逆にオランダによって日本から買い付けられて東南アジアに輸出され、それらが手本となって日本式の機構が東南アジアに広まったものとする説が有力である。
つくば科学万博においてポルトガル館で展示された「スリランカの火縄銃」は、日本製の銃に現地好みの木象嵌を銃床に施した「輸出仕様の堺筒」であるとの見方が日本の古銃研究家の間から出されており、この説を裏付ける資料とされる。
戦国時代以降、日本では近江国の国友、同じく日野、紀州の根来寺、和泉国の堺が鉄砲の主要生産地として栄えた。
根来のみは織田信長・豊臣秀吉による紀州攻めの影響で安土桃山時代期以降衰退したが、国友・日野・堺はその後も鉄砲の生産地として栄え、高い技術力を誇った。
また、築城技術でも火縄銃の性能を活かした横矢掛かり(これ自体はすでに存在していた)などが発達し、赤穂城などに応用された。
日本の銃器が伝来から幕末までの永きに渡り火縄銃から進歩しなかった。
その理由として、江戸時代に入って徳川綱吉によって諸国鉄砲改めによる百姓の狩猟及び銃の原則所持禁止、銃器の移動制限がなされたことや、鎖国の影響による技術進歩の停滞という通説、フリントロック式は火縄式に比べ強力なバネが装着されており、撃鉄作動時の衝撃が大きく、引金を引いてから一瞬遅れて装薬に着火する機構のため銃身がぶれ、火縄銃に比べ命中率が悪く「一発必中」を好む日本人から嫌われたらしいことのほかに、日本では良質の火打石が産出せず大量生産ができなかったこと、またおそらくはすべての武術と同じく鉄炮術も一種の競技的な要素を含んで流派形式で継承されたため、その結果必然的に器具類の改変は避けられた、という要素も大きかった。
幕末に実戦を前提として新式銃が輸入されるまでほとんどの銃器が火縄式のままであった。
但し例外として、各大名諸藩で極秘裏に様々な銃器が研究されていたことも事実であり、そのバリエーションは多岐にわたる。
幕末新式銃渡来直前に海外事情も考慮してパーカッション式の銃器すら模造、試作されたものの他には、実用の可能性を想定していたものかどうかは何とも評しようがないものが多い。
火皿を3つ付けたものや、銃身がリボルバーのように回転する物など三連発の火縄銃や水平二連式短銃など、様々なものが試製されていた。
使用方法
基本的な方法は以下のとおりである。
火縄に着火しておく。
複数の着火した火縄を準備することが多い。
また、火縄の両端に火をつけ、それを二つ折りにして火口を左手の指に挟み持って待機する「二口火(ふたくちび)」という方法もある。
銃口へ発射薬である胴薬と弾丸を装填する(後に早合が発明されると装填の手間は大幅に軽減した)。
火薬と弾丸はさく杖で銃身の奥へ押し固める。
火皿に点火薬である口薬を入れ、火蓋を閉じ、火の点いた火縄先を火挟(ひばさみ)に挟む。
この口薬の容器は長さ5 - 8cmの水筒型が定番であり、火薬を注いだ後、手を放すと自然に腰にぶら下がり、キャップが注ぎ口に被さる仕組みになっている。
これを腰にぶら下げるのが典型スタイルである。
目標を見定め火蓋を切る(パンカバーを開ける)
構えて狙いを付ける。
標的の体に当る可能性を高める為に胴体の中心を狙う。
距離は標的の目の白黒が見える位、とされた。
引き金を引き発射。
再装填。
熟練兵士なら約20秒に一発発射したという(昭和末期の実験では18秒程度)。
兵士の配置
火縄銃は、戦国時代中期以降、足軽の主要武器の一つとしてその比重を増していった。
日本の戦国時代から江戸時代においては備ひとつに対し、鉄砲組(20 - 50名)を1、2組配しているのが基本である。
戦の開始のときや、勢いに乗り突進してくる敵兵に対し一斉射撃を浴びせ進撃を止まらせるときなどに使用された。
兵士同士が密集したか否かについては議論がある。
火の粉が飛び散る中で火薬を使用するので暴発しかねず、相互に安全な距離を取ったという見解がある。
二段撃ち:2列横隊に並び、前列が片膝をつき、後列が直立して射撃する。
佐々成政が考案したという記録が残っているが、実際に採用されていたのか、上記の議論上問題がある。
三段撃ち:長篠の戦いで織田軍が採用したという著名な配置。
雑賀衆が遅くとも1568年あたりまでにはすでに実戦で用いていたという説もある。
