鯨肉 (Whale meat)

鯨肉(げいにく) とは、食品として扱われるクジラ目や、その小型種の一部の総称であるイルカの可食部全般を指す。
狭義にはイルカ類は除く。
筋肉・内臓・鯨類特有の脂皮(脂肪層)などを含む。

鯨類は世界各地で鯨油など多様な利用がされてきたが、鯨肉もその中の重要な用途の一つである。
多様な鯨種と食味や鯨肉の名称にあわせて様々な嗜好や調理法も生まれ、国や地域によって様々な食文化を形成してきた。
現在では商業捕鯨が大きく制限されているため、生産量が減少している。
しかしながら、日本ではそれ以上に食用需要が減少しているため、流通不安はないとされる。
価格も商業捕鯨全盛期と比べると大きく値上がりしており、その高騰が捕鯨問題と関連して争点となる場合がある。
しかしながら、値上がりの主因は産業構造の変化によるものである。

鯨はしばしば最大の「魚」ととらえられ、魚肉のひとつという位置づけで古くから食用とされてきた。
そのため、以下の記述では哺乳類の鯨を「魚」として表記する場合がある。

食文化の流れ
欧米での食文化の流れ
世界各地の沿岸部で古くから鯨肉を食していたことは、考古学的研究から判明している。
中世ヨーロッパにおいてはビスケー湾などで組織的な捕鯨が行われ、鯨の舌が珍重されたほか、肉は広く沿岸民の食糧となった。
特にイルカが食用として好まれ、串焼きやプディング、パイなどに用いられた。
変わった料理法では、捕鯨船などでまれに供されたイルカの脳みそのフライが挙げられる。
大型鯨が食品とはみなされなくなった後も、イルカについては比較的最近まで食用とされていた。
15世紀のイングランド家庭料理についての本にもイルカ料理が登場する。
イングランドの宮廷では17世紀頃までイルカの鯨肉が供された。
19世紀に刊行されたハーマン・メルヴィルの「白鯨」にもイルカの美味はよく知られているという記述がある。
なお、「白鯨」には、ある捕鯨船員の特殊な嗜好としてではあるが大型鯨のステーキを食べる描写もある。
同じく19世紀にアメリカの捕鯨船に救助された日本人船員も、アメリカ人船員は大型鯨肉は毒だからと食べないが、イルカはまれに食べていると記録している。

カトリック教会における小斎のような信仰上の理由から肉食が禁じられているときに、禁忌に触れない「魚」として鯨肉を食べることも多かったようである。

しかし、沿岸鯨類資源の枯渇から沖合い・遠洋へと漁場が移動するにつれ、冷蔵冷凍技術がない時代には持ち帰りが困難となり、徐々に食用とすることができなくなっていった。
なお、鯨肉が利用されなくなったにもかかわらず捕鯨が継続された理由は、鯨油やクジラヒゲなどに工業原料としての価値があったためである。
そして沿岸から離れる過程で、鯨を食用と見る発想そのものが失われていった。
新鮮な鯨肉が手に入り、なおかつ新鮮な食料を必要としていた捕鯨船上ですら、イルカ以外の大型の鯨については一部の船員を除けば食用とはしていなかった。
後に鯨油でマーガリン生産が可能となった時にも、鯨は食品とはみなされていなかったために、鯨製品であるということは秘されて販売されていた。
ただしノルウェーやアイスランドなど沿岸での捕鯨が継続された地域では、例外的に鯨肉食が残存している。
第二次世界大戦時のイギリスなど一部では食糧難の際の代用食として推奨されたが、あまり定着しなかった。
1950年頃にも鯨油価格低下への対応策として鯨肉の商品化が検討されたが、これも失敗に終わり、ペットフードなどに転用された。
最近の鯨体の食用利用としては、前述の鯨油マーガリンを除けば、ノルウェーなどが生産した鯨肉エキスを牛肉エキスの代用としてコンソメ原料などに使用していた例がある程度である。

日本での食文化の歴史
日本においても、組織的な捕鯨産業の成立以前から、鯨肉を食用とすることはあったようである。
小型のハクジラ類を中心に、縄文時代以前を含む旧石器時代の貝塚や、弥生時代の遺跡など古くから出土例がある。
日本では宗教上の理由などから、「肉食」が忌避されたり、公式には禁止される時期が歴史上で度々あった。
しかしながら、欧米の場合と同じく「魚」として食用にされていたようである。

