重要文化財 (Important Cultural Properties)

重要文化財(じゅうようぶんかざい)とは日本に所在する建造物、美術工芸品等の有形文化財のうち、文化史的・学術的に特に重要なものとして文化財保護法に基づき日本国政府(文部科学大臣)が指定した文化財を指す。
重文(じゅうぶん)と略称されることが多い。
国立文化財機構は重要文化財を英語でImportant Cultural Propertiesと称している。

地方公共団体(都道府県、市町村)がそれぞれの文化財保護条例に基いて指定する有形文化財についても「県指定重要文化財」「市指定重要文化財」等と呼称される場合があるが、単に「重要文化財」という場合は通例国が指定した有形文化財のことを指す。
本項では特記なき限り、文化財保護法第27条の規定に基づく国指定の重要文化財について記述する。

「文化財」と「重要文化財」

「文化財」とは、国や地方自治体の指定・選定・登録の有無に関わらず有形無形の文化的遺産全般を指す用語である。
文化財保護法では「文化財」を「有形文化財」「無形文化財」「民俗文化財」「記念物(史跡、名勝、天然記念物)」「文化的景観」「伝統的建造物群」の6つのカテゴリーに分類している(同法第2条第1項)が、このうちの「有形文化財」に該当するもので、国(文部科学大臣)によって指定されたものを「重要文化財」と呼称している(同法第27条第1項)。

上述のように、法令・行政用語としての「重要文化財」は国の指定を受けた文化財全般を指す用語ではない。
これは、国指定の有形文化財のみを指す用語である点に注意を要する。
似通った用語として「重要無形文化財」「重要有形民俗文化財」「重要無形民俗文化財」などがあるがこれらはいずれも「重要文化財」とは別個のカテゴリーであり、たとえば「重要有形民俗文化財」を略して「重要文化財」と呼称することは適当でない。

国宝と重要文化財

重要文化財のうち製作が特に優れたもの、歴史上特に意義の深いものなど学術的に価値の特に高いものが国宝に指定される。
法的には国宝も重要文化財の一種である。

なお、1950年(昭和25年)の文化財保護法施行以前の旧制度下では、現在の「重要文化財」に相当するものがすべて「国宝」と称されていたので混同しないよう注意を要する。

都道府県・市町村指定の有形文化財

文化財保護法の規定により、地方公共団体(都道府県・市町村)は国指定の文化財以外の文化財について「当該地方公共団体の区域内に存するもののうち重要なものを指定して、その保存及び活用のため必要な措置を講ずることができる」とされている(同法第182条第2項)。
これに基づき各都道府県・市町村ではそれぞれ文化財保護条例を定め、有形・無形の文化財の指定を行っている。
これらの文化財については「○○県指定文化財」「○○市指定文化財」などと表記され、国指定の文化財と区別されている。

都道府県・市町村指定の有形文化財については「東京都指定有形文化財」のように「有形文化財」と呼称するケースが多いが、同様の文化財を青森県では「青森県重宝」、長野県では「長野県宝」、鳥取県では「鳥取県指定保護文化財」と呼称するなど一定しておらず、どのように呼称するかは各自治体の文化財保護条例で個々に規定している。
47都道府県のうち福島、群馬、神奈川、岐阜、岡山、広島、佐賀の各県では県条例によって指定した有形文化財を「○○県指定重要文化財」と呼称しており、国の指定した重要文化財と混同しないよう注意を要する。
なお、都道府県や市町村指定の文化財と区別するため観光案内書等では「国重要文化財」「国重文」等の表記をしばしば目にするが、これらは正式の用語ではなく文化財保護法に基づき国が指定した有形文化財については、単に「重要文化財」と呼称するのが正式である。

指定手続の概要

重要文化財指定候補物件については文化庁で事前調査を行い、文部科学大臣は文化審議会に指定すべき物件について諮問する。
文化審議会文化財分科会による審議・議決を経て、文化審議会は文部科学大臣に対し重要文化財に指定するよう答申を行う。
文部科学大臣はこれを受けて指定物件の名称、所有者等を官報に告示するとともに当該重要文化財の所有者には指定書を交付する(文化財保護法27条、28条、153条)。
法的には、文部科学大臣によって指定の事実が官報に告示された日から重要文化財の指定は効力を発する。
なお、指定は「国宝及び重要文化財指定基準」に基づいて行われる。