この三段撃ちについても大議論がある。
1人の射撃手に数丁の火縄銃と数人の助手が付き、射撃手が射撃している間に助手が火縄銃の装填を行う方法があり、これにより素早い連射が可能である。
鉄砲傭兵集団としてその名を知られた雑賀衆、根来衆の得意スタイルである。
石山合戦で本願寺側に付いた彼らは、織田勢を大いに苦しめた。
この射撃手・助手を分業する射撃運用法を烏渡しの法と上杉流軍学では称したと伝えられ、また後世紀州徳川家においては薬込役という、御庭番の前身である職名にその痕跡を残している。
発射速度
次弾発砲までに「銃身内の火薬残滓を洗い矢で拭う」(数発撃つと銃腔にすすがこびり付き弾が入らなくなるため、槊杖の先に水に濡らした布を付けて拭う)「火穴にせせり(ヴェントピック)を通す」「銃身を冷やす」(但し、1分間に1発程度のペースで発砲するのであればこの必要は全くない)など、一般に次弾装塡の際に行うべき事は多いと言われる。
しかし、これらは後世に科学技術の進歩を強調するための「たとえ話」として語られたものであり、実際にはこの作業を1発ごとに行う必要はなく、数発に一度行えばよい。
関流砲術では、7発位撃つと弾が入り難くなると伝えている。
また、「劣り玉」と呼ばれる適合弾より若干径が小さい弾を使用すれば、目標への集弾性は低下するものの、10発以上の連続発射が可能である。
(江戸時代の射的で一般的な、射距離十五間では劣り玉でも命中率は殆ど変わらないが三十間を超えると低下が見られる)
また銃腔内や火皿の清掃は頻繁に行う必要はなく、弾が込め難い等の異常を感じたら行えば済む。
その方法も、黒色火薬が水に溶けやすい特性から、洗矢の先に水で湿らせた布切れを付けたものを銃口から差込み1〜2往復させれば完了する。
熟練した者ならば第1弾発砲から18〜20秒後に次弾発射できる。
(昭和末期に実験済み)
とはいえ、現代の銃に比して先込め銃は単体では連射に向かないものであることは上記のプロセスなどからも容易に窺える。
この「次弾発射までに時間がかかる」という先込め式最大の問題点を改善するため、火縄銃が用いられた戦国時代 (日本)の日本では、「早合」(装塡を簡便にするための弾薬包)「複数人でチームを組む」「銃身を複数設置する」など、様々な(時には奇天烈な)発想がなされている。
火縄銃の登場による陣形の変遷
野戦隊形における集中射撃法が実用化されたのはヨーロッパにおいてであり、最も初期のものはテルシオと呼ばれる、長槍(パイク)の密集方陣の進撃に際して四周に随伴した銃兵が相手方の方陣と至近距離まで接近し、接触寸前になった時点で発砲して第一次打撃を期待するものである。
この方式は銃剣の発明以前であり、発砲を終えた銃兵は有効な戦力ではないから、退避行動を取ったとされている。
実際の戦闘はパイク兵が主体であった。
射撃手前後交替の発想が見られるものとしては騎兵のカラコール戦術が対テルシオ戦法として用いられた事が挙げられる。
これは概ね1530年代頃からである。
装填に時間と防御上の弱点が生じることを解決する手段として、縦列で行進する銃兵の最前者が発砲し、発砲後直ちに最後尾に駆け戻って装填作業をしながら行進を続行するという方式が考え出されたが、それを行うには非常に訓練を必要とした。
オランダ・ナッサウ伯マウリッツ (オラニエ公)がおよそこの創始者であろうと推察され、概ね1584年頃の事とされている。
今日マウリッツは軍制改革の父と呼ばれているが、その功績は射撃法ではなく、それを達成する為の猛烈且つ間断なき訓練が、寄せ集め傭兵の集合体であった当時の軍隊を一種の帰属意識に基づく団結心を持った集団に変え得る予期外の効果を持つという事を発見したという点が評価されている。
またマウリッツは、歩騎砲の三兵が連動して機動戦術を採る事を発案し且つ可能にした軍事家としても評価されている。
ここで、個別の兵種がそれぞれ独自に機能を発揮するのではない。
ただこの縦列交替法が大きな効果を発揮したらしい記録はなく、またこの運動方式には鈍重さが宿命的に付きまとったため、マウリッツ自身の戦死の原因をそこに求める考え方もある。
この時代を火縄銃時代とするかどうかには疑問があるが、燧石式移行時代の終わり頃とも考えられる。