奈良時代から室町時代の鯨肉贈答の記録
712年(和銅5年)の古事記のなかで神武天皇に鯨肉が献上されたという記述がある。
文献「古事記」

1570年(永禄13年)織田信長が禁裏へ鯨を献上。
山科言継は禁裏より織田信長が献上した鯨肉を拝領した。
文献「言継卿記」

1577年(天正5年)水野監物が織田信長に鯨肉を贈った、その返礼が信長よりなされており「鯨一折到 来候細々懇 情別而悦入候 猶参上之時 可申候也 正月十六日信長」という内容の感状が書かれている。
文献「織田信長から水野監物への黒印状」

1582年(天正10年)鯨肉ではないが、「鯨桶」(鯨肉を運ぶための専用の木桶)が、伊勢国より正親町天皇へ2つ、誠仁親王へ1つ、勧修寺晴豊へ1つ献上された。
文献「晴豊記」

1589年(天正17年)高橋丹波守は北条氏政と北条氏規に鯨肉を献上した。

1591年(天正19年)長宗我部元親が豊臣秀吉に鯨一頭献上。
文献「土佐物語」

1612年(慶長17年)里見忠義が榎倉長兵衛を介して伊勢神宮に鯨の尾の皮を献上している。
「一、領分の船、鯨留め候上、壱疋の内より、初尾の為一尺八寸の皮壱枚宛とらるべく候事 慶長拾七 弐月七日 忠義判 榎倉長兵衛殿」
文献「千葉県鋸南町の醍醐家の古文書」

室町時代から江戸時代の鯨料理に関する書籍
室町時代末期に「四條流庖丁書」という料理書に食材としての魚の格付けとして最高位に鯨、二番目が鯉、その他の魚は鯉以下として挙げられている。

室町時代に「大草家料理書」(欠年)という料理書に鯨肉の料理が記載されている。

1561年(永禄4年)には「三好筑前守義長朝臣亭江御成之記」のなかで三好義長が自邸宅において鯨料理で足利義輝をもてなしたという記述が残されている。

1643年(寛永20年)に「料理物語」という料理書の中で10種類の鯨料理が紹介されている。

1669年に「料理食道記」という料理書には、日本各地の鯨肉産地(詳細後述)が記載されている。

1763年(宝暦13年)に「料理珍味集」という料理書に鯨蕎麦切という鯨料理が紹介されている。

1832年(天保3年)には、捕鯨の様子を描いた絵物語の付録として鯨料理専門書「鯨肉調味方」が発行されている。
鯨の約70もの部位についての料理方法として、「鋤焼き」という焼肉風の料理、すき焼きに似た鍋物、揚げ物などが紹介されている。
鯨肉普及のための一種の広報誌だったとも言われる。

天保年間には「日用倹約料理仕方角力番附」という家庭料理書の中で「夏場のおかず位付け(ランキング)」の前頭16番目に鯨料理が紹介されている。

江戸時代から明治までの日本各地の鯨料理

江戸時代より組織的な捕鯨が行われるようになり、それら捕鯨地域周辺の漁村では、鯨肉は常食とされていた。
ただし、九州地方の一部では、初期の突取式捕鯨期には鯨油生産のみが行われて食用習慣が無く、皮下脂肪以外の鯨肉は沖合いに運んで廃棄していたという記録もある。
しかしながら、その九州でも網取式捕鯨が始まる頃までには急速に鯨肉食が盛んになる。
例えば幕末に捕鯨地の長崎県を訪れたフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトも、しばしば鯨料理が供されたことについての記録を残しており、中には「鯨ひげのサラダ」などの特異な献立も記されている。
ツチクジラは、現在の千葉県房総半島太平洋岸のように、該当種の捕鯨が行われてきた地域では古くから食べられ、特有のクセに応じた調理法も工夫されてきた(鯨肉の干物の「鯨のたれ」と呼ばれる加工品など)。

