亮子内親王 (Imperial Princess Ryoshi)
亮子内親王(りょうしないしんのう、久安3年(1147年) - 建保4年4月2日 (1216年4月27日))は、第77代後白河天皇の第一皇女。
母は高倉三位藤原成子(大納言藤原季成女)。
斎宮、のち安徳天皇・後鳥羽天皇の准母・皇后、女院。
院号は殷富門院、法名は真如観。
同母弟妹に以仁王・守覚法親王・好子内親王・式子内親王・休子内親王がいる。
久寿2年(1155年)父後白河天皇即位。
同3年(1156年)4月19日に内親王宣下、斎宮卜定。
同年9月野宮に入る。
保元3年(1158年)後白河天皇譲位により斎宮退下。
安元3年(1177年)母成子薨去、治承4年(1180年)同母弟以仁王が平家打倒に挙兵するが敗死。
寿永元年(1182年)安徳天皇准母として皇后宮に冊立。
翌年(1183年)後鳥羽天皇践祚により再び准母となる。
文治3年(1187年)院号宣下、殷富門院と号する。
建久3年(1192年)後白河法皇の崩御により落飾。
建保4年(1216年)4月2日崩御。
享年70。
後白河天皇と高倉三位藤原成子の間に生まれた最初の皇女。
父後白河天皇の即位に伴い斎宮となった。
しかし、わずか2年で譲位したため、亮子内親王も群行のないまま退下した。
後に甥安徳天皇の准母として立后した。
平家が西国へ逃れた後は後鳥羽天皇の准母となる。
さらに院号宣下を受け殷富門院となる。
また以仁王の遺児で守覚法親王に弟子入りしていた道尊を養子とした。
晩年に御所安井殿に建立した蓮華光院は道尊を開基として後に安井門跡と呼ばれた。
なお亮子内親王の女房には、歌人として知られる殷富門院大輔がいた。
また藤原定家の姉の京極局と健御前も仕えていた(『明月記』)。