侍従 (Jiju (chamberlain))
侍従(じじゅう)とは、広義では(しばしば高貴な立場の)ある人物に付き従い、身の回りの世話などをする行為、または従う者そのものを指す。
日本においては、特に天皇に側近奉仕する文官や位を意味するため、この項目ではこれについて解説する。
なお、武官による侍従武官や皇太子に付される東宮侍従については、それぞれ項目を参照のこと。
律令官制の侍従
日本の官制の侍従は、和名を「まへつきみ(まえつきみ)・おもとびと・おもとびとまちぎみ」、唐名は拾遺などという。
大宝律令によると、従五位下相当官で、中務省に属するとされた。
定員8名であったが、時代と共に増員され、最大20名程まで増員された。
うち3名は少納言を兼任した。
侍衛官であるため帯剣した。
平安時代に蔵人所が設置されてその役割が急速に縮小され、多くは大納言、中納言、参議が兼任するようになる。
中世においては、侍従は専ら儀礼を担当することなり、天皇に側近奉仕する官としての色合いが薄れた。
定員が8名の頃、92名の次侍従が置かれ、侍従と併せて100名の定員とした。
次侍従は四、五位で長年の勤務実績がある者が、八省、その他の役所から選抜され任命された。
職掌は天皇の側で雑務を担当した。
近代以降の侍従
1869年 (明治2年)、宮内省に属することとなった。
1871年にはその長として侍従長が置かれ、徳大寺実則・河瀬真孝・東久世通禧の3人が任命された。
宮内省官制(明治40年皇室令第3号)によると下記のようにされていた。
「侍従長ハ親任又ハ勅任トス常侍奉仕シ侍従職ヲ統轄シ便宜事ヲ奏シ旨ヲ宣ス」
「侍従ハ……奏任トス側近ノ事ヲ分掌ス」
第二次世界大戦後は、一時期の宮内府時代を経て宮内庁侍従職に属する。
国家公務員法(昭和22年法律第120号)施行以降も、侍従は同法の適用を受けない特別職とされ、一級官・二級官などの区別が存続していた(官記に「二級に叙する」などと記載)。
が、中央省庁再編後は官記への級別記載はされなくなった。
侍従長の職は認証官であり、その任免は天皇により認証される。
近代の侍従(除侍従長)
山岡鉄太郎:幕臣出身。
加藤泰秋:子爵。
元伊予国大洲藩主。
島義勇:明治3年頃。
秋田県権令・開拓使判官
藤波言忠:明治10年 - 明治12年侍従試補、明治12年 - 明治22年侍従。
子爵、宮中顧問官。
小倉庫次
河井弥八:侍従次長。
後に参議院議長。
甘露寺受長:侍従次長・東宮侍従。
伯爵、明治神宮宮司、掌典職
永積寅彦:侍従次長、掌典長。
昭和天皇御学友。
陸軍大将大迫尚道の三男。
穂積重道:穂積重遠の子。
鈴木一:昭和22年4月から侍従次長。
中尉、首相秘書官、入国管理庁長官。
侍従長・首相鈴木貫太郎の長男。
木下道雄:
手塚英臣:侍従次長を2005年(平成17年)3月に退任する。
千沢治彦:1964年に学習院大学卒業。
1993年(平成5年)に侍従に任じられる。
2005年から侍従次長。
岡部長章:岡部長職の八男でのちに京都外国語大学教授となる。
妻は岩崎輝弥の長女。
広幡忠朝:陸軍大尉侯爵
広幡忠隆:侯爵。
皇太后宮大夫兼侍従次長
山縣有道:公爵、式部官。
東宮侍従
田内三吉:1902年に東宮侍従。
後正三位勲一等陸軍少将。
穂積重遠:男爵。
1945年8月から東宮大夫兼東宮侍従長。
後に最高裁判所裁判官。