実際に前後交替射撃法が実用化するのは燧石式に移行してからであり、燧石式の機能改善もそれに相当の貢献をしたと考えられる。
また銃剣の登場もこれに大きく寄与していると考えられるが、同時にこの時代は大砲の運用が飛躍的に改良されており、銃兵の交替射撃のみが戦線の状況を変革させたと論じるのは未だ大きな検討を要するであろう。
これらは概ね17世紀末から18世紀初頭の現象である。
障害物に拠る投射兵器の運用
装填その他に伴う初期銃の弱点を補う為に障壁・城壁・障害物あるいは特殊な地形等によって防御された場所から、機動してくる野戦軍を射撃しようという試みは早くから行われている。
最も著名な例は1503年イタリア戦争中、スペイン軍人ゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドバが行った戦法で、急造の堀とその残土を利用した土手に拠った二千名と推定されるアルケブス銃兵を指揮して、押し寄せたフランス重騎兵団を粉砕し、スペインの覇権確立の重要な要因となった戦いがある。
続いてイタリア戦争においても、1522年同じくスペイン軍の傭兵隊長コロンナがミラノ郊外ビコッカにおいて、地形と急造塁壁を利用したアルケブスの反復射撃戦法で、押し寄せたスイス槍兵集団を粉砕している。
ちなみに種子島に火縄銃が伝来したとされるのはこの20年後の事である。
最も古い例としてドイツで発生したフス戦争(1419 - 1436年)において、フス派信徒が円陣配置した荷車を防壁にしてハンドガンで射撃するという戦法を採ったとされている。
何れの戦いにおいても交替に射撃したとは言われているが、号令方式などによる統制交替射撃が行われたとする根拠はない。
これら一連の戦いに共通する要素は以下のとおりである。
比較的格闘戦能力に劣る部隊もしくは少数部隊が、自然もしくは人工の障害と飛び道具を利用して防戦態勢をとり、押し寄せる強力な伝統的野戦軍を破った。
この原型は中世から近世初期にかけての軍事知識として、英仏百年戦争におけるクレシーの戦い(1346年)が著名である。
この戦いは火砲の使用が初めて記録された戦いとしても有名であり、また馬防柵を急造設置したらしい痕跡が現在発掘調査で明らかになりつつあると言われているが、火砲は使用されたとしても極少数であり、使用の事実及び効果に付いてはまだ今後の研究を待つ所が大きい。
しかしながら、この戦いは丘陵地形を利用した弓兵集団の集中射撃によって、これまで無敵とされた重武装騎士の集団突撃を阻止粉砕するという戦果を残した。
さらに同戦争末期、アジャンクールの戦い(1415年)において、全く同様な事が繰り返された。
この時には火砲の使用に記録はないが、馬防用の先端のとがった杭の携行については、英国王ヘンリー5世 (イングランド王)の命令が記録されている。
これも弓兵集団と騎士団の戦闘で騎士団が全滅した戦いの例である。
これらの知識が新しく登場した特長と弱点を併せ持つ鉄砲の運用に応用された成功したのは、まず間違いはないであろう。
日本において、信長周辺にこれらヨーロッパ軍事知識がどのように伝わっており、長篠の戦闘などに応用されたという可能性は興味深く、今後の研究が待たれる。
火縄銃の名称
一般に(アルケブス)もしくは同音のなまったものがよく知られている。
燧石式銃については(スナップハンス)(ミュクレット)(フリントロック)などの名称が知られ形式上の分別とされているが、その発祥は火縄銃同様明確な記録はない。
(アルケビュス)については一つの説として、さらに初期の手砲の一形式に棒の先につけた金属筒に鉤状の突起を設け、発射時は鉤を委託物に引っかけ棒を地上に押さえ付けて発射した形式があり、これをドイツ語系で(ハーケン・ビュクセ=鉤付筒)と呼んだだのが語源で、フランス語系で類似した(アーケン・ビュッス→アルケブス)と発音が訛化したのであろうという説がある。
さらに別の説にフランス語系の(アルク・ビュッス筒形弓)を起源とする説もある。
恐らくは両方が混在しつつ、俗称通称化したものであろう。
日本における分類
日本における火縄銃の分類として弾丸重量によるものと製作地・流派によるものの二つに大別される。
弾丸重量による分類
