酉の市 (Tori no ichi (the Cock Fair))
酉の市(とりのいち)は、例年11月の酉に行われる、各地の鷲神社(おおとりじんじゃ)の祭。
古くは酉の祭(とりのまち)と呼ばれた。
また、大酉祭、お酉様とも呼ばれる。
酉の市で縁起物を買う風習は、関東地方特有の年中行事。
概説
鷲神社は、ヤマトタケル(やまとたけるのみこと)を祀る。
武運長久、開運、商売繁盛の神として信仰される。
近畿地方では大鳥大社(大阪府堺市西区 (堺市))が本社とされる。
しかし、関東各地にある鷲神社との関係は明らかでない。
関東では、鷲宮神社(埼玉県北葛飾郡鷲宮町)が鷲神社の本社とされる。
鷲宮神社の祭神は、天穂日命、武夷鳥命、大己貴命である。
日本武尊が東征の際、この神社で戦勝を祈願したとされる。
古くからこの神社を中心に「酉の日精進」の信仰が広まった。
そして、12月の初酉の日には大酉祭が行われる。
江戸時代には、武蔵国南足立郡花又村(現・東京都足立区花畑 (足立区))にある大鷲神社 (東京都足立区)(鷲大明神)が栄えた。
「本酉」と言われた。
この花又鷲大明神を産土神とする近在住民の収穫祭が江戸酉の市の発端といわれている。
現在の大鷲神社の祭神は日本武尊。
東征からの帰還の際、同地で戦勝を祝したとされる。
江戸時代には、大鷲神社の本尊(神仏習合本地垂迹説)は鷲の背に乗った釈迦とされた。
大鷲神社の酉の市は、15世紀初めの応永年間に始まるとされる。
参詣人は、ニワトリを献納して開運を祈った。
そして、祭が終了した後浅草観音堂前(浅草寺)に献納した鶏を放った
江戸時代後期から、最も著名な酉の市は、浅草の鷲在山長国寺(じゅざいさん・ちょうこくじ、法華宗本門流)境内の鷲大明神社(東京都台東区千束)で行われた酉の市である。
「本酉」「大酉」と呼ばれた花又の酉の市に対して「新酉」と呼ばれた。
当時浅草の鷲大明神は妙見大菩薩(みょうけんだいぼさつ。)とも呼ばれていた。
そして、鷲に乗った妙見菩薩の姿として描かれ、長国寺境内の番神堂(鷲大明神社)に安置された。
11月の酉の日には鷲妙見大菩薩が開帳され、酉の市が盛大に行われるようになる。
鷲大明神社は「鷲宮(わしのみや)」、長国寺は「酉の寺」とも呼ばれた。
明治初年には神仏分離令により、長国寺と鷲神社とに引き分けられた。
現在の鷲神社の祭神は、天日鷲命と日本武尊。
この「本酉」「新酉」の他、千住の勝専寺(赤門寺。浄土宗)が「中酉」と呼ばれた。
それぞれ盛大な酉の市が開かれた。
なお、勝専寺の鷲大明神は、鷲の背に乗った釈迦仏の姿をしている。
そして、3代将軍・徳川家光から賜ったとされる。
現在、勝専寺では酉の市は行われない。
現在では、花園神社(東京都新宿区)、大國魂神社 (府中市)(東京都府中市 (東京都))、鴻神社(埼玉県鴻巣市)、寂光院(群馬県桐生市)など、関東地方各地の社寺で大鳥神社を勧請し、酉の市が行われている。
なお、関東地方以外では浜松市の大安寺(静岡県浜松市中区)で酉の市が行われる。
近畿地方及び四国地方並びに中京圏などでは、名古屋市の熱田神宮にも見られるとおり歴史的に「えびす講」が主流だ。
しかし、例外的に素盞男神社で酉の市が行われる他、大須七寺でも行われている。
なお、「縁起熊手」を売る風習は、全国各地にある。
由来
酉の市の由来は、神道と仏教の双方から、それぞれ異なる解説がされる。
神道の解説では、大酉祭の日に立った市を、酉の市の起源とする。
大鳥神社(鷲神社)の祭神である日本武尊が、東征の戦勝祈願を鷲宮神社で行った。
そして、祝勝を花畑の大鷲神社の地で行った。
これにちなみ、日本武尊が亡くなった日とされる11月の酉の日(鷲宮神社では12月の初酉の日)には大酉祭が行われる。
また、浅草・鷲神社の社伝では、日本武尊が鷲神社に戦勝のお礼参りをしたのが11月の酉の日であり、その際、社前の松に武具の熊手を立て掛けた。
そのことから、大酉祭を行い、熊手を縁起物とするとしている。
仏教(浅草酉の寺・長国寺)の解説では、鷲妙見大菩薩の開帳日に立った市を酉の市の起源とする。
