片岡千恵蔵プロダクション (Kataoka Chiezo Productions)

片岡千恵蔵プロダクション(かたおかちえぞう-、1928年5月10日 設立 - 1937年4月 解散)は、かつて京都府に存在した映画会社である。
当時の若手人気俳優片岡千恵蔵が設立したスタープロダクションであり、設立の翌年に嵯峨野に独自の撮影所を建設した。
稲垣浩の『瞼の母』、『弥太郎笠』、伊丹万作の『国士無双』、『赤西蠣太』、山中貞雄の『風流活人剣』など数々の名作を生み出した。
通称千恵プロ(ちえ-)。

前史

奈良に「連合映画芸術家協会」設立、映画製作をしていた小説家の直木三十五の紹介で牧野省三に会い、1927年(昭和2年)4月にマキノ・プロダクションに入社した片岡千恵蔵は、1928年(昭和3年)2月の月形龍之介の退社を期に、本契約に入った。
しかしその過程で紛糾し、仲裁に入ったマキノの四国ブロック配給会社・三共社の山崎徳次郎すらマキノに怒りを感じる結果を生んだ。

同年4月、山崎は、阪東妻三郎プロダクションの経営者・立花良介、神戸市の菊水キネマ商会の大島菊松らとともに、全国150館の独立系映画館主に呼びかけ、「日本活動常設館館主連盟映画配給本社」を設立した。
そして、独立プロダクションへの製作費の出資と作品の直接公開の方針を打ち出した。
そこで片岡は同年4月にマキノ・プロダクションを退社、同年5月10日に設立したのがこの「片岡千恵蔵プロダクション」である。
同時期にマキノを退社した嵐寛寿郎、山口俊雄 (新派俳優)、中根龍太郎、市川小文治、山本礼三郎がそれぞれプロダクションを設立、千恵プロとともに「日本映画プロダクション連盟」を結成した。
また、山崎に共鳴したマキノの大道具主任河合広始と撮影技師の田中十三もマキノを退社、京都・双ヶ丘に貸しスタジオ「日本キネマ撮影所」(双ヶ丘撮影所)を設立した。

嵯峨野の自社撮影所

千恵プロは設立6日後の同年5月16日に、双ヶ丘撮影所で第1作撮影を開始した。
伊丹万作のオリジナル脚本、稲垣浩監督による『天下太平記』である。
同作には、同時期にマキノを退社して千恵プロに入社した武井龍三や、「市川小文治歌舞伎映画プロダクション」を設立した小文治も出演している。
同作は山崎の「館主連盟」の第1回配給作品となったが、千恵プロの設立第2作伊丹原作・脚本、稲垣監督の『放浪三昧』が公開される直前の7月末に早くも「館主連盟」が瓦解する。
同時に独立したプロダクションたちが解散を余儀なくされていくなかで、千恵プロのみが年内に6本の映画を製作、あらたな自前の撮影所用地の物色をした。

1929年(昭和4年)1月、嵯峨野秋街道町の三条通沿いに「千恵蔵プロダクション撮影所」を開設、骨組み状態で撮影を開始した。
その後同年5月には、日活撮影所の池永浩久により、『相馬大作 武道活殺の巻』、『絵本武者修業』から日活による配給が決まった。
また、9本の千恵プロ作品に出演した武井は同年2月に独立、双ヶ丘撮影所に武井龍三プロダクションを設立した(同年解散)。

1932年(昭和7年)、撮影所内に「トーキー研究会」を設置、P.C.L.映画製作所の「P.C.L.トーキー」による稲垣監督の『旅は青空』を製作した。
1934年(昭和9年)にはトーキー・ステージが完成し、「塚越式トーキー」による製作を開始した。
同年9月、伊藤大輔 (映画監督)監督『建設の人々』を製作する永田雅一の「第一映画」にステージをレンタルしたが、室戸台風でステージが崩壊する。
10月には復興作業に着手、仮ステージで同作の撮影は可能になった。

同年末、日活に提携絶縁状を提出したがそれが訴訟に発展する。
翌1935年(昭和10年)1月、日活の瓦解を目論む松竹が設立した子会社「日本映画配給」に提携先を移す。
しかし日活は経営が立ち直り、松竹の目論みは破れて「日本映画配給」は解体、同年10月には新興キネマの配給となる。
その間、第二トーキー・ステージが完成した。
その半年後の1936年(昭和11年)5月、小説家の長谷川伸の仲介で日活との提携を再開した。

終焉

1937年(昭和12年)4月、千恵プロ百本記念作品『浅野内匠頭』を撮り、『松五郎乱れ星』を製作して同社は解散した。
プロダクションごと日活京都撮影所に招かれた。
同社の解散は、同年早々の片岡本人の3か月にわたる病気休養もあったが、大河内伝次郎の日活退社とJ.Oスタヂオ移籍による日活側の要望であった。
経営不振はなく、片岡の休養時も従業員への賃金の欠配はなかったという。
資料としては『千恵プロ時代 片岡千恵蔵・稲垣浩・伊丹万作、洒脱にエンターテインメント』(冨田美香編、フィルムアート社、1997年)がある。

[English Translation]