小筒
弾丸重量が三匁半程度のものを指す。
威力は低いが安価で反動が少ない為、猟銃や動員兵への支給銃として用いられた。
また、防御力の薄い明・朝鮮の兵にはこれでも十分な威力を持っていた為、文禄・慶長の役では大量に用いられた。
中筒
弾丸重量が六匁程度のものを指す。
小筒に比べて威力が増大した分扱いが難しい上に高価なので、臨時雇いでなく継続して主人に仕える足軽が用いる銃とされた。
当世具足や竹束などの火縄銃に対応した防御装備が広まった結果、小筒に替わり主に用いられる様になった。
士筒(さむらいづつ)
弾丸重量が十匁程度のものを指す。
威力は絶大だがあまりにも高価で扱いが難しい為、十分な鍛錬と財力を持つ侍のみが用いる事ができた。
彼らはこの侍筒を武家奉公人に持たせ、必要に応じて用いた。
短筒
馬上筒とも言う。
馬上での使用や護身用に用いられていたとされる。
銃身が短く、片手で扱える。
ヨーロッパの騎兵のピストルに近い。
大鉄砲
抱え大筒とも言う。
二十匁以上の弾丸重量を有するもので百匁クラスのものも存在する。
通常の弾丸の他、火矢などを用いて攻城戦・海戦で構造物を破壊する為に用いられた。
差火点火式・地上設置型である通常の大筒と異なり、銃床とカラクリを用いた火縄銃の体裁を持つものを指す。
言うまでもなく反動は強烈であり、射手は射撃時に自ら転がる事で反動を吸収する程である。
そのため確実を期す場合は、地面に据えて擲弾筒のように撃ったり、射台に据えて用いた。
製作地・流派による分類
主な違いとして、銃身の外形(丸、角筒)、肉厚、長さ、銃床の形状、カラクリ(内外カラクリ)、目当などがあげられる。
以下に記するもの以外にも多数あり。
国友筒
堺筒
日野筒
薩摩筒
以上、製作地名を冠したもの。
南蛮筒:海外より伝来した火縄銃を指す。
それを手本に国内で製造されたものは異風筒と呼ばれる。
稲富筒:稲富祐直の仕様に基づいて製作された鉄砲。
関流筒:関流砲術参照。
デモンストレーション
日本各地に鉄砲隊と称しイベント時に火縄銃で空砲をうつ団体が多数できた。
これは伝承砲術によっているものであるが、日本では幕末明治維新期に兵制・武器の西欧化が急速に行われたため、流派の直接伝承はすべていったん途絶えている。
現存する流派は伝来した古文書などを解読して後世再興したものである。
古式銃団体の性格は、大まかに以下の3種に分類できる。
伝書などに準拠し純歴史学的に再興したもの(但し1、2の流派で明治以降も祭礼等で細々と伝承されたものもある)。
地域に伝わった鉄炮衆などの由来に基づき地域の特色ある武術の再現として研究されたもの。
それ以外のもの。
火縄銃射撃競技
ヨーロッパや北アメリカなどでは盛んに火縄銃も含むマズルローダー射撃競技(前装銃射撃競技)がおこなわれている。
(日本からも世界選手権と環太平洋選手権大会に選手を派遣している)
日本国内では日本ライフル射撃協会傘下に日本前装銃射撃連盟があり、競技が行なわれている。
ただし銃砲刀剣類所持等取締法や火薬類取締法などに基づく各種規制があるため、競技人口は極めて少ない。
だが、日本製の火縄銃は極めて高精度にできているため、そんな環境ながら日本の選手は国際大会で上位入賞することが多く、欧米の多くの選手も火縄銃種目では日本製の火縄銃を使って参加している。
アジア地域で国際前装銃連盟に加盟しているのは日本のみである。
日本でおこなわれる競技は、国際ルールと同じ射距離50メートルで「日本公式種子島標的(黒点径40cm)」を使用する「長筒立射」「長筒膝射」。
同標的で十匁玉筒(10匁の重さの弾を使用する銃)を使用する「侍筒」(自由姿勢)。
「フリーピストル標的」を使用し50メートルで前装銃であれば銃種を問わない(火縄銃でなくても使用できる)「ベッテリー」も休止しているが規定上は存在する。
(但し、2005年より千葉県ライフル射場で開催される競技会に限って行っている)
他に同標的で25メートル、短筒を片手撃ちで競う「短筒」。
日本独自の競技
日本独自の競技として、古式に則った、8寸角板に4寸黒丸の「和的(江戸時代規格の標的)」で27メートル(江戸時代は15間)の距離で競う「古式勝ち抜き」及び、5分間に10発撃つ「早撃ち」がある。