古器旧物保存方

古器旧物

日本における最初の文化財関連法令と見なされるのは1871年(明治4年)の太政官布告「古器旧物保存方」(こききゅうぶつほぞんかた)である。
この布告に基づいて近畿地方を中心とした社寺等に提出させた「古器旧物」の目録を元に、翌1872年(明治5年)5月から10月にかけて日本初の文化財調査とされる壬申検査が実施された。
ちなみに「壬申」は1872年(明治5年)の干支であり、「検査」は現代日本語の「調査」に相当する。
この壬申検査には文部官僚の町田久成(東京国立博物館の初代館長)、蜷川式胤のほか、油絵画家の高橋由一、写真師の横山松三郎らが記録係として同行した。

宝物

1888年(明治21年)には宮内省に臨時全国宝物取調局が設置された。
局長は後に国立博物館総長となる九鬼隆一であり、係官には近代日本美術史に大きな足跡を残した岡倉天心やアーネスト・フェノロサも名を連ねていた。
ここで言う「宝物」は文化財保護法における「美術工芸品」に相当し、有形文化財のうち建造物を除いたものである。

古社寺保存法

国宝、特別保護建造物

こうした調査の結果をふまえ、1897年(明治30年)に古社寺保存法が制定され日本初の文化財指定が行われた。
1897年(明治30年)12月28日付け官報に初の指定告示が掲載され国宝155件、特別保護建造物44件が指定された。
古社寺保存法における国宝および特別保護建造物は、文化財保護法における「重要文化財」に相当する。
古社寺保存法はその名のとおり社寺所有の建造物および宝物をその対象としており、同法による国宝および特別保護建造物の指定は保存修理等のために国庫から保存金を支出すべき物件のリスト化という意味合いが強かった。

国宝保存法

国宝

その後1929年(昭和4年)、古社寺保存法に代わって「国宝保存法」が制定された。
この法律では、来の古社寺保存法が社寺所有の物件だけを指定の対象としていたのに対し、国、地方自治体、法人、個人などの所有品も国宝の指定対象となった。
また、特別保護建造物の名称を廃止して建造物についても国宝と称することになった。

この法律が制定された背景には、各地の城郭の荒廃や旧大名家の所蔵品の散逸などが懸念されたことがあった。
国宝保存法に基づき、1930年(昭和5年)には東京の徳川家霊廟(個人の所有)、名古屋城(名古屋市の所有)などが国宝に指定され、翌1931年(昭和6年)には東京美術学校(現・東京藝術大学)保管の絵画等(所有者は国)が国宝に指定された。
国宝保存法による指定は、第二次世界大戦中の1944年(昭和19年)まで継続されたが翌1945年(昭和20年)から指定作業は一時中断し、終戦後は1949年(昭和24年)に2回(2月と5月)の指定が行われたのみである。

文化財保護法

重要文化財

1950年(昭和25年)、従来の「国宝保存法」、「史蹟名勝天然紀念物保存法」、重要美術品を認定した「重要美術品等ノ保存ニ関スル法律」を統合する形で「文化財保護法」が制定された。
この法律制定のきっかけは、その前年に発生した法隆寺金堂の火災と壁画の損傷であったことは広く知られている。
この法律の公布により、従来の「宝物」に代わって「文化財」「重要文化財」の語が初めて公式に使われるようになった。
また、従来法律による保護・指定の対象となっていなかった無形文化財の指定制度が盛り込まれるなど、当時としては画期的な法律であった。

旧法の「国宝」から重要文化財へ

1897年(明治30年)から1949年(昭和24年)までの間に、古社寺保存法および国宝保存法に基づいて「国宝」に指定された物件は火災で焼失したもの等を除き、宝物類(美術工芸品)5,824件、建造物1,059件であった。
これらの物件がいわゆる「旧国宝」であり、これらの物件すべては文化財保護法施行の日である1950年(昭和25年)8月29日をもって、同法に規定する「重要文化財」となった。
そして、「重要文化財」のうちで日本文化史上特に貴重なものがあらためて「国宝」に指定されることになった。
つまり、1950年(昭和25年)以前と以後とでは法律上の「国宝」という用語の意味が異なっており、旧法の「国宝」は文化財保護法上の「重要文化財」に相当する。
この点の混同を避けるため、文化財保護法上の「国宝」を「新国宝」と俗称することもある。
いずれにしても、第二次世界大戦以前には「国宝」であったものが戦後「重要文化財」に「格下げ」されたと解釈するのは誤りである。

