修学院離宮 (Shugakuin Imperial Villa)
修学院離宮(しゅがくいんりきゅう)は京都市左京区の比叡山麓にある宮内庁所管の離宮である。
17世紀中頃(1653年(承応2年) - 1655年(承応4年))に後水尾天皇の指示で造営された。
桂離宮・仙洞御所とならび、王朝文化の美学の到達点を示すものとなっている。
概要
修学院離宮は上御茶屋(かみのおちゃや)、中御茶屋(なかの-)、下御茶屋(しもの-)と呼び習わす3か所の庭園からなり、面積は54万平方メートルに及ぶ。
各御茶屋の間には田畑が広がり、細い松並木道が各御茶屋を結んでいる。
上御茶屋と下御茶屋は、後水尾上皇(第108代天皇)の指示により、1655年(明暦元年)から1659年(万治2年)にかけて江戸幕府が造営した離宮である。
後水尾上皇は女中に変装して輿に乗り、造営中の離宮を自ら訪れて造営の指図をしたというが、真偽のほどは定かでない。
上・下御茶屋は1884年(明治17年)、宮内省の所管となった。
一方、中御茶屋は、同じ頃後水尾上皇の皇女の御所として造営されたもので、1885年(明治18年)に修学院離宮に編入された。
修学院離宮は、第二次大戦後は、京都御所、桂離宮などと同様、「皇室用財産」(所有者は国)と位置づけられて、宮内庁が管理している。
見学には、事前に宮内庁京都事務所に、郵送・直接申請あるいはインターネットを通じて申し込んで許可を得る必要がある。
また18歳未満の者の見学はできない。
施設
下御茶屋
池泉観賞式庭園で、門・塀以外の建物と柿葺(こけらぶき)の屋根を乗せた簡素な建物である。
水墨の襖絵は後水尾上皇時代のものではなく、江戸後期の絵師・岸駒(がんく)および岡本豊彦の筆になる。
寿月観前庭の飛び石や、庭に立つ袖石灯篭も有名である。
中御茶屋
後水尾上皇の第8皇女・光子内親王のために1668年(寛文8年)造営された朱宮(あけのみや)御所が前身である。
朱宮御所は上皇の死後、林丘寺(りんきゅうじ)という寺に改められていた。
1885年(明治18年)、楽只軒(らくしけん)と客殿を含む、林丘寺境内の約半分が宮内省に返還され、修学院離宮の一部となった。
なお、林丘寺は門跡尼寺として今も存続している。
楽只軒は前述の朱宮御所の一部で、1668年(寛文8年)頃の造営である。
書院造の客殿は、1677年(延宝5年)造営された東福門院(後水尾天皇女御、徳川2代将軍秀忠娘)の女院御所の奥対面所を移築したものである。
客殿一ノ間の霞棚は、桂離宮の桂棚、醍醐寺三宝院の醍醐棚とともに「天下三棚」の一として知られる。
上御茶屋
巨大な人工池の浴龍池(よくりゅうち)と大刈込を中心とした壮大な庭園である。
御幸門から石段を上った離宮内の最高所に隣雲亭が建つ。
ここまで登ると、急に展望が開け、眼下に浴龍池、遠方に借景の山々を望む壮大な風景が広がる。
隣雲亭は1824年(文政7年)の再建で、展望を目的とした、装飾のほとんどない簡素な建物で、床(とこ)・棚も設けていない。
内部は6畳の一ノ間、3畳の二ノ間と6畳間3室からなる。
一ノ間北東の板張りの縁は「洗詩台」と呼ばれている。
軒下の三和土(たたき)には赤と黒の小石が埋め込まれ「一二三石(ひふみいし)」と呼ばれている浴龍池には中島、万松塢(ばんしょうう)、三保ヶ島という3つの島があり、土橋、楓橋、中国風の千歳橋の3つの橋が架かる。
中島には窮邃亭(きゅうすいてい)が建つ。
窮邃亭は修学院離宮において創建当時のまま残る唯一の建築で、三間四方、柿葺(こけらぶき)、宝形造(ほうぎょうづくり)。
内部は18畳1室である。
アクセス
京都市バス 修学院離宮道から徒歩15分
叡山電鉄叡山電鉄叡山本線修学院駅から徒歩20分