流通の常(つね)で生産地の周辺地域に広く消費される傾向にあるが、大阪など近傍経済圏にもこの頃に生まれた伝統的な鯨肉料理が存在する。
京都では「鯨の吸い物」が食べられているのを井原西鶴が著書の中で紹介している。
十返舎一九も東海道中膝栗毛のなかで大坂の淀川で「鯨の煮付け」を紹介している。
高知県では土佐藩の高知城下を中心に数々の鯨料理が伝承されている。
特に「はりはり鍋」は代表的な物の一つである。
江戸城下では鯨肉を素材に調理した「鯨鍋」や「みそ汁」や「澄まし汁」などが食され、「ホリホリ」「鯨のし」などと称した頭部の軟骨を加工した珍味も売られていた。
全体的な傾向としてはシロデモノと総称された皮下脂肪や尾羽が好まれ、尾の身も高級品とされていた。
しかしながら、赤肉については房総半島の一部などを除くとあまり歓迎はされなかったようである。

行事などと結びついた料理も生まれた。
江戸を含め日本各地で12月13日の煤払い(すすはらい)の後は「鯨汁」を食べる習慣が広まった。
その様子は沢山の川柳の記述や物売りが鯨肉を扱っていた記録が残されている。
秋田県でも鍋物としては珍しく夏の暑気払いとして「鯨貝焼(くじらかやき)」という鯨のしょっつる鍋が江戸時代から食されており、夏場になると五艘程度の小舟の船団で鯨漁に出ていた記録が残されている。
そして明治開拓以降の北海道の日本海側各地で正月料理として鯨汁が食されるのは、秋田藩を中心とした東北の人々が移り住んだ名残といわれている。
北海道のアイヌ民族の鯨食は江戸時代よりも古いとされる。
同じく夏の土用の食べ物としていた地域は多く、九州の農村では土用に備えて各戸で一樽ずつもの皮の塩漬けを作る地域もあった。
塩蔵すれば魚類よりも長期間の保存・輸送に耐えることを活かして、少量は各地に輸送された。
一般の海魚の運ばれない山村等で正月などハレとケ(晴れの席)の料理に供されていた例もある。

昭和以前の需要供給、流通
江戸時代には、江戸の日本橋 (東京都中央区)の魚市では「大には鯨、小には鰯、貴品には鯛、鰈等があるなかにも堅魚は近海の名産にして、四月八日の初市には、衣を典し衿を売るも必ずこれを食ふの旧習民間に行はる」という言葉が残されており、江戸城下で鯨肉が広く一般に流通していたことがうかがえる。
別の文献によると、土佐の捕鯨地からは、近傍の土佐中心部のほか一大消費地である大阪圏へも多量の鯨肉が供給されており、初物をいち早く出荷するべく業者が競っていたと言う。
冬が本場の鯨漁から「鯨九十九日」という言葉が古くから残されており鯨肉の日持ちの良さを表した言葉である。
実際に紀州熊野灘で捕れた鯨が江戸まで流通していた記録が残っている。
オランダで1832年(天保3年)に刊行されたシーボルト著の「江戸参府紀行」によれば鯨は水揚げされたあと、鯨肉など食用にされる部分は各々の魚商が買い上げ新鮮なうちに、日本中の港に運ばれたと記述している。

前掲の「料理食道記」(1669年)には、鯨肉産地として伊勢国や紀伊国、肥前国のほか、松前藩焼鯨(北海道のアイヌによる製品)、出雲国かぶら骨(頭部の軟骨)などが挙げられている。

他に、現在の岩手県、静岡県、和歌山県や四国、東北、北陸地方の一部、沖縄県の北部など捕鯨日本における捕鯨が伝統的に行われている地方では、古くからイルカ肉も流通している。
大型のクジラの鯨肉に比べると地域性の強い食文化であり、特にそれらの地域では重要な地位にあったといえる。
山梨県では古くから隣接する静岡県からイルカ肉が流通している。
(沖縄において鯨類は「ピトゥ」という表現でイルカと区別がなかったのでイルカだけに限定されていたかは定かではない)

外食産業

東京都内の江戸時代から続くどじょう鍋料理店では、160年間以上にわたり「鯨汁」を提供し続けている店もある。
江戸時代の江戸城下では、どじょう鍋屋(柳川鍋ともいう)で鯨汁が出されるのが一般的であった。
一説では一番小さな魚料理のどじょう鍋に対しての洒落から一番大きな魚の鯨汁を提供したといわれた。
だいたいどの店でもどじょう汁と鯨汁は同じ値段で十六文で売られていた。
明治末期にはどじょう汁が一銭五厘、鯨汁は二銭五厘であった。