指定件数

重要文化財は建造物の部と美術工芸品の部の大きく2つに分かれ、美術工芸品の部はさらに絵画、彫刻、工芸品、書跡・典籍、古文書(こもんじょ)、考古資料、歴史資料の7部門に分かれている。
指定件数は以下のとおりである。

建造物-2,328件4,210棟(うち国宝213件257棟)(2007年(平成19年)12月21日指定分まで)

美術工芸品-10,283件(うち国宝861件)(2007年(平成19年)6月8日指定分まで)

絵画-1,952件(うち国宝157件)

彫刻-2,623件(うち国宝126件)

工芸品-2,410件(うち国宝252件)

書跡・典籍-1,860件(うち国宝223件)

古文書-722件(うち国宝59件)

考古資料-564件(うち国宝42件)

歴史資料-152件(うち国宝2件)

管理団体

文化財保護法は「重要文化財につき、所有者が判明しない場合又は所有者若しくは管理責任者による管理が著しく困難若しくは不適当であると明らかに認められる場合には、文化庁長官は、適当な地方公共団体その他の法人を指定して、当該重要文化財の保有のため必要な管理(中略)を行わせることができる」と規定している(同法第32条の2)。
この規定に基づいて指定された法人を当該重要文化財の「管理団体」と称する。
管理団体が指定されている例として次のようなものがある。

国が所有する城郭について地元自治体が管理団体に指定されているもの(例:姫路城は、所有者は国、管理団体は姫路市)

集落の共有物とされている仏像、石塔などについて、地元自治体が管理団体に指定されているもの

無住の社寺が所有者となっている仏堂、仏像などについて、近隣の別の社寺や地元自治体が管理団体に指定されているもの

特異な例としては栃木県日光市所在の「経蔵」と「本地堂」の場合がある。
これら2棟については日光東照宮と輪王寺のいずれに帰属する建物であるか決着がついていないため、財団法人日光社寺文化財保存会が管理団体に指定されている。

指定解除

文化財保護法第29条には「国宝又は重要文化財が国宝又は重要文化財としての価値を失つた場合その他特殊の事由があるときは、文部科学大臣は、国宝又は重要文化財の指定を解除することができる」との規定がある。
この規定によって重要文化財の指定を解除されたものの大部分は火災によって焼失したものである。
焼失以外の事由によって指定を解除された例としては次のものがある。

1961年(昭和36年)4月10日付けで陶器3件が重要文化財の指定を解除された。
これらは鎌倉時代の古瀬戸の優品として指定されたが、科学的調査の結果、現代の作品であることが判明したもの(別項「永仁の壺事件」を参照)。

1982年(昭和57年)4月15日付けで縄文時代の深鉢形土器1件が重要文化財の指定を解除された。
土器自体は縄文時代の作品であったがこの土器の特色とされた口縁部の蛇形装飾の把手がオリジナルではなく、推定復元であることが判明したため指定を解除されたものである。

近代の作品の指定

絵画

近代の作品は1955年(昭和30年)に狩野芳崖の『悲母観音』と『不動明王』、橋本雅邦の『白雲紅樹』が指定されたのが最初で、以後、日本画・洋画ともに多くの作家の作品が指定されている。
昭和期の作品としては速水御舟の『名樹散椿図』が1977年(昭和52年)に指定されたのが最初であった。

彫刻

近代の作品は1967年(昭和42年)に荻原守衛の作品『女』が指定されたのが最初である。
明治初期に来日し、工部美術学校で彫刻を指導したイタリア人ヴィンチェンツォ・ラグーザの作品も指定されている。

工芸品

近代の作品は2001年(平成13年)に鋳造家・鈴木長吉の「銅鷲置物」が指定されたのが最初である。
陶磁器では板谷波山と宮川香山の作品が2002年(平成14年)に指定されたのが最初であった。