1265年(文永2年)11月の酉の日、日蓮宗の宗祖・日蓮上人が、上総国鷲巣(現・千葉県茂原市)の小早川家(現・大本山鷲山寺)に滞在の折、国家平穏を祈ったところ、金星が明るく輝きだし、鷲妙見大菩薩が現れ出た。
これにちなみ、浅草の長国寺では、創建以来、11月の酉の日に鷲山寺から鷲妙見大菩薩の出開帳が行われた。
その後1771年(明和8年)長国寺に鷲妙見大菩薩が勧請され、11月の酉の日に開帳されるようになった。
実際は、花又の鷲大明神の近在農民による収穫祭が江戸酉の市の発端といわれる。
鷲大明神は鶏大明神とも呼ばれた。
当時氏子は鶏肉を食べる事を忌み、社家は鶏卵さえ食べない。
近郷農民は生きた鶏を奉納し祭が終わると浅草寺観音堂前に放ったのである。
このように鶏を神とも祀った社は、綾瀬川に面しているため水運による人、物の集合に好適であった。
そのため酉の日に立つ市には江戸市中からの参詣者も次第に多くなり、そこでは社前で辻賭博が盛大に開帳された。
しかし、安永年間に出された禁止令により賑わいは衰微する。
かわって、酉の市の盛況ぶりは浅草長国寺に安置された鷲ノ巣の妙見菩薩へと移った。
そして、最も賑わう酉の市として現在に至るのである。
また浅草鷲大明神の東隣に新吉原が控えていたことも浅草酉の市が盛況を誇る大きな要因であった。
時代が下るにつれ江戸の各地で酉の市が開かれるようになった。
今では関東の多くの寺社で開催されるようになった。
このように酉の市とは、秋の収穫物や実用の農具が並んだ近郊農村の農業市が江戸市中へと移行するに従い、招福の吉兆を満載した飾り熊手などを市の縁起物とする都市型の祭へと変遷してきたのである。
習俗
熊手守りと縁起熊手
「酉の市」の立つ日には、おかめや招福の縁起物を飾った「縁起熊手」を売る露店が立ち並ぶ。
また、市を開催する寺社からは小さな竹熊手に稲穂や札をつけた「熊手守り」が授与される。
福を「掃き込む、かきこむ」との洒落にことよせ「かっこめ」と呼ばれている。
酉の市の縁起物は、江戸時代より熊手の他に「頭の芋(とうのいも)」(唐の芋)や粟でつくった「黄金餅(こがねもち)」があった。
頭の芋は頭(かしら)になって出世する、芋は子芋を数多く付ける事から子宝に恵まれるとされた。
一方、黄金餅は金持ちになれるといわれた。
しかし幕末頃から売られるようになった「切り山椒」が黄金餅に変わって市の縁起物となり現在にいたっている。
本格的な寒さを迎えるこの時期、これを食べれば風邪を引かないといわれる。
縁起物の代表である熊手は、鷲が獲物をわしづかみすることになぞらえ、その爪を模したともいわれる。
そして、福徳をかき集める、鷲づかむという意味が込められている。
熊手は熊手商と買った(勝った)、まけた(負けた)と気っ風の良いやり取りを楽しんで買うものとされる。
商談が成立すると威勢よく手締めが打たれる。
(商品額をまけさせて、その差し引いた分を店側に「ご祝儀」として渡すことを「粋な買い方」とする人もいる。)
(そして、手締めはこの「ご祝儀」を店側が受け取った場合に行われる場合が多い。)
(つまり、この方法でいくと結局は定額を支払っていることになる。)
(しかし、ご祝儀については明確に決まっているわけではない。)
(差し引き分以上の場合もあれば、小銭程度であったりもする。)
(このように、買い手側の意思に大きく依存されているようである。)
熊手は年々大きくしてゆくものとされ、大小様々なものが売られている。
三の酉
「酉の日」は、毎日に干支を当てて定める日付け法で、「酉」に当たる日のこと。
これは、12日おきに巡ってくる。
ひと月は30日なので、日の巡り合わせにより、11月の酉の日は2回の年と3回の年がある。
初酉を「一の酉」、次を「二の酉」、3番目を「三の酉」と言う。
「三の酉」まである年は火事が多いとの俗説がある。
その年の11月から歳末にかけて、社会一般で火事に気をつけることがよく言われる。
余談だがその年には熊手商の多くは縁起熊手に「火の用心」のシールを貼って売りだす。
なお、2006年(平成18年)11月の酉の日は、4日、16日、28日の3回で、三の酉まであった。
2008年(平成20年)11月の酉の日は、5日(水)、17日(月)、29日(土)。