昭和以降の需要供給、流通

地域的な利用差がある状況は、第二次世界大戦終結まで基本的には変化が無く続いた。
日本近海で操業するロシア捕鯨船が日本で鯨肉を販売して利益を上げていたことなどから、一定の需要はあったものと考えられる。
消費の多い大阪へは、はるばる北海道からの輸送も行われていた。
他方、捕鯨会社の肝いりで東京に開かれた鯨肉料理専門店は繁盛せずに倒産した例もある。
それでも全体として見ると鯨肉食はさらに広まっていたようである。
現存する統計の範囲で比較すると鯨肉生産量は1924年には1万トンであったのが、1930年には3万トン、1939年には4万5千トンに伸びている。
なお、鯨肉食の文化の無い地域を対象に、捕鯨産業の振興策の一環として鯨肉利用の宣伝が行われたこともあった。

1934年(昭和9年)には、日本も南極海の捕鯨に参入した。
しかしながら、当初は沿岸捕鯨で生産される鯨肉価格への悪影響を考慮して製品の持ち帰りを制限した。
そのうえ、日本では冷凍設備が未発達であったことから赤肉はほとんど利用されず廃棄された。
日中戦争が激化すると食糧増産の要請から鯨肉の持ち帰り制限が緩和され、日本最初の大型冷凍船も導入されるなどした。
しかしながら、太平洋戦争開始により南極海捕鯨自体が停止に追い込まれた。
他方、沿岸捕鯨による鯨肉供給は戦時中も続いていた。

第二次世界大戦後の食糧難時代以降になると、流通保存技術の進歩もあって限られた流通圏を越え、日本中に鯨肉食が広まった。
鯨カツレツ、鯨ステーキ、鯨カレーなどの鯨肉料理の大半は、牛肉や豚肉の入手が困難だった時代に、鯨肉を代用獣肉という位置づけの食材として使ったものである。
戦後しばらくは、鯨肉は魚肉練り製品とともに、安価な代用肉の代名詞であり、日本人の重要なたんぱく質源として食生活の中で重要な位置を占めた。
特に鯨の竜田揚げは、戦後の学校給食を代表するメニューとして語られる。
生産量は大きく伸び1958年には13万8千トン、ピークの1962年には22万6千トンであった。
戦後を生き抜いた人々の間では「鯨肉=代用=安物」といった偏見・嫌悪感もある一方で、当時へのノスタルジーを惹起する食材でもある。

また、近年は急速冷凍の技術が発達したことにより「刺身」として供されることも多い。

評価
日本における魚介類・獣肉類の流通・消費形態は、明治期以降著しく変化している。
鯨肉の消費の歴史を考えるうえでは、魚介類・獣肉類全体の流通・消費形態の変化を理解することが不可欠である。
鯨肉をめぐる食文化論には、「江戸時代には鯨食が文化として根付いていた地域が多数存在した」「日本国内で鯨食が一般化したのは第二次世界大戦後であり、その位置づけは代用獣肉であった」というもの等がある。
また、「食文化として一切存在しなかった」「あまねく存在した食文化であった」とする論は正しくないとされる。

かつては、新鮮な魚介類が食べられる地域は、海に囲まれた日本でも多いとは言いがたかった。
大坂(現在の大阪)のように海に面した土地でも、塩漬け、酒粕などの加工を施した食品がほとんどであった。
京都では棒鱈や身欠きニシンなどの干物ばかりであった。
しかし、鮮魚や活魚に対する羨望は江戸のみならず京都でも同じであった。
当時大阪では見向きもされなかった「鱧(ハモ)」が唯一「活魚」として運ぶ事が出来たので京都に鱧料理文化が花開いたといわれる。
(川魚はあったが量が少ない上に生食には適さなかった。
琵琶湖の魚もなれずしなどの加工されたものが主であった)。