建造物

1974年(昭和49年)に初めて鉄筋コンクリート建造物として重要文化財に指定されたのは旧山邑家住宅(ヨドコウ迎賓館・芦屋市、フランク・ロイド・ライト設計、1924年(大正13年)竣工)。
大正期の建造物としても初の指定で、築後わずか50年でその価値が認められたことになる。
昭和期の建造物として最初に重要文化財に指定されたのは明治生命館(岡田信一郎設計、1934年(昭和9年)竣工)で、1997年(平成9年)に指定されている。
昭和期の建造物としては他に三井本館(1998年(平成10年)指定)、旧東京帝室博物館本館(現・東京国立博物館本館、2001年(平成13年)指定)、綿業会館(渡辺節設計、2003年(平成15年)指定)などが指定されている。
また2006年(平成18年)、原爆犠牲者を弔い世界平和を祈念するための教会堂世界平和記念聖堂(村野藤吾設計、1954年(昭和29年)8月竣工)と広島平和記念公園の中心施設広島平和記念資料館(丹下健三設計、1955年(昭和30年)8月開館)が、戦後建築としては初めての重要文化財指定となった。
さらに船舶として唯一、1978年(昭和53年)に明治丸が指定された。

民家建築の指定

農家、漁家、町屋などの民家建築が文化財として着目されるようになったのは、第二次世界大戦後である。
高度経済成長による日本人の生活様式の変化に伴い、伝統的な民家が急速に姿を消し始めた1960年代から民家の重要文化財指定が積極的に推進されるようになった。
なお、第二次大戦終戦以前に国の指定を受けていた民家は大阪府羽曳野市の吉村家住宅(1937年(昭和12年)指定)と京都市の小川家住宅(通称「二条陣屋」、1944年(昭和19年)指定)のわずか2件のみであった。

建造物と土地の一体指定

1975年(昭和50年)の文化財保護法改正により、建造物とともにその所在する土地を重要文化財に指定することができるようになった。
同法第2条第1項第1号には建造物らのものと「一体をなしてその価値を形成している土地その他の物件」が重要文化財指定の対象である「有形文化財」の概念に含まれることが明記された。
この規定に基づく「土地」の重要文化財指定は1976年(昭和51年)に初めて行われ、民家の建物とともにその敷地が重要文化財に指定された。
民家の重要文化財指定に際して「土地」を併せて指定するということには民家の母屋のみならず、門、塀、蔵、井戸、祠等の付属建物、石垣、水路、庭園、堀等の工作物、さらには宅地、山林などを併せて指定することによって、屋敷構え全体の保存を図ろうとする意図がある。
なお、建造物とともに土地が重要文化財に指定されているケースは民家のほか、社寺や近代建築にもある。

歴史資料の指定

1975年(昭和50年)の文化財保護法改正により、新たな指定分野として「歴史資料の部」が新設された。
「歴史資料の部」の重要文化財新規指定は1977年(昭和52年)に初めて行われ、この時は「長崎奉行所キリシタン関係資料」(東京国立博物館)と「春日版板木」(奈良市・興福寺)の2件が指定された。
なお、従来「絵画」「書跡・典籍」等として重要文化財に指定されていた物件で「歴史資料の部」に移されたものもある。
一例として、仙台市博物館保管の「慶長遣欧使節関係資料」は1966年(昭和41年)に「絵画の部」の重要文化財に指定されていたが上述の文化財保護法改正に伴って「歴史資料の部」に移され、2001年(平成13年)に歴史資料としては最初の国宝指定を受けている。

歴史資料として指定を受けているものには政治家、学者などの歴史上の人物に関する一括資料、古写真やその原板、古地図、古活字、科学技術関係資料、産業関係資料などさまざまなものがある。
人物関係資料としては高野長英、間宮林蔵、坂本龍馬、大久保利通、岩倉具視などの一括資料がある。
科学技術関係では平賀源内のエレキテル、初期の天体望遠鏡、天球儀、モールス電信機などがある。
産業関係では初期の印刷機、製紡機、鉄道車両などがある。

近代化遺産の指定

明治時代以降の日本の近代化に寄与してきた産業・交通・土木関連の建造物である。
具体的には炭鉱、発電所、ダム、水源地、運河、鉄道施設、港湾施設などが、20世紀末頃から文化財の新たなジャンルとして着目されるようになった。
これらを包括的に「近代化遺産」と称し、1993年(平成5年)から「建造物の部」の重要文化財の指定対象となっている。
ちなみに、1993年(平成5年)度に指定されたのは秋田市の「藤倉水源地水道施設」と群馬県の「碓氷峠鉄道施設」の2件であった。
「藤倉水源地水道施設」についてはダム、貯水池、沈殿池などの施設と土地が、「碓氷峠鉄道施設」については連続する橋梁やトンネルに加え発電所などの付属施設と土地が併せて指定されており、単体の建造物としての橋梁やトンネルではなくシステム全体が保存の対象となっている。

[English Translation]