五十瓊敷入彦命 (Inishikiiribiko no mikoto)

五十瓊敷入彦命(いにしきいりびこのみこと)は、記紀に伝えられる古墳時代の皇族(王族)。
垂仁天皇の第2皇子(第1皇子は垂仁天皇と狭穂姫の子、誉津別命(ほむつわけのみこと))。
五十瓊敷命、印色入日子命(『古事記』)とも。

事績

『日本書紀』の編年に拠る。

垂仁天皇には狭穂姫という皇后がいた。
皇后の兄である狭穂彦の反乱事件の際、兄とともに死を迎えたが、その後天皇は新たに日葉酢姫を皇后に迎え、第一子に五十瓊敷入彦命、第二子に大足彦命(景行天皇)をもうける。

垂仁天皇30年、天皇が兄弟に対しそれぞれが欲するものを尋ね、兄の五十瓊敷入彦命は「弓矢」を欲し、弟の大足彦命は「皇位」を望み、大足彦命が垂仁天皇の後継者に決まったとされる。

同35年9月、河内国に派遣され、高石池や茅渟(ちぬ)池を始め多くの池溝を開く。
同様に広く諸国をまわり農業を盛んにして人々の生活に安定をもたらし、民から厚く崇敬されたと伝える。

同39年10月、「菟砥川上宮」(うとのかわかみのみや。現在の大阪府阪南市自然田付近か?)にて剣千振を作る。
石上神宮に納める。
垂仁天皇は五十瓊敷命に命じて神宮の神宝を掌らせる。

同87年2月、老齢を理由に神宝を大中姫に託す。
大中姫は神宝を物部十千根に授けて治めさせた。
物部氏が石上神宮の神宝を管理する由縁はこのことであるという。

終焉に関する伝承

岐阜県岐阜市にある「伊奈波神社」に伝わる伝承によると、五十瓊敷入彦命は朝廷の詔を承けて奥州を平定したが、一緒に同行した陸奥守豊益が五十瓊敷入彦命の成功を妬んで、命に謀反の心ありと讒奏したため、朝敵として攻められてこの地で討たれた。
夫の死を知った妃の渟熨斗姫命(ぬのしひめのみこと)は、都を離れてこの地で御跡を慕い、朝夕ひたすら命の御霊を慰めつつ生涯を終えたという。
なお、五十瓊敷入彦命は伊奈波神社の主祭神として、現在も厚く崇敬されている。

参考までに触れておくと、江戸時代の偽書とされる『天書』は、薨去の年月日を垂仁天皇93年(64年)2月24日 (旧暦)とする。
ただし、同書に上記の縁起と関わるような記事は一切ない。

石上神宮の伝承によると、五十瓊敷入彦命は石上神宮の拝殿から東南の隣地に住み、老衰したので、妹の大中姫に祭祀を継がせようとした。
が、神宝を納める庫の高い階(高橋)に、女だてらに上るのはいやだと拒否され、仕方なく物部十千根 大連に任せたといわれている(この祭祀とは、神宝の出し入れもしていた可能性がある)。
前述の事績中、垂仁天皇紀87年2月条にも同じ話が載っている。
年をとって亡くなった様に伝えられている。

墳墓

宇度墓古墳(うどはかこふん。
淡輪ニサンザイ古墳とも)

大阪府泉南郡岬町淡輪に所在。
5世紀後半に築造された全長200mの大型前方後円墳。
五十瓊敷命の墓と伝えられるが確証はなく、現在宮内庁の管理下にある。
最寄り駅は南海本線「淡輪駅」。

[English Translation]