鮮魚の流通は少なく鯨や魚も食材ではなくその他の利用が多かったとする論評

他方、海から遠い地方ほど、食品としての水産品は貴重な存在であり、加工品であっても行事のときにそれらをハレの食膳に上らせることができるのは大きなステータスであったと考えられる。
ただ、行事等の機会に通常食べることのできない貴重な食品を食べるのは、単なる贅沢というだけではなく、栄養補給の機会を設けるという意味もあった。
沖縄県における豚肉の伝統的な位置付けも同様(常食できるようになったのはかなり新しい時代)である。
鯨肉も保存、加工が難しいこともあって、広く流通していたわけではなかった。
したがって、鯨油を灯油や防虫資材として各地へ供給する一方、肉は主として地元で消費するといった形になったとされる。
海から著しく隔たった山村等の一部で、鯨肉の塩蔵品等が貴重視され、行事のときの料理に使う習慣が受け継がれてきた地域が存在する。
なお、鰯の場合、江戸時代に木綿生産などが盛んになって以後は、流通量的には油を絞った残りの利用としての肥料{魚肥類(肥料)鰯など油を絞った残りかす}が主体だったようである。
鮮魚類が大量に流通・消費され、漁村に大きな利益をもたらすようになるのは明治期以降、保存技術が進歩してからのことである。

鮮魚の流通は多く鯨や魚も食材としての利用が多かったとする論評

もっとも、明治以前においても、江戸時代の経済発展に伴い、水運路の整備のため東北地方から九州まで河川改修が進み、物資の流通は飛躍的に伸びてはいた。
水運記録によれば、東北から九州まで幅広く魚の干物や鮮魚の流通があったことは事実であり、主に海浜から内陸部に運ばれていたようである。
特に生鮮食料品(鮮魚も含む)は真夜中の通関を許すほどの気の使いようで、関所では頻繁に夜勤をしていた。
上りは海の幸などを積み、下りは山の幸を積んでいた。
そんため、日本全国で物資の偏りは相対的に少なくなった。
例えば、鰯の輸送記録を見ても、明確に干物や魚肥類(肥料)とは区別されて鮮魚が存在している。

流通量や利潤で食文化を測るべきではないとする論評

例えば鯛や伊勢海老は現在でも日常的に食卓に上るとは言いがたいが、「食文化の中で重要ではない」とはいえない。
前述のように、鯨肉は戦国武将の友好のための贈答品とされたり、食材の格付けとして魚の中で最高位にあった事など高い評価を受け、正月や節季など縁起に係わるものとしての地位を有していた。
そうした点からすると、食文化として大切であるともいえるのである。

現在の流通
生産者から一般小売まで
2007年現在の日本では、ミンククジラ(約3500トン)とイワシクジラ(約1200トン)、ニタリクジラ(約400トン)の鯨肉が生産され、全国的な流通の中心となっている。
ナガスクジラ(2006年で約250トン、2007年は約70トン)や、ツチクジラ(約400トンだが、消費は東日本に偏る)も一定の流通がある。
供給源は主に捕鯨日本における捕鯨の副産物で、ツチクジラに関しては捕鯨日本における捕鯨での漁業捕獲である。
一部は定置網での混獲鯨由来である。
海外からの輸入は1991年を最後に行われていないが、現在も捕鯨を行っているノルウェーやアイスランドからの輸入が検討されている。
密漁や密輸された鯨肉の存在を主張する見解もある。
しかしながら、1998年を最後に検挙事例はなく、また鯨肉供給総量が増加していることなどからリスクに見合わないとの指摘もある。

調査捕鯨の副産物は、調査捕鯨の実施主体である日本鯨類研究所が卸元である。
市販用と公益用の区分があり、一般流通に回る市販用が生産量の8割以上を占める。
市販用については、従来は、調査捕鯨の実務を委託されている日本共同船舶株式会社を通じ、各都道府県の中央卸売市場での販売などが行われてきた。
2006年からは、鯨肉市場開拓などを目的とした新設会社の合同会社鯨食ラボも加わって、新たな販路が検討されている。
もっとも市販用といっても完全に自由な流通に委ねられてはいない。
各卸売市場への配分は過去の消費実績などを基に水産庁や有識者による検討で決定され、その後も公的性格を有する産品として農林水産省総合食料局流通課による指導の下で取引されている。
その際には、なるべく公平かつ廉価に配分されるよう努めるものとされている。
鯨肉の名称ごとに価格決定されて、刺身用などの鮮肉のほか、ベーコンや大和煮缶詰などの加工原料として流通する。
流通過程では遠洋漁業水産物一般と同様、ほとんどは冷凍状態で保存管理されている。
しかしながら、沿岸調査副産物の一部(100トン弱)は生鮮品としても流通している。