銃刀法に定める範囲の古式銃の所持は、現代銃と異なり属人的な免許・許可ではなく、属物的な登録制で、登録は都道府県教育委員会の所管(かつては文化財保護委員会であった)である。
登録は日本刀などと同じく銃に対してなされ、登録を受けた銃器は誰でも所持・所有できるが、実際に実弾・空包の発砲及び火薬の入手所持消費に関しては、その都度(実弾射撃を許可された者は、火薬購入については1年間、また消費は6ヶ月間限定の)所轄の警察署を通じて公安委員会の別途の許可を受ける必要がある。
実弾射撃は指定された射撃場でしか認められない、2005年現在、公営射撃場としては神奈川県伊勢原市の県営伊勢原射撃場、千葉市若葉区の千葉県総合スポーツセンター射撃場、和歌山県海南市の和歌山県営射場、の以上3ヶ所(但し伊勢原射撃場は工事中で使用できない、また他にも私立の射場で可能な所がある)で認められている。
古式銃とは主に前装式銃砲のことを言うが、初期の後装銃も佐賀藩の主力銃であったスペンサー銃(のちにウインチェスター銃の祖形となった)をはじめ、普仏戦争の主要銃であったシャスポー銃(後に村田式の開発の淵源となった)やドライゼ銃(ツンナール)など類種のものも相当数輸入されていた。
ただこれらは維新後に訓練銃などとして使用されたり、外国に売却されたりして、現在国内残存数は比較的少ない。
日本の法律では現在のところ、古式銃とは1867年の時点で国内に存在したことが個別に証明できた国産または外国製の歴史遺物銃器の実物である、ということになっている。
(したがって実物に忠実に作られたものであってもレプリカは認められないが、これは古式銃の登録制度が歴史史料及びその美術価値の保存を目的としていて、射撃に使用することを想定して制定されたものでないことによる。)
ただし真正の古式銃であっても明治以後に新式又は現代の弾薬が使用できるように改造されたもの、あるいは現用の弾薬(装弾)が使用できる可能性のあるもの(もっとも顕著な例は坂本龍馬が使用したと言われるSW・Mk1、Mk2リボルバー)などは(現代銃に準ずる機能を有するもの)として登録審査時に排除され、したがって所有できないものがある。
真正の歴史遺物の国産火縄銃であれば、たとえ外国から里帰りしたものであってもほとんどはそれらの問題は無い。
競技用として、また空包用として使用されているものは国産火縄銃がほとんどで、すべて歴史遺物に限られる。
火蓋を切る
「火蓋を切る」は、物事を開始するという意味で用いられる。
由来には以下の説がある。
射撃を始めるにあたって、火蓋を切る(あける)ことから。
装填したあと火蓋を縛っておいたこよりを戦闘の際に切る動作に由来する。
見当をつける、目当てがある
照準器のうち照門や照尺の事を見当と言い、照星を(さきのめあて)照門を(まえのめあて)と呼んだ。
「見当をつける」は、位置を見極めるという意味で用いられ、照準を定める動作から、位置を見極めることにひろがったと思われる。
早い時期から木版印刷の複数の彫板の位置併せのマークを(見当)と呼ぶことに援用され、こちらの方が広く知られることになった。
「目当てがある」は、心積もりがあるという意味で用いられ、照準を合わせることで的に当たる期待、獲物に当たる期待が生じることから、期待できる状態を(目当てがある)(あてがある)と称する使われ方にひろがったと思われる。
「見当違い・見当はずれ・見当がつかない」も同義の否定的状態を示したものである。
目星をつける、図星(ずぼし)
「星」は我が国においては標識としての黒点の意味がある。
江戸期以降火縄銃の射的に使用された木製の標的板の中央の黒点を「星」と呼ぶ習慣があった。
また碁盤・将棋盤の位置見当のための黒点も「星」と呼ばれている。
「目星をつける」とは目視して中心となる事物を判別することで、標的の「星」を目視・確認する動作から来ている。
「めぼしい」という形容詞もまたこれが由来である説がある。
「図星」とは「星を正確に指す」意味でこれも射的から生じた。
警察用語に「ホシ=容疑者」と言う隠語がある。
古い刑事用語で(目星)の上略語とされる。
古くには「ホシをつける=容疑者を推定する。ホシがつく=容疑が固まる」などの用法もあった(隠語辞典・東京堂出版)。