最終的にはスーパーマーケットなどの商店で販売されるほか、インターネットなどを通じた通信販売を行う小売業者も存在する。
前出の鯨食ラボ社も、インターネット上で直営の通信販売事業を行っている。
千葉県の房総半島の伝統食鯨のたれのように、地域の特産品となり、土産物として販売される例もある。

小型捕鯨のうちツチクジラ以外の種類、及び岩手県や静岡県、和歌山県などで現在も行われているイルカ漁の産品は地元での消費が多い。
生産量は両漁業をあわせてゴンドウクジラ類300トン強、イルカ類1000トン弱である。
もっとも、時おり遠隔地まで流通する場合がある。
例えば、伝統的に静岡からの流通がある山梨県のほか、東京都内のスーパーマーケットなどでも魚肉コーナーで販売されていることがある。
イシイルカについては九州地方での利用が比較的多い。
単に「鯨肉」と表示されてしまう場合もあるため、特にイルカ肉と認識されないで消費されることもあると思われる。
ただし、これは現在では農林物資の規格化及び品質表示の適正化に関する法律上において不適切な表示にあたる。

なお、小型捕鯨業では、伝統的に捕鯨従事者への一種の現物支給として鯨肉分配がされる習慣があり、現在でも一部でそうした利用が継続している。

外食産業等
各地の老舗をはじめ鯨料理の専門店が存在するほか、メニューの一つとして取り入れている例もある。
北海道函館市近郊に店舗展開するファストフード店の「ラッキーピエロ」では、ハンバーガーのレギュラーメニューの一つとして「くじら味噌カツバーガー」を提供している。

前出の鯨食ラボ社では、配食産業や病院食などでの利用を検討している。
病院食としてみた場合、低脂肪の赤身肉などは食餌療法に有効な食品ではないかと言われる。
他の獣肉への食物アレルギーと重複しにくい利点もある。

ほか、公益用として流通した調査捕鯨副産物は学校給食でも利用され、鯨肉のだぶつきを反映しての消費拡大政策もあり、広がる傾向を見せている(「広がる鯨肉給食 4 都府県 100 校以上で"復活"」産経新聞 2006年2月14日)。

供給過多との指摘
2006年上半期には、国内における鯨肉の供給過多(だぶつき状態)が各紙で報道されている()。

1月30日
- 産経新聞 「『クジラ』在庫 10 年間で倍増 調査捕鯨拡大で供給過多」
2月11日
- 朝日新聞 「鯨肉の在庫、調査捕鯨拡大で増加 水産庁が消費拡大に」
9月5日
- 読売新聞 「意外にダブつく『忘れられた味』 クジラ どんどん売り込め!」

ただし、上記の記事で倍増とされているのは、物流在庫などをまとめた「流通在庫」である点に注意が必要である。
流通総量が増加しているのに伴い物流在庫も増えるので、単純な比較はできない。
捕鯨問題と関連して争点となることがある。

鯨種と食味
鯨肉には鯨の種類ごとに様々な味わいがあるといわれる。
しばしば「鯨肉」として同一に扱われる。
しかしながら、クジラが生物学的にはクジラ目に属する多くの種の総称であることを考えると、マグロもサバも同じ『サバ亜目の魚』として同一に扱うのに近いと言える。
もっとも美味・不味の判断は個々人の主観や文化・環境などによるところが大きい。
そのため、以下に述べるのはあくまで一般論である(さらに部位ごとにも味は異なるが、これは後述の鯨肉の名称を参照)。
評価者に影響されることを考えると、そもそも味で食文化を評価すること自体に意味が無いという意見もある。

食味は、まず大きく「ハクジラ(マッコウクジラ、ツチクジラ、イルカ類など)」と「ヒゲクジラ(シロナガスクジラ、ナガスクジラ、イワシクジラ、ミンククジラなど)」で異なり、それぞれの中で更に異なっている。

このうち、ハクジラに属するマッコウクジラは、日本では鯨油目的で捕鯨が行われた地域の食材として使われたことはある。
そかしながら、きわめて強いクセを持っていることから、基本的には食用には適さないとされる(世界的にもインドネシアの一部などを除き、ほとんど食用とはされない)。
もっとも、日本では鯨皮から鯨油を絞った残りかすの「油かす (食品)」については食用の習慣がある。
なお、油脂の成分(蝋)が消化しにくいので、油抜きをしないで一度に大量に食すると下痢を起す可能性がある。

また、同じくハクジラに属するツチクジラやイルカ類も、マッコウクジラほどではないがクセが強く、地域や個人により嗜好が強く分かれるとされる。
例えば、和歌山県の太地では、主たる捕獲対象種はヒゲクジラ類だったがハクジラ類のゴンドウクジラも伝統的に食用として好まれてきた。
古くからツチクジラ漁で知られる千葉県の外房地域では、基本的に「血抜き」をせず「血を味わう」と表現されたりもするものであり、あえてクセの強さが強調されている。
また沖縄においても血と共に肉を炒めるといった積極的に血を利用する料理もある。

これに対して、ヒゲクジラに属する鯨類の肉は、ハクジラ類よりは味のクセが少なく牛肉などに近い食味であるとされる。
赤身については特に馬肉に近いとの評があり、実際に馬肉を鯨肉と詐称して販売していた例が報告されている。
ただしヒゲクジラ類の中でも、鯨種によってかなりの差がある。
ミンククジラは、日本では戦前から小型捕鯨業の重要対象とされ、1960年代から大型捕鯨の対象にもされるようになった。
肉の繊維が細やかであるとか、小型のため脂肪の乗りが少ないなどと評される。
イワシクジラやニタリクジラは江戸時代から食用にも供されてきた種類で、鯨肉の生産効率が高い。
大型のナガスクジラの尾の身やサエズリは、脂の乗りが良く高級品として扱われる。

鯨肉の名称
鯨肉には様々な部位があって食味が異なり、調理法も分かれている。
日本では、伝統的に以下のような部位に分類されてきた。
ただし、方言が多い。
前述のように鯨種によって取れる部位が異なったり、同じ部位でも食味が違ったりする場合がある。

セセリ
- 舌。
さえずりともいう。
高級部位とされる。
付け根と先端でも味が異なり、全体に脂肪が多い。
コロに加工されて関西のおでん種等に用いられるなどした。

オバ(尾羽)
- 尾びれ。
脂肪とゼラチン質からなる。
「おばけ(尾羽毛)」「おばいけ」とも。
塩漬にし、後述の「さらしくじら」に用いる。

オノミ(尾の身)
- 尾びれの付け根の霜降り肉で、現在は最高級部位とされる。
尾肉。
刺身やステーキに用いられる。
ミンククジラでは霜降り程度が弱く、厳密にはほとんど存在しない。

ヒメワタ(姫腸)
- 食道のこと。
茹でて食べる。

ヒャクジョウ(百畳)
- 胃のこと。
茹でて食べる。

ヒャクヒロ(百尋)
- 小腸のこと。
茹でて食べる。

マメワタ(豆腸)
- 腎臓のこと。
茹でて食べる。

フクロワタ(袋腸)
- 肺。
煮物のほか、生食も。

カラギモ
- 肝臓。
あまり普通の食用にはせず、肝油ドロップなどにする。

ホンガワ(本皮)
- 表皮と皮下脂肪層。
刺身のほか、後述の「コロ」や「塩鯨」にする。

カノコ(鹿の子)
- あごからほほにかけての関節周辺の肉で、鹿の子状に脂肪の中に筋肉が散り、霜降り状態のもの。
同じ霜降り肉でも、尾の身より歯ごたえがある。
はりはり鍋や刺身で食べる。

アカニク(赤肉)
- 背肉、腹肉などの脂肪の少ない部位。
赤身肉。
生産量の30-40%を占める最も多い部位であり、かつての学校給食にも供給された。
鯨カツや竜田揚げのほか、現在では刺身にも多く用いる。

シロデモノ(白手物)
- 赤肉の対語。
本皮などの皮下脂肪部分の総称。
白肉。

ウネス(畝須)
- ヒゲクジラの下あごから腹にかけての縞模様の凹凸部分の肉。
ベーコン材料のほか茹でても食す。

ヒゲ
- 若いセミクジラのクジラヒゲが食用にされた例もある。
代用醤油の原料にも使われた。

コヒゲ
- 歯茎の部分。
薄く切って食用にすることがある。

カブラボネ(かぶら骨)
- 上あごの骨の内部にある軟骨組織。
松浦漬や玄海漬に用いるほか、江戸時代には鯨熨斗(くじらのし、ホリホリともいう)という珍味にも加工された。

タケリ
- ペニス。
江戸時代には薬効があると称された。

キンソウ
- 睾丸。
茹でて食べる。

ヒナ
- クリトリス。

食品として加工された後の名称として以下のようなものもある。

油かす (食品)
- 鯨肉を揚げて油を絞った残りを乾燥させたもの。
大阪で好まれ、本来は再利用であったはずが、積極的な生産対象にまでなった。
本皮を原料とした一般的なコロ(煎皮とも)のほか、舌を原料としたサエコロ、内臓のダブ粕などがある。
マッコウクジラのものが庶民には親しまれた。
鹿児島ではセシカラと呼ぶ。

ウデモノ(茹で物)
- 百尋ほか各種内臓を茹でたものの総称。

末広
- 畝須を茹でたもので、主に長崎での呼び名。
断面が末広がりであることに由来。
薄く切り生姜醤油などで食す。

塩鯨
- 本皮を塩漬けにしたもの。
古くから山間部までかなり広く流通し、鯨汁や煮物に用いられてきた。

さらしくじら
- 塩漬の尾羽毛を薄く切って熱湯をかけ、冷水でさらしたもの。
酢みそで食べる。
これも「おばけ」などと呼ぶほか、白く透明な外見から「おば雪」「花くじら」とも。
本皮の塩鯨も同様に調理できる。

くじらベーコン
- 畝須を塩漬けにしてから燻製にしたもの。
縁が赤く着色されていることが多い。
薄切りしたものを軽く火であぶるなどして食べる。
原料の不足から、本皮で代用されることもある。

鯨肉の旬
野生生物を食用とする多くの場合と同じように、鯨肉にも旬があり、同じ種類でも季節によって味わいが異なる場合がある。
例えば、南極海のヒゲクジラ類については、採餌海域である南極海に回遊してきて間もない時期には痩せて脂肪の乗りが少なく、長期間滞在するうちに脂肪が豊富になるといわれる。
イルカについては日本では冬が旬といわれ、冬の季語ともなっている。

栄養価
部位によって栄養成分は異なる。
鯨肉の特徴として脂肪の多くが皮下脂肪に集中しているため、赤肉は低脂肪でタンパク質が豊富な食品である。
赤肉は鉄分も多い。
他方、脂肪にもドコサヘキサエン酸(DHA)やドコサペンタエン酸(DPA)などの人体に有益と言われる脂肪酸が、鮪や他の獣肉に比して豊富に含まれている。

鯨肉の汚染問題
生物濃縮により人体に有害な重金属やポリ塩化ビフェニル(PCB)類などがクジラの体内に蓄積されているので、鯨肉は汚染されているとの指摘があり、一部の国では摂食制限が行われている。
日本でも、水銀の含有濃度が高いハクジラ類については、キンメダイなど他の魚介類と並んで、妊婦を対象とした摂取量に関するガイドラインが定められている。
他方、ヒゲクジラ類については比較的有害物質の含有濃度は低く、特に南極海で捕獲されたものに関してはほとんど蓄積が無いことから、特段の制限は設けられていない。
ハクジラ類についても、あくまで妊婦のみを対象とした一定量への制限に留まっており、一般人の摂食については幼児や授乳中の母親なども含め問題ないとされている。
なお、調査捕鯨副産物については調査の一環として試験が行われており、一定の安全基準を超えた個体は流通させない措置が講じられている。
(詳細は捕鯨問題汚染の問題参照)

食用以外の鯨肉の利用
鯨肉は、食用以外の工業資源としても利用された。
鯨由来物の工業資源としての利用としては鯨油が代表例ではあるが、鯨肉も例外ではない。
(クジラクジラの利用も参照)

日本では鯨肥と呼ばれる肥料の原料として使用された。
鯨肉・鯨骨・鯨皮などを煮て石臼などで粉砕したものであり、鰯肥などと同様の海産肥料として使われた。
江戸時代から鯨油の絞り粕の再利用等として行われている。
明治時代以降に近代捕鯨基地として使われた宮城県牡鹿町鮎川浜(現石巻市)などでは、鯨肥生産が地場産業として栄えていた。
鮎川浜の場合、食用に適さないマッコウクジラが対象鯨種であった。
そのため、食用とされた鯨肉はごく一部であり、余剰鯨肉が生じていた。
これらは当初は海洋投棄されていた。
しかしながら、周辺海面を汚染するとして地元漁民の反発を受けたこともあって工業資源化され成功したものである。

